三河鉄道のあんじょう支線??

ときは1928年。名鉄三河線の前身、三河鉄道はこのとしに、きたは猿投から西中金まで、みなみは松木島から吉良吉田まで路線をのばして、全線を開業させとった。いっぽう、競争あいてである、名鉄西尾線の前身、愛知電気鉄道、碧海電気鉄道連合もこのとしに米津から西尾へと路線をのばして、全線を開業させとった。三河鉄道は内陸部の豊田や刈谷をみなとまち碧南、吉良吉田につないで、西尾鉄道は内陸部のあんじょうや西尾をみなとまち吉良吉田につないだっていうわけだ。

ところで、こっからだ。じつは三河鉄道にはさらなる野望があった。あんじょうも自社線で碧南、吉良吉田につながあってしとっただ。のちにできた、西尾線のみなみあんじょうから分岐してあんじょうにいたるあんじょう支線は有名だけど、三河鉄道にも「あんじょう支線」布設計画があっただ。三河鉄道を高浜のどっかで分岐して、高取(たかとり)や箕輪(みのわ)っていうとこをとおって、東海道線のあんじょうにいたる路線を布設する計画だったっていう。

三河鉄道のあんじょう支線布設計画(1928年)
△ 三河鉄道のあんじょう支線布設計画(1928年)

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このことは、きょう2018年1月27日、あんじょうし歴史博物館にみにいった「一汁三菜展」の展示物でしった。いや~、未成線におわった三河鉄道のあんじょう支線だけど、この計画が実現しとや、あるいはあんじょうが碧海郡の郡都の地位を刈谷にわたすこともなかったのかって推測する。戦前、あんじょうはにほんのデンマークとして、全国から、また、ドイツからもヒットラーが視察におとずれるほどの繁栄をほこっただけど、戦后はみるかげもない。法務局も保健所も税務署もぜーんぶ刈谷にいっちゃったよ。

箕輪停車場予定地貨物集荷数とりしらべしょ(1928年)|あんじょうし歴史博物館「一汁三菜展」
2018.1.27 一汁三菜展 (3) 箕輪停車場予定地貨物集荷数とりしらべしょ(1928年) 870-345
1928年以前から、三河鉄道は高取(現高浜市)から国鉄あんじょうえきまで路線布設を計画しました。これはえきを設置する予定の箕輪(あんじょう市内箕輪町)からの集荷数をとりしらべた書類です。食料ではこめのほか、なしや鶏卵、すいかが主要な移出品であったことがわかります。
△ 箕輪停車場予定地貨物集荷数とりしらべしょ(1928年)

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(さんこう)