西三河の鉄道のうつりかわり8回め=三河鉄道の延伸と挙母線の開業

こんかいは1924年。はなしはふたつ。

ひとつは三河鉄道の延伸。2年まえに越戸(こしど)まできとった三河鉄道がまあちょっときたにのびて、1924年10月31日、猿投(さなげ)に到達。こいで三河鉄道は刈谷を中心にみなみは碧南まで、きたは猿投までと、いまの名鉄三河線とおんなじ区間での営業となる。また、2年后にこの区間の電化を達成。

まあひとつは挙母線(ころもせん)の開業。岡崎市内線として岡崎-岡崎井田間を開業させた岡崎電気軌道が、こんどは郡部へと路線をのばす。1924年12月27日、岡崎井田(おかざきいだ)から門立(もだち)までのかんが開業。便宜上、挙母線の開業っていう題にしたけど、岡崎からきたに郊外路線がのびたっていうのが実態だ。こんかいの区間はあとになって岡崎線っていうなまえをあたえられて、また、ほれからず~っとあとになって、やっと挙母線っていうなまえになる。

西三河の鉄道のうつりかわり(あきひこ) - 8.三河鉄道の延伸と挙母線の開業
△ 西三河の鉄道のうつりかわり(あきひこ) - 8.三河鉄道の延伸と挙母線の開業

ところで、岡崎井田-門立間できになるのが末端部。のちの挙母線からはずれとるじゃん! ヰキペディアに「1922年4月20日、岡崎電気軌道に対し鉄道免許状下付(岡崎市井田町-加茂郡松平村間)」ってかいてある。おー、この鉄道は松平をめざしとっただ! ほかのひとの記事もしらべると、松平からさらに足助(あすけ)をめざしとったみたいだ。足助っていやあ、もみじで有名な香嵐渓(こうらんけい)のある、愛知県内ずいいちの観光地であり、また、三河から飯田にいたる街道ぞいにあって、おおいにさかえとるまちでもある。こんかい、猿投まで到達した三河鉄道も最終的には足助をめざした。岡崎の鉄道が足助をめざすのは、ごくとうぜんのことなだ。門立からさきにすすむことなく、挙母線全線開業により門立支線の地位にあまんじ、また、この路線自体も最終的には廃線になっちゃっただけど、まあいっかいゆめをおいかけてもいいじゃないか。

ほれと、おどろいたのが、この末端部の位置。わがあんじょうから足助方面にいくっていうと、いったん岡崎にはいって、ほっから国道248号線を北上、岩津をはずれまでいった岩津於御所(いわづおごそ)交差点をみぎに鈍角にまがって、足助街道にはいっていくだけど、ほとんどぴったりとこの末端部とかさなる。これまでにこの廃線あと、なんかい、いや、なんじゅっかいクルマでとおったことか。ほれも廃線あとってしらんで。

岡崎井田-門立間の関連路線図(あきひこ) 840-720
△ 岡崎井田-門立間の関連路線図(あきひこ)

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(さんこう)

  • 西三河の鉄道のうつりかわり〔目次〕 - おぼえがき
  • 90年まえの三河線の時刻表 - あきひこゆめてつどう|2017/07/29
    • さいしょ、1914年に大浜港-刈谷新間で開業。以降、まずは北上。1915年に知立まで、1920年に土橋、上挙母挙母まで、1922年に越戸まで、1924年に猿投までのびる。
  • 挙母線の記憶 - あきひこゆめてつどう|2016/08/08
    • おれもいっかいだけ挙母線にのりにいったことがある。なんねんのことだったかはっきりおぼえとらんだけど、岡崎市内線が廃止になってだいぶたってからのことにちがいない。1957年うまれの筆者は、岡崎の路面電車がはしっとるのをみたことがないだ。挙母線は岡崎から豊田にむかってのっただけど、起点の大樹寺(だいじゅうじ)までいくのに苦労した記憶がある。市の中心の東岡崎や康生からけっこうなきょりがあるだ。電車はどんな電車だったかおぼえとらん。速度ははやくなかったきがする。
  • さなげ - あきひこゆめてつどう|2015/04/13
    • ほりわりのようなとこをぐいーんとまがって、猿投にとうちゃく。10時9分。ホームはしましきホームだけど、電車からおりてみるとほのひろさにおどろく。また、ほのみぎがわには3本の留置線とおおきな整備工場があり、ここが名鉄の一大拠点になっとるってことがわかる。
    • さらに、ホームのいちばんおく、構内ふみきりをひだりにでたとこに、こんなにおおきな駅舎がある。まちあいしつもひろい。
      20150413_102110 猿投 - 駅舎
  • 三河鉄道(名鉄)門立線(もだちせん)の廃線あとをあるく|田作氏の写真とたびの日記|2013年07月03日(水)07時57分05秒
    • 名鉄挙母(ころも)線については知っている人も多いと思いますが、門立支線を知っている人はそう多くないと思います。戦前に廃止されてしまったため、この路線に乗ったことがあるという人も、あった事を知っているという人にも会ったことがありません。
    • ここは三河岩脇駅跡です。あえて頭に三河を名乗っているのは、名鉄に他の岩脇という駅があったのかもしれません。この駅で挙母線と門立支線が別れていたそうです。現役の頃は島式ホームを持つ交換駅でしたが最后の頃は無人化され側線も駅舎も撤去されていました。10年くらい前まではホームの跡や駅前商店も残っていましたが、現在は空き地になっています。ここから旧細川駅までは一旦北斗川まで下ったあとかなりの勾配で登りになります。よく電車が走ったものだと思います。
    • 挙母線から別れた門立支線は次の駅「細川」に到着します。
      細川駅は挙母線にも同名の駅がありましたが、門立支線が廃止されるまでは「上市場」という駅名だったそうです。支線というものの、元々こちらが先にあって挙母線のほうが后から出来たんですけれどね。門立支線のほとんどは県道に吸収されてしまったため遺構と言えるようなものはほぼ残っていません。昔は岩脇の駅の北側の県道脇に門立線用の橋台跡が残っていましたが、いつの間にか撤去されてしまいました。ここに限らず、岡崎市内では歴史的な近代遺産を残そうという気運が無いらしく、挙母線側もどんどん消滅していっています。
    • 細川駅前通り跡といったら良いか?田舎の集落には不似合いな駅に向かう直線道路が残っています。この辺りは鉄道跡だと聞けばなんとなく理解できる地形です。駅には農業倉庫や郵便局など地域の中心施設が集まることが多いと思いますが、ここもその痕跡を残しています。
      余談ですが、この細川と言う土地は、戦国時代に大名家になった細川家の出自となった土地です。
    • 細川駅からは一気に下りになって、路線の名称の元にもなっている門立に至ります。路盤は県道と脇の宅地に吸収され全く残っていません。この写真は門立バス停のある三叉路です。わかりにくいとは思いますが門立線唯一の遺構である築堤が道路の向こう側に独立して残っています。草の無い冬場だともっとよくわかります。私自身ここに鉄道が走っていたなんて全然知らなかったときに、この築堤が不自然に感じたので調べてみて初めて門立線のことを知りました。
    • 門立駅跡は、先ほどの築堤から県道を超えたところにありますが、ただの原っぱになっています。この先はおそらく巴川を超えて足助を目指すつもりだったと思いますが、もちろん実現しませんでした
  • 名鉄挙母線(ころもせん)のおもいで - 廃線あとをあるく 1 岡崎市内編|田作氏の写真とたびの日記|2013年07月03日(水)06時06分44秒
  • 名鉄三河線 - Wikipedia
    • 1924年10月31日、越戸駅-猿投駅間開業。
    • 1926年2月5日、大浜港駅-猿投駅間電化。
  • 名鉄挙母線 - Wikipedia
    • 1922年4月20日、岡崎電気軌道に対し鉄道免許状下付(岡崎市井田町-加茂郡松平村間)。
    • 1924年12月27日、岡崎電気軌道により岡崎井田駅-大樹寺駅-門立駅間開業。
  • 名古屋鉄道挙母線あとをたずねて|減速進行
    • 明治末期から昭和の初めにかけて中小私鉄が乱立した時期があり、ここ三河地区でも同様に数社が覇を競っていた。岡崎市内に路面電車を開業していた岡崎電気軌道は岡崎と足助を結ぶ目的で鉄道線の建設を開始したが、志なかばで挫折し中途半端な門立までの部分開通となってしまった。
    • 同じく足助への路線開設を進めていた三河鉄道は岡崎電気軌道を合併、その一部路線を利用し挙母線として岡崎~豊田間を結んだ。名古屋から線路を延してきた愛知電気鉄道に対抗すべく、岡崎~名古屋間を結ぶ目論みの第一歩でもあった。結局目的は達成できず、后年両社とも名古屋鉄道に合併したが、挙母線は昭和の后半まで活躍していた。なお三河鉄道の名古屋進出計画は、その后名古屋鉄道の手によって豊田新線として開通している。
    • 門立支線
      三河岩脇からは門立支線が分岐するが、岡崎電気軌道時代はこちらが本線で巴川(ともえがわ)沿いに足助(あすけ)を目指していた。その后三河鉄道との合併により目的地が挙母に変り、ルートから外れた盲腸部が支線として取残された。
    • 三河岩脇駅は開業当初から存在したわけではなく、挙母延長に伴い分岐駅として新設されたもの。その延長時には若干の路線変更が発生し、東側に位置し逆くの字型を描いていた旧ルートはやや西寄りに移され、ほぼ直線化されている。
    • 足助街道と呼ばれる県道39号線の旧道が現在地の東側を通っていたが、旧路線はその東側を併走していたことになる。写真左の舗装路が旧足助街道で、その右に写る轍部分が旧路線跡と思われる。この先、舗装され地元の生活道として利用されている箇所もある。
    • 挙母延長后の門立支線は三河岩脇駅の北で挙母線から右に別れ、旧路線との合流点を過ぎた后徐々に県道39号線に近づき、やがてその中に取込まれる。地形からは「北斗台口」交差点付近に築堤が築かれていたと考えられるが、その痕跡を見つける事は出来なかった。
    • 県道上を北東北に進むと「新香山中学入口」交差点にたどり着く。この付近に初代細川が設置されていたが、旧版地形図との誤差も大きく、廃止時期が早かった事もあり正確な位置の特定は難しい。
    • その后は再び県道の東側に分離して並行しながら進むが、宅地に転用されたところも多く当時のルートをそのままトレースする事は出来ない。巴川に突き当る手前で県道と交差し、その先が終点門立となる。それらしき空地や民家も存在するが、やはり正確な位置の特定は不能だ。
    • 線路布設の許可は更に続いていたため当駅はすぐにも中間駅に変る予定だったが、数年后に状況が一変し線路はここで途切れてしまった
    • なお県道沿いの住宅地裏で発見した鉄道用と思われる暗渠や、付近のモータースに車両が放置されていた話などの確認のため現地で聞取り調査したが、要領を得る答は皆無に等しかった。これは今后の楽しみにとっておこうと思う。
  • 廃]名鉄挙母線|鉄道愛好館
    • 挙母線の前身は、東海道線岡崎駅前から北上して岡崎中心部を通りさらに北方へ線路を延ばしていた「岡崎電気軌道」で、岡崎駅前から井田(いだ)までは“軌道線”、井田以北は専用軌道の“鉄道線”(郡部線と呼んだ)として建設され、線路は門立(もだち)に達していて、さらに北部の足助(あすけ)への延長を目論んでいました
    • 当初は路面電車が通して走っていたが、のちに井田から1駅だけ鉄道線に入った大樹寺路面電車から郊外線の電車にに乗り換えるようになりました。 岡崎電軌が三河鉄道に吸収合併された后、郡部線の途中の三河岩脇(みかわいわわき)から分岐して三河鉄道三河線の上挙母(うわごろも)に結ぶ新線が開通しました。完成した大樹寺-上挙母間は三河鉄道「岡崎線」と称しましたが、三河鉄道がさらに名鉄に合併されたのち挙母線」と改められました。元の岩脇以遠は門立支線となりましたが、盲腸線のため追って廃止になりました。名鉄本線、同三河線、および同挙母線が、岡崎・知立・豊田を結んで三角形をなしていたわけです。
    • 大樹寺駅構内の架線電圧は全面的に路面電車用の 600 V となっていました。接続している挙母線(1500 V)の電車や電気機関車は複電圧車ではなかったので構内では正規の出力が出ず、あまつさえ車内灯・前照灯とも直列点灯式だったので、構内では灯りがすべてボーッとしていました。のろのろと発車して構内を出たところで架線絶縁部があるため一瞬灯りが消え、次の瞬間に正規の明るさになり、ノッチオンとともに勢いよく走り出すのでした。