きのう2017年5月19日、大井宿(おおいじゅく)にいってきた。大井のまちのもとになったのが大井宿で、大井のまちがいまの恵那市の中心部だ。いや、郡名を冠した恵那市なんていうなまえじゃなくて、ほんとなら大井市ってなのるべきだったっておもう。太田宿と美濃加茂市の関係もおんなじだ。
江戸時代、中山道のとちゅうで名古屋方面にえだわかれする下街道(したかいどう)っていう街道があっただけど、江戸のほうからきて、この大井宿をすぎたとこにほの分岐点があったっていう地理的条件から、大井宿はおおいにさかえたっていう。未成線におわったけど、明治になって掛川-天竜二俣-大井っていう路線が計画されるほど、大井のまちにはいきおいがあっただ。
きにはなっておりながら、これまで中央線から明知鉄道にのりかえるときに恵那駅をつかうだけだった大井のまちについて、こんかい大井宿を中心にみてきたってわけだけど、ほのようすを以下に紹介する。
◇ ◇
恵那えきまえどおり
えきの正面からまっすぐみなみに恵那えきまえどおりがのびる。電柱も地中化されすっきりしたとおりだ。
大井宿にいくまえに、恵那えきまえどおりにみつけたエイトっていうみせでひるをとる。
中山道ぞいじゃあないけど、恵那えきまえどおりをちょこっとよこにはいったとこに、こんなふぜいのあるたてもんもある。いまは営業をやめちゃったみたいだけど、信濃屋っていう看板はのこっとる。木造3階だてのたてもんは旅館だったのか。
大井宿
ひるをとったエイトっていうみせよりもえきにちかいとこで、中山道が交差する。これをひがしにあるいていくと太田宿にいける。
にしにいくとこのかどに、くりきんとんのみせがある。中津川のくりきんとんは有名だけど、大井にもくりきんとんがあるだ。東濃(とうのう)一帯の名物か。
中山道をひがしにあるく。
すぐにはしがある。阿木川(あぎがわ)にかかる大井橋っていうはしだ。らんかんに説明がきがあって、西行がほのむかしここ大井でいおりをむすんで、詩をよんだっていう。詩のなかにある「花無山」って、どのやまだ。みなみにみえるいくつかのやまのうちのどれかか。
はしからきたをみると、ちょうど中央線の鉄橋を電車がとおっていくのがみえる。宿場町と電車、いい光景だ。
さて、大井橋をひがしにわたったとこからが大井宿になるだけど、中山道はいきなりひだりにおれて、とおまわりしてひがしにのびていく。この直角にとおまわりするかたちを「桝形(ますがた)」ってよぶだげな。ひだりに1回、みぎに2回まがって、ふたたびひだりにまがってむきがひがしにもどるだけど、2回めの右折と2回めの左折のあいだに、むかしの庄屋さんのたてもんがある。
2回めの左折のみぎてまえかどに旅館いち川っていうたてもんがある。いまもやっとるみたいだ。
また、中山道をひがしにすすむ。みちは、かたがわにしゃれた歩道があることでもわかるように、よう整備されとるだけど、クルマがけっこうないきおいではしってきて、きをつけてあるかんとあぶない。
宿役人(しゅくやくにん)のいえってのがある。それぞれ宿場には人馬つぎたてや休泊などのしごとをする役人がきめられとって、ほの役人のうちがこのうちだっただ。
宿役人のいえ (58) 中山道 - 宿役人のいえ、(59) 説明がき
林家は1805年に本陣家より分家して以来、明治にいたるまでの60余年間、代々大井宿役人の問屋役をつとめ、苗字帯刀をゆるされたいえがらである。
当家はまぐち7間半おくゆき25間あり11畳、10畳、8畳、6畳、4畳などのへやが14室もあるおおがた旅籠屋であった。ほのうちひがしがわ2間はつちかべでさかいをして、どまにつづいて式台つきの8畳のへや3室が特別客室となっとった。
なお宿役人には問屋(最高責任者)、年寄(問屋の補助役)、ほの下役人に人足指(にんそくさし)(人足のさしずをする役)、書役(かきやく)などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中のにもつやひとの輸送、飛脚などの継立(つぎたて)事務をおこなう、宿場のもっとも重要な役人であった。
(恵那市、恵那市教育委員会)
大井宿もそろそろひがしのはてだってとこで、こんなでっかい土蔵のうちがあった。説明がきの看板もなくて、ふつうの民家みたいだ。土蔵のなかになにがはいっとるのか。
中山道ひし屋資料館
でっかい土蔵のうちのむかいがわに中山道ひし屋資料館ってのがある。説明がきの看板に、150年間、この大井村の庄屋をつとめた旧家だったってかいてある。当時の屋号「菱屋」からとって、ひし屋資料館っていうなまえにしただ。あとで、ここの案内人のおばさんがおしえてくれただけど、まんだなんねんかまえまでは、当時からつづく古山家のひとがすんどっただげな。
大井村庄屋古山家 (61) 中山道ひし屋資料館、(62) (大井村庄屋古山家)
古山家は江戸時代に屋号を「菱屋(ひしや)」っていい、酒造と商売を営業しとった。ほいで享保年間(1716年から1735年までの期間)から幕末までおよそ150年間、大井村の庄屋をつとめた旧家である。
やしきはまぐち10間半(19メートル)、おくゆき35間(63メートル)のしきちのなかに、14畳、10畳、8畳のへやなど合計8室、ほれに土蔵をもつ広大なたてもんがあった。
いまのたてもんは明治初年に上宿より移築したもんで、前面にふとい格子をはめ、はねあげ式のおおどがつき、おくざしきにはとこのま、ちがいだな、書院、いりがわ廊下のある10畳ふたまがつづき、江戸時代のふんいきをいろこくのこしとる。
(恵那市、恵那市教育委員会)
資料館にはいって、案内人のおばさんの説明をうける。いちばん感銘をうけたのが、このしょうじのガラス。にわのけしきがゆらゆらとゆれてみえる。いや~、わがおさないころもガラスっていやあこういうガラスだっただよな~。均一な製品をつくる技術がなかっただ。このガラス、明治初年のもんで、これがわれちゃったらかえがないっていう。われちゃわんことをいのる。
(63)、(64)、(65) 中山道ひし屋資料館 - しょうじのガラス
このらんまのしょうじもおもしろい。たてざんの本数がみぎから7本、5本、3本ってことなっとって、七五三のふきよせおさらんまっていうなまえがついとる。
(66) 中山道ひし屋資料館 - 七五三のふきよせおさらんま
この天井もおもしろい。まんなか部分はごくふつうのさおぶち(竿縁)天井だけど、周囲の部分だけ、みじかいはばひろのいたでいげた状にはりめぐらされとる。ほのなもいげた天井っていう。
玄関からまっすぐおくにつきぬけるどま。このどまからよこにへやにあがるかたちだ。じつに宿場っていうかんじなだけど、この玄関のとがまたおもしろい。じつは格子戸(こうしど)のてまえに、くぐりぬけ用のちいさなとのついたいたどがあって、ほれがはねあげて固定された状態になっとる。往時はまいばんこれをおろしてどろぼう対策としとっただげな。ほのなもはねあげおおどっていう。はねあげ式じゃなくてひきどにせやあよかったじゃんかっていう疑問については、まぐちのはばがたらんくてこういうふうにしただっていうこたえ。
にわにでて、いどと土蔵をみる。いどは現役で、みずやりにつかっとるだげな。
案内人さんの資料で、みてきたもんのなまえを再確認。「七五三のふきよせおさらんま」って「七五三の吹寄筬欄間」ってかくだ。
さいごは、ご自由にみてくださいってことで、なやみたいなたてもんのなかの展示物をみていく。さいしょにかいたけど、江戸時代、大井宿は交通の要地でおおいにさかえた。いま東濃地域でにぎわっとるっていうと多治見と中津川だっておもうけど、むかしは大井のほうがさかえとったのかもしれん。
交通の要地大井宿 (72) 中山道ひし屋資料館 - 「交通の要地大井宿」
ここからは名古屋、伊勢につうじる下街道(したかいどう)や、岩村をへて秋葉山など遠州へぬける岩村道(秋葉道)があり、伊勢まいり、善光寺まいり、秋葉まいりのひとびとでにぎわった。
宿内には本陣、脇本陣、問屋場(会所)などにつづき旅籠屋(はたごや)40余軒がのきをつらねとった。各種の講宿もおおく、近江日野商人の定宿も数軒あって、休憩や宿泊とともに商業活動の拠点としてもさかえた。
ほいから、ここ大井は西行伝承のおおくのこる地でもあるらしい。さいしょに大井橋のとこでも西行の「花無山」の詩が紹介されとっただけど、ここ大井に3年間いおりをむすんどっただ。西行っていうと1100年紀の人物だ。中山道の宿となった時代よりもはるかむかしから大井の地はさかえとったのか。
たび日記にみる西行伝承 (73) 中山道ひし屋資料館 - 「たび日記にみる西行伝承」
中山道の各種のたび日記には大井宿一帯の西行伝承が紹介されとる。なかでも国学者であり、民俗学、考古学の調査記録者である菅江真澄は『粉本稿(ふんぽんこう)』にさしえつきで紹介しとる。
「みのの国おおいのすくよりいりて花なし山といふあり。此麓に竹林山といふ寺ありて、西行上人みとせすみ給ひしといふ也。いま、たかはやしの中に礎二ツ三ツあり。是をいにしへのあととて、寺か洞とよふ。上人よみ給ひし歌とて、『花なしのみねにすみける鶯はおのれ鳴てや春をしるらん』『こころある人にみせはや大ゐなる花なし山のはるのけしきを』。かかるふたくさは鶯の子のくちすさみてけり。ちかきみちのかたはらに、こたかきところに上人のしるしとて、五りんをすへたり。のちの人、あととふらわんためとか、こころある人は、のほりて、せになと手向て過けり。」
大井宿えず (74) 中山道ひし屋資料館 - 「大井宿えず」
1861年、和宮通行にあたり作成されたもの
案内人のおばさんに礼をいって、大井の宿をあとにする。
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(さんこう)
- 案内のおねえさんからも…|いわせあきひこ|フェースブック|2017年5月19日16:07
- 案内のおねえさんからもしっかりはなしがきけて、おおいに満足♪ 中山道ひし屋史料館のまえで記念さつえいをして、っていうかしてもらって、大井の宿をあとにする♪
- 七五三ふきよせおさらんま…|いわせあきひこ|フェースブック|2017年5月19日15:53
- 七五三ふきよせおさらんま、いげた天井、はねあげおおどもおもしろい。
- 七五三ふきよせおさらんま
- いげた天井
- はねあげおおど(げんかんひきどのてまえうえ)
- よるはこのおおどをしたにおろして、防犯力をたかめたとのこと。
- ふつうのあまどだと「ひきど」になるとおもうですけど、玄関のはばがせばくてひきどにできず、やむをえずこのような「はねあげしき」のものにしたとの説明でした。
おろしたとこみてみたいですけど、安全性を確保するためでしょうか、いまはこのはねあげた状態で固定してあるようです。ええ、でもおろしたとこ、みてみたいですけどね(^^) - 特別に大井宿が治安がわるかったじゃないっておもいます。このうちは、江戸時代、豪商のうちで、ほれだけどろぼうにねらわれやすかったのかもしれませんね。大井宿は、名古屋方面へとつながる下街道(したかいどう)がこのにしで中山道からみなみに分岐するっていう交通の要衝でもあり、江戸時代、おおいににぎわったようです。明治にはいっては、遠美線の到達点とされたとこでもありますしね。
- いまは掛川-天竜二俣-新所原とつながる天竜浜名湖鉄道、旧二俣線ですけど、ほんとは掛川-天竜二俣-大井とつなぐのが当初計画だったです。これが遠美線です。未成線におわってますけど、復活させたい計画です。
- 目的はなんだったでしょうか。木曽の木材は中央線で名古屋港にはこばれとったきがしますけどね。遠美線の経由地はいまでこそ山間僻地ですけど、往時は人口もじゅうぶんにあって、沿線のひとたちの生活交通のためってことだったでしょうか。よう、わかりません。
ところで、遠美線は鉄道敷設法別表第63号に規定されとるですけど、ヰキペディアをみてみたら、このうちの開業区間が①天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線 掛川 - 天竜二俣 26.3 km、②東海旅客鉄道飯田線 三河大野 - 浦川 - 中部天竜 26.8 km、③矢作水力(岩村電気軌道) 岩村 - 大井 12.6 km、④明知鉄道明知線 明智 - 岩村 - 恵那 25.1 kmとありました。明知鉄道って、遠美線の一部だったですね。いまの終点の明智から天竜二俣に延伸することは現実的じゃないですけど、豊田にはむすんでほしいなってのがじぶんのおもいです。 - いましらべてみたら、明知のほうがふるいみたいですね。明智町も、さいしょは明知町だったものが合併を機に明智町にしたみたいです。画数がおおくて不便なのに。
- ガラスごしにみるなかにわが…|いわせあきひこ|フェースブック|2017年5月19日15:23
- ガラスごしにみるなかにわがふにゃふにゃ。明治初期のガラスがいまにつかわれとるだげな。わがやのガラスもこんなだっただよなー。
- 写真でわかりづらいかもしれんけど、いどやなまこかべがふにゃふにゃになっとるのがわかるよね。
- しなのやもがんばれFC岐阜♪|いわせあきひこ|フェースブック|2017年5月19日12:34
- しなのやもがんばれFC岐阜♪
- くりきんとんのみせもある♪
- きょうは大井宿でひるをとる♪
- 大井宿 - Wikipedia
- 中山道 太田宿 - あきひこのいいたいほうだい|2013/07/17
- 中山道 赤坂宿 - あきひこのいいたいほうだい|2013/03/02