名鉄資料館でみてきたもの (3) 新名古屋駅開業ぜんごの沿線案内図

2016年9月15日、名鉄資料館にいっていろんな展示物をみてきた。ほれらのものをちょこっとづつ紹介していっとるだけど、こんかい第3回は新名古屋駅開業ぜんごの沿線案内図を紹介する。

新名古屋駅開業まえの沿線案内図

新名古屋駅の開業は1941年8月12日。うん、太平洋戦争がはじまったのが1941年12月ようかだで、ほのわずか4か月まえのことだ。よのなかがアメリカとの戦争にむかってすすんどった時代だね。ほんな時代に新名古屋駅は開業しただ。で、ほの開業まえの路線図ってことで、まんだ名鉄全線が東部線と西部線にわかれとって、当時は碧海電鉄だったわが西尾線をふくむ東部線は神宮前どまりだっただ。西部線のほうは押切町から路面電車区間にのりいれて、柳橋どまり。

20160915 名鉄資料館 (8) 路線図 - 新名古屋駅開業まえの沿線案内図 1240-720
〔かくだい〕

さて、部分的に拡大してみてみる。まずは、西三河地区。いまの三河線がまんだ三河鉄道になっとる。きたは西中金(にしなかがね)まではいいだけど、みなみはいまの蒲郡線区間までが三河鉄道だっただ。ほれと挙母線と岡崎市内線もまんだ三河鉄道のもんだった。いっぽうで、西尾鉄道と平坂支線はまあはい名鉄にくみこまれとるね。ところでわが西尾線だけど、このときはまんだ碧海電鉄が運行しとった。ぜんたいにいまより充実した路線網だけど、名鉄以外の私鉄もがんばっとっただね。

新名古屋駅開業まえの名鉄沿線案内図(西三河) 720-1280
〔かくだい〕

つぎに名古屋都心部。さっきいった東部線が神宮前どまり、西部線が柳橋どまりなのがわかるね。あと、瀬戸線は堀川までのりいれとった。館長さんのはなしによると、瀬戸のせとものをここまではこんできて、舟運につないどったとのこと。瀬戸線布設のそもそもの目的がせとものをはこぶことにあったらしい。

20160915 名鉄資料館 (10) 路線図 - 新名古屋駅開業まえの沿線案内図 720-1260
〔かくだい〕

さいごに、岐阜市以北。うーん、岐阜市内線はある。ほれにつながる美濃町線は関から美濃町までいっとる。揖斐線は本揖斐までいってはおるけど、岐阜市内線と忠節のとこでとぎれとる。揖斐線から黒野で分岐する谷汲線はくろいほそ線になっとるけど、これは谷汲鉄道っていう他社線だったみたいだね。

20160915 名鉄資料館 (11) 路線図 - 新名古屋駅開業まえの沿線案内図 1280-720
〔かくだい〕

新名古屋駅が開業したあとの沿線案内図

新名古屋駅が開業したあとは、いっきにあかい実線がふえる。ほれまで他社線だったものを名鉄が合併しただ。いや、ほれにしても、この「沿線案内図」のさいしょのとこにかいてある「たかめよ交通道徳」「大東亜の指導国民」の文字が戦争のいろこさをものがたる。

20160915 名鉄資料館 (104) 路線図 - 名鉄沿線案内 1280-575
〔かくだい〕

西三河地区もぜんぶあかい実線になった。

名鉄電車沿線案内(西三河) 720-1210
〔かくだい〕

鉄軌道開業いちらん

これはおまけだけど、廃止区間をふくめた名鉄全線の路線図にそれぞれ区間の開業年をかきこんだ地図をさいごにけいさいしとく。

20160915 名鉄資料館 (75) 路線図 - 鉄軌道開業いちらん 620-690
〔かくだい〕

20160915 名鉄資料館 (76) 路線図 - 鉄軌道開業いちらん 1160-720
〔かくだい〕

20160915 名鉄資料館 (77) 路線図 - 鉄軌道開業いちらん 1200-720
〔かくだい〕

20160915 名鉄資料館 (78) 路線図 - 鉄軌道開業いちらん 720-1280
〔かくだい〕

20160915 名鉄資料館 (79) 路線図 - 鉄軌道開業いちらん 1080-610
〔かくだい〕


(さんこう)

悠紀斎田と西尾鉄道

1900年、全国で耕地整理法が施行され、中島村(なかじまむら)ではいちはやくこれを実施。1911年、西尾と岡崎をむすぶ西尾鉄道が開通し、中島村にもえきができる。1915年、大正天皇即位にともなう大嘗祭(だいじょうさい)につかう新米を生産する悠紀斎田(ゆきさいでん)にえらばれた中島村のたんぼで、おたうえ式がおこなわれる。全国からあつまってくるおたうえ式参観者の輸送に西尾鉄道はだいかつやく。

以上がきょう2016年9月22日にかくにんできたことがらなだけど、資料のある岡崎市悠紀の里(おかざきしゆきのさと)や西尾鉄道廃線あとに案内してくださった、中島村、いまは岡崎市中島町におすまいのわがフェースブックともだち甲さんには感謝もうしあげたい。

以下、それぞれのことがらについてまあちょっとくわしく説明し、きょうみてきた西尾鉄道廃線あとのようすについても紹介する。

20160922_153106 矢作古川鉄橋 - 西尾鉄道試運転列車(1911年)1050-680

◇            ◇

中島村の耕地整理

中島村の耕地整理については、さいしょにかいたとおり全国でもいちはやく実施されたもんだけど、耕地整理前后の地図をくらべてみると、ほのすばらしさがようわかる。不整形で面積もちいさなたんぼやはたけが、整形で面積もおおきなものにかわっとる。じつにみごとだ。中島村での実施をかわきりに、六ツ美(むつみ)地区全域にひろがっていったとのこと。

20160922_153958 中島の耕地整理図
(中島の耕地整理図)

西尾鉄道の開通

1911年、岡崎新-西尾間で開業した西尾鉄道は、つぎの写真のように、ちいさな蒸気機関車が客車をひっぱる軽便鉄道(けいべんてつどう)だった。

20160922_153106 矢作古川鉄橋 - 西尾鉄道試運転列車(1911年)1050-680
(矢作古川鉄橋 - 西尾鉄道試運転列車(1911年))

開業后も路線を延伸。1915年の悠紀斎田おたうえ式までには、平坂方面は港前まで、吉良方面は横須賀口までたっする。さらに吉良方面は、このとしのうちに吉良吉田までたっする。

20160922_153052 1915年大嘗祭悠紀斎田当時の西尾鉄道路線図
(大嘗祭悠紀斎田当時の西尾鉄道路線図)

悠紀斎田

中島村のたんぼが悠紀斎田にえらばれたのは、全国でもいちはやく耕地整理がおこなわれたことがかわれたためらしい。国策に協力して美田を整備したっていうことだね。悠紀斎田で生産された新米がつかわれる大嘗祭ってのは、つぎにかいてあるとおり、一代の天皇のうちにいっかいだけおこなわれるっていう、とってもとってもだいじな儀式だっただ。中島村のひとたちがいまもこのことをほこりにおもっとるっていうのも、うなずける。

20160922_154300 大嘗祭とは - 斎田地いちらん
(大嘗祭とは - 斎田地いちらん)

ちなみに悠紀斎田と同様の同様のもので主基斎田(すきさいでん)ってのもあるだけど、悠紀斎田が東国からえらばれたもので、主基斎田が西国からえらばれたものであるとのこと。

20160922_154318 悠紀斎田、主基斎田とは
(悠紀斎田、主基斎田とは)

西尾鉄道廃線あとをたずねる

岡崎市悠紀の里のある中島から西尾口駅にかけては、ほとんどのとこで廃線あとが道路に転用されとって、これをとおっていくことができた。いや、じつにおどろきだ。1943年の西尾鉄道の廃止からまあはい73年もたつっていうのに。

安藤川鉄橋もこのように橋台がはっきりとのこっとる。この鉄橋は線形改良のためにかけかえられたっていい、かけかえのあとはかわをななめにわたるようになった。う~ん、はし部分がながくなることは、建設のときもほのあともおかねのかかることなのに、ようやったもんだって感心。

20160922_162209 安藤川鉄橋あと 20160922_162308 安藤川鉄橋あと
20160922_162353 安藤川鉄橋あと
(20160922_162209 安藤川鉄橋あと)(162308)(162353)

安藤川鉄橋から西尾方面をみても、このとおり廃線あとを転用した道路がつながっとる。カントリーロード♪テイクミーホーム♪ってかんじのみちだ。

20160922_162323 安藤川鉄橋あとから西尾方面をみる
20160922_162646 安藤川鉄橋あとから西尾方面をみる
(20160922_162323 安藤川鉄橋あとから西尾方面をみる)(162646)

矢作古川鉄橋のあとも、このようにはっきりわかる。

20160922_163115 矢作古川鉄橋あと
20160922_163523 矢作古川鉄橋あと
(20160922_163115 矢作古川鉄橋あと)(163523)

矢作古川鉄橋からは、八面山(やつおもてやま)のみなみがわのふもとにそって、廃線あとを転用した道路がのびていく。

20160922_163713 矢作古川鉄橋あとから西尾方面をみる
(20160922_163713 矢作古川鉄橋あとから西尾方面をみる)

さらに、西尾市民病院をとおって西尾口駅にいたり、廃線あとをたどるたびをおえる。

20160922_164255 西尾口付駅近の西尾鉄道廃線あと
20160922_085227 西尾口駅付近の西尾鉄道廃線あと
(20160922_164255 西尾口付駅近の西尾鉄道廃線あと)(20160922_085227)


(さんこう)