【解説】 〜「西尾鉄道と 岡崎」〜

2011年 10月 30日に 岡崎の りぶらで みて きた 「西尾鉄道と 岡崎」の 資料の うち、【解説】を 4点 紹介する。

西尾鉄道と 岡崎軽便 鉄道とは?悠紀斎田と 西尾鉄道戦時 体制の したで きえた 路線



岡崎むかし館 企画展
西尾鉄道と 岡崎
−開業から 100年を むかえて−
01-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 解説
01-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 解説

いまから 100年 まえの 1911年 10月、現在の JR 岡崎駅 みなみから、六ツ美 (むつみ)地区 (当時は 碧海郡 六ツ美村)を へて、西尾までを むすぶ ちいさな 鉄道が 開通しました。「西三軌道 (せいさんきどう)」と いう なまえで スタートした この 鉄道は、翌年には 「西尾鉄道」と 改称し、岡崎電気軌道 (のちの 岡崎市内線)が 北部へ むかって 路線を のばして おったのに たいし、西三河の 海岸部へと 延伸して いきました。

この 鉄道は、通常より レールの はばの せばい、いわゆる 軽便 (けいべん) 鉄道で、ひとびとから 「軽便」と よばれ、したしまれて おった ようです。こがたの 蒸気 機関車に 2、3両の 客車を 連結して はしる すがたが、現存する わずかな 写真に のこされて おります。どこか ほほえましい ふうけいです。

歴史を ふりかえって みると、明治 末期から 大正、昭和 初期は、にほんの 産業の 発展に ともなって、全国 各地で、じもと 資本に よる 鉄道が 布設された 時代でした。自動車は まんだ 普及して おらず、いちどに おおぜいの ひとびとや たくさんの 商品を はこぶ ことの できる 鉄道は、地域の 経済と 観光の 発展に かかせん 主要 交通 手段だったのです。じぶんたちの すむ 地域に 鉄道が 開通したり、駅が できる ことは、きっと いま 以上に ひとびとの ゆめや 希望を ふくらませた ことでしょう。

1915年 6月に とりおこなわれた 悠紀斎田 (ゆきさいでん) お田植え式 (おたうえしき)には、臨時 列車を 運行するなど、はなばなしく 活躍した ことも あった 西尾鉄道。しかし 電化など 時代の ながれに おいつけず、合併を よぎなく され、太平洋戦争中の 1943年 12月に 廃止されました。わずか 32年の 運命でした。

こんかいの 展示では、西尾鉄道の みじかい あゆみと、いまも 岡崎 南部 周辺に のこる わずかな 遺構 (いこう)や、のこされた 関係 資料を 紹介します。みなさんの すんで おる 地域にも、まんだまんだ わすれては いかん ほの 「土地の 記憶」が、かたちを のこして みなさんを まって おるかも しれん・・・、ほんな ことを かんじて、ふるさと 岡崎を みなおして いただければ さいわいです。

企画に あたっては、じもと だけで なく 国内外の 鉄道を、ながねんに わたり 研究されて おる 藤井建氏より 多大な ご協力を たまわりました。また 市川満氏を はじめと する 市民の みなさま、名鉄資料館、岡崎市美術博物館からも、貴重な 資料を ご提供いただいて おります。この ばを かりて あつく おれい もうしあげます。



軽便 鉄道とは?
02-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 軽便 鉄道とは?
02-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 軽便 鉄道とは?

一般的には 軌間 (レール はば)が 762mm 以下 (JR 在来線や おおくの 私鉄は 1067mm、新幹線や 関西の 私鉄や おおくの 地下鉄は 1435mm)の こがたの 鉄道の ことですけど、1910年に 施行された 軽便 鉄道 法を 適用して 布設された 鉄道を さす ことも あります。

この 法律は 鉄道の 全国的な 普及を めざして、ほれまでの 私設 鉄道 法を おおはばに 緩和した 内容と なって おりました。さらには くにの 補助も あった ため、全国に 軽便 鉄道の 布設 ブームが おきました。現在の 名鉄 三河線の 前身で ある 三河鉄道も、この 法律に のっとって 布設されましたけど、レール はばは 最終的に 1067mmでしたので、ほの 意味では 「軽便」とは いえません。

西尾鉄道は、一般的な 意味でも 法律的な 意味でも 両方 あてはまる 軽便 鉄道です。



悠紀斎田と 西尾鉄道
03-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 悠紀斎田 (ゆきさいでん)と 西尾鉄道
03-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 悠紀斎田 (ゆきさいでん)と 西尾鉄道

1914年、大正天皇 即位に ともなう 大嘗祭 (だいじょうさい)に つかう 新米を 生産する 斎田 (さいでん)に、当時の 六ツ美村の 水田が えらばれました (京都より ひがし、きた にほんを 「悠紀 (ゆき)の 地方」、にし、みなみ にほんを 「主基 (すき)の 地方」と する ことから、「悠紀斎田」と 称する)。いまでは 想像できませんけど、愛知 県内の 水田が 悠紀斎田に 選定された ことは、愛知県 あげての おおきな 祝賀 行事で、非常な 歓迎を もって うけとめられた、ほこるべき できごとだったのです。

1915年 6月、全国から おおきな 注目を あびる なかで おこなわれた 悠紀斎田の お田植え式への 参観者を はこぶ ため、西尾鉄道は 客車の 増結や 臨時 列車の 増発で 対応しました。当日の 中島駅は おおぜいの 乗降客で、たいへんな にぎわいを みせたそうです。



戦時 体制の したで きえた 路線
04-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 戦時 体制の したで きえた 路線
04-111030 「西尾鉄道と岡崎」展 戦時 体制の したで きえた 路線

1938年に 施行された 陸上 交通 事業 調整 法に より、鉄道も じょじょに 戦時 体制下に おかれ、政府 主導で 会社の 統合や 軍需 むけ 新線の 建設が すすめられて いきました。そんな なか、岡崎新−西尾間の 路線は、不要 不急の 路線と 判断されて しまい、1943年 12月 18日、営業 休止を よぎなくされました。

おおくの 郷土史などでは、撤去された レールや 資材は、軍事 施設で ある 豊川 海軍 工廠 (こうしょう)への 輸送を になう 豊川市内線 (国府 (こう)−市役所前間)の 布設に 再利用された ことに なって おります。しかし、じっさいに 作業で たずさわった もと 名鉄 職員の かたがたの 証言に よれば、本線 なみの 規格で 布設された 碧海電鉄 (現 名鉄 西尾線)の 一部 レールが、当時 最 重要 路線と して 計画された 新名古屋 (いまの 名鉄名古屋)−神宮前間の 連絡 工事の ため 供出されたので、ほれを うめる ために 岡崎新−西尾間の レールが つかわれた、と いわれて おります。

はっきりした 記録は のこって おりませんけど、戦時下の 状況を ものがたって おると いえましょう。



(さんこう)