碧南レールパークに展示してある資料

2018.5.20 (36-1) 碧南レールパーク - 塩田がひろがっとった 590-475

碧南(へきなん)レールパークにいってきたことはきのうのブログ記事にかいたとこだけど、こんかいはほこに展示してあった資料について紹介する。三河線廃線区間の歴史、むかしのえきのようす、むかしはしっとった汽車や電車、鉄道以前の歴史っていう内容になる。

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三河線の歴史

三河線の歴史
2018.5.20 (27) 碧南レールパーク - 三河線の歴史 1000-680
かつては鉄道貨物輸送により産業の発展につくすとともに、おおくの旅客がのりおりし、まちのおもて玄関としてのやくわりをはたした。しかしながら、自動車交通の普及とともに、貨物は1960年、旅客は1966年をさかりに利用も減少したため、1977年5月25日に貨物営業が廃止され、駅員も無人化になった。
1914年2月いつかに三河鉄道かぶしき会社の刈谷新駅(刈谷駅)~大浜港駅(碧南駅)間が開通。
1915年11月29日に陸海連絡の貨物輸送を目的とした大浜臨港線が大浜港駅~大浜口駅(この大浜口ひろばの位置)0.4キロが営業を開始。
1926年9月ついたち三河鉄道が延伸され、大浜港駅(碧南駅)~神谷駅松木島駅)13.7キロが開業。とちゅうには玉津浦棚尾三河、中畑、三河平坂、三河楠、寺津、味浜(西一色)、三河一色の各駅があった。また、三河鉄道は貨物輸送を主としたため、各駅には貨物のつみおろしホームがあった。
1928年8月25日、神谷駅三河吉田駅(吉良吉田駅)が開通。
1941年、三河鉄道かぶしき会社が名古屋鉄道かぶしき会社と合併し、三河線と改称。
1946年8月ついたち、大浜臨港線大浜港駅~大浜口駅0.4キロ廃止。
2004年3月末、碧南駅~吉良吉田駅間廃止となり、78年間の歴史にまくをとじた。
(27) 碧南レールパーク - 三河線の歴史

〔まとめと感想〕
各駅には貨物のつみおろしホームがあったってかいてある。おんなじ名鉄でも、さいしょから旅客輸送が中心だったっておもわれるわが西尾線とくらべて、三河線は貨物輸送も重要だったらしい。いま、西尾線三河線のりょうほうにのってみても、はっきりとふんいきがちがうもんな。廃線になったのは三河線の碧南以南の区間になるだけど、碧南市内のえきで玉津浦(たまつうら)、棚尾(たなお)、三河旭(みかわあさひ)のよっつが廃止になっとる。

この区間の開業は1926年。1914年に刈谷から碧南まで開業した三河鉄道が、12年あとのこのとしに旧一色町(いっしきちょう)内の松木島(まつきじま)まで延伸開業しただ。輸送の最盛期は貨物が1960年で、旅客が1966年。高度成長まっさかりの時期だ。ほのあとはクルマ社会の全盛期で、2004年に廃止。

当時の大浜港駅から三河旭駅の地図
2018.5.20 (28) 碧南レールパーク - 大浜港から三河旭までの地図 820-700
(28) 碧南レールパーク - 大浜港から三河旭までの地図

〔まとめと感想〕
碧南市内の廃線区間の路線図がのっとる。三河線の最終到達点は松木島のまあひとつむこうの吉良吉田(きらよしだ)で、碧南からみて吉良吉田は東南方向になるだけど、刈谷から碧南までみなみにのびてきた線路が、ほっからふしぜんにきゅうくつなU字曲線をえがいて、おおきくきたにぎゃくもどりしてから、ひがしに矢作川(やはぎがわ)をわたっていく。

ほかに貨物線として、碧南から大浜口までの大浜臨港線と、玉津浦から分岐してみなみにのびる臨港線のふたつがある。

かつてのえきのようす

むかしの玉津浦
2018.5.20 (29) 碧南レールパーク - むかしの玉津浦 890-860
戦前に玉津浦海水浴場が開設され、愛知県内屈指の海水浴場のもよりえきとして、かずおおくの家族に利用されにぎわった。
(29) 碧南レールパーク - むかしの玉津浦

〔まとめと感想〕
住宅街のどまんなかになっちゃったいまからは想像もつかんけど、この玉津浦のえきは海水浴客でにぎわうえきだっただ。いまはむかし。ちなみに、碧南のひとつきたの碧南中央も、そもそもは新須磨(しんすま)海水浴場のために開業したえきで、ほのなも新須磨だった。

むかしの棚尾と三河
2018.5.20 (30) 碧南レールパーク - むかしの棚尾と三河旭 1520-800
棚尾:まちのおもて玄関として利用され、とくにまいつきみっかの毘沙門さんには、おおぜいの参拝客が利用した。また、さつまいもやにんじんなどが出荷されとった。
三河当時この地区でさかんにつくられとったコンロ、ひばちなどの土器製品やにんじんなどの農作物がつみこまれ出荷されとった。
(30) 碧南レールパーク - むかしの棚尾と三河旭

〔まとめと感想〕
棚尾と三河旭。この写真でみるかぎりだけど、棚尾のほうが駅舎があるぶん、えきらしい。

この地でかつやくした車両

大正=蒸気機関車
2018.5.20 (31) 碧南レールパーク - 大正=蒸気機関車 1225-730
ひだり:ロバート・スチーブンソン(イギリス)製の120がたの機関車。1914年5月に導入。
みぎピッツバーグ(アメリカ)製の国鉄1350がた機関車。三河鉄道ではB1、B4号がたってよばれた。1922年に導入。
(31) 碧南レールパーク - 大正=蒸気機関車

〔まとめと感想〕
非電化だった三河線が電化されたのが1926年2月いつか。1926年9月ついたちに延伸した碧南以南も電化区間として開業したはずで、ここに紹介されとる2台の蒸気機関車は、碧南以北の区間をはしっとったもんにちがいない。ロバート・スチーブンソンにピッツバーグ。イギリスやアメリカから輸入した蒸気機関車がはしとっただ。

昭和前期=電車
2018.5.20 (32) 碧南レールパーク - 昭和前期=電車 1395-760
ひだり:デ100がた/1926年1月/田中車両製/定員100人/三河鉄道電化のさい、新造クロスシートロマンスカーは夫婦式電車ともよばれた。1964年8月に廃車された。
みぎのひだり:2717(3700がた)電車/1957年9月日本車両
みぎのみぎ:モ1101(デ200がた)電車/1927年1月/日本車両製/1958年5月に廃車される。
(32) 碧南レールパーク - 昭和前期=電車

〔まとめと感想〕
ひだりのデ100がたは、三河線が電化されたときに投入されたもんだ。さいしょはこんな木製っぽい電車がはしっとっただね。クロスシートの車両を夫婦式電車ってよんどったってのがおもしろい。たしかに、クロスシートは夫婦ですわったほうがしっくりする。

みぎは、1957年製の2717号と1927年製のモ1101号。新旧そろいぶみだ。

昭和后期=電車
2018.5.20 (33) 碧南レールパーク - 昭和后期=電車 1560-840
ひだりのひだり:デキ600がた電機/1943年7月/東芝製150PS(1977年2月、碧南駅でさつえい)
ひだりのみぎ:3700がた電車/1957年9月/日本車両製(1977年2月、碧南駅でさつえい)
みぎ:5500がた/1959年4月/日本車両製/はつの冷房車両/名古屋への直通急行として使用された。
(33) 碧南レールパーク - 昭和后期=電車

〔まとめと感想〕
ひだりは、1977年に碧南でさつえいした1943年製の電気機関車と、1957年製の電車。

みぎは1959年製の5500がたで、あっかい電車だ。これが名鉄はつの冷房車か。

平成=電車
2018.5.20 (34) 碧南レールパーク - 平成=電車 1650-890
ひだり:7300がた/1971年10月/日本車両製/パノラマカーなみの車体だけど、あしまわりは旧式。
まんなか:1937年/日本車両製/戦前の流線形。いもむしの愛称でよばれたクロスシート車。1994年にむかしの塗装を復活させて記念に入線した。2002年に廃車される。
みぎ:LE200がた/矢作川の棚尾橋の老朽化にともない、重量のかるいLE車が登場した。碧南駅から吉良吉田駅までのあいだで使用された。(2004年、棚尾駅でさつえい)
(34) 碧南レールパーク - 平成=電車

〔まとめと感想〕
時代はくだって平成。ひだりは1971年製の7300がた。

まんなかは1937年製のいもむし。東洋一の豪華列車っていわれた電車だ。西尾線でもみかけたようなきがするだけど、ふるい電車だけどかっこいいな~っておもったもんだよ。

みぎのLE200がたってのはレールバスのことだ。電車じゃなくて、いやなにおいのけむりをはいてはしる気動車だ。晩年、碧南から吉良吉田までの区間はこのレールバスに転換しただけど、ほの理由が棚尾橋の老朽化によるもんだってのははじめてしった。軽量な車両じゃなきゃ老朽化したはしがたえれんっていうだけの理由で、レールバスに転換しただったのか。

鉄道以前

鉄道以前からのかわみなととしての繁栄
2018.5.20 (35) 碧南レールパーク - かわみなととしての繁栄 1440-890
堀川は当初、この地の塩田に海水をひくために開削されたけど、同時にかわみなと、排水路などおおくの用途があった。かわらやさけなどの運搬はこの棚尾港でこぶねにつまれ、大浜港のおきでおおきなふねにつみかえ江戸などとおくのみなとにはこばれた。
しかしながら、大正時代以降、貨物輸送におけるかわみなとのやくわりはしだいにおとろえ、輸送の主力は鉄道になり、さらに昭和になると自動車にうつっていった。
大浜口ひろばの位置は、むかし、棚尾港として利用されとったばしょである。
堀川のひがし方向へのつけかえにともない、貨物輸送の大浜臨港線の大浜口駅が開業し、堀川を利用した陸海連絡線として地域の物流の拠点となった。
(35) 碧南レールパーク - かわみなととしての繁栄

〔まとめと感想〕
資料が展示してあるのは碧南レールパークの起点、大浜口(おおはまぐち)ひろばなだけど、このすぐみなみにあるのが堀川で、そもそもは塩田に海水をひくために開削されたもんだっていう。ほいで、この大浜口ひろばのとこにあったのが棚尾港っていうかわみなとだげな。「大浜」なのに「棚尾」かっておもったけど、いまは堀川のにしの大浜がわになるこのばしょも、かわをつけかえるまえは堀川のひがしの棚尾がわにあっただ。

むかし、このあたりは塩田がひろがっとった
2018.5.20 (36) 碧南レールパーク - 塩田がひろがっとった 1480-840
大浜(おおはま)、棚尾(たなお)には、江戸から明治時代末まで、堀川と堀川からみなみに分流しとった江川ぞいに塩田があった。塩田のあった区域は図のとおりで、いまの音羽町(おとはまち)、塩浜町(しおはままち)および弥生町(やよいまち)の一部である。
しおのつくりかたは入浜式(いりはましき)っていって、すなをひいた塩田にかわから海水をいれ、ほの海水をてんぴやかぜで乾燥させたあと、しおのしみこんだすなをかきあつめ、ほのすなにさらに海水をとおし、塩分のこい海水をつくり、かまでにつめて製品にした。
この地の塩田は、1592年ごろに宮町(みやまち)からひがしの塩浜町までみぞをほって海水をいれ、製塩をはじめたのが起源っていわれる。ほのあと、1624年に矢作川が氾濫して塩田が埋没したけど、名主石川八郎右衛門は1628年に領主本多下総守の許可をえて、堀川を改修し、海水をひきいれて塩田を再興した。しおは大浜塩っていわれ、矢作川をふねでさかのぼり、とおく信濃までおくられとった。
しおづくりは明治になってからもつづけられ、1905年には政府の専売になった。
しかしながら、市街地の拡大にともない塩田も縮小され、1910年におわりをむかえた。
(36) 碧南レールパーク - 塩田がひろがっとった

〔まとめと感想〕
いや~、いまはすっかり住宅街になっとる碧南駅から玉津浦駅にかけての一帯が、むかしは塩田がひろがっとったとはおどろきだ。旧一色町で塩田があったってのはしっとったけど、碧南にも塩田があっただ。

ほれから、この地図をみてわかっただけど、当初は大浜港っていうなまえだった碧南のえき、大浜町と棚尾村のまんなかにあるじゃんか。ただし、えきの正面はにしがわで、大浜町のほうをむいとる。棚尾村はえきのうらがわで、しかも堀川をへだてとる。碧南市ってみなみの大浜ときたの新川(しんかわ)のふたつでできとるっておもっとったけど、みなみは大浜と棚尾のふたつがはりあっとるかたちだっただ。だけど、三河線の碧南開業にあたっての誘致合戦では大浜町が勝者になった。ほれが、碧南以南に延伸のときに棚尾村のほうがまきかえした。碧南からみなみ、線路はふしぜんにきゅうくつなU字曲線をえがいて、おおきくきたにぎゃくもどりして棚尾のえきにいたる。推測ではあるけど、これは棚尾村のはたらきかけによるもんにちがいない。

2018.5.20 (37) 塩田がひろがっとった - 銅版画 1710-530
2018.5.20 (38) 塩田がひろがっとった - 銅版画説明がき 760-510
この銅版画は、大浜口ひろばの位置から東の方向をみた、1888年ごろのふうけいである。
ひだりてまえは堀川の棚尾港で、ほをかけたふねがかわらやさけなどを輸送した。はしはむかしの棚尾橋で、この大浜口ひろばの位置にかかっとった。まわりの塩田では、明治時代末まで入浜式のしおづくりがおこなわれとった。正面むこうがわのかわらやでは製作工程ごとの情景が再現されとって、当時のかわらづくりをしることができる。
(37) 塩田がひろがっとった - 銅版画(38) 説明がき

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(さんこう)