しろめぐりであんじょう城と桜井城、藤井城、本証寺城をみてきた - 2019年12月はつか

2019.12.20 (2) しろめぐりバスツアー - 桜井城あと 1670-1350

きょう2019年12月はつか、しろめぐりであんじょう城と桜井城、藤井城、本証寺城をみてきた。桜井城はあわせて菩提寺も。案内してくださったのは、あんじょうふるさとガイドの会の榊原さん。

2019.11.15 広報あんじょう - しろめぐりバスツアー 1かいめ

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あんじょう城

集合ばしょのあんじょう市民ギャラリーからひがしにちょこっとあるいて、あんじょう城あと。これまで安祥城(あんしょうじょう)っていっとったけど「あんじょう城」のほうが正解みたいだ。もともとあんじょうっていう地名があって、ほこにおしろができたでだ。おしろができたのが1440年。1355年の親鸞のやしゃごの日記で、あんじょうっていう地名がかくにんできるだげな。

2019.12.20 (1) しろめぐりバスツアー - あんじょう城あと 1600-1200

ひだり、了雲院(りょううんいん)こと大乗寺のあるたかだいが本丸で、みなみはしにやぐらがあっただげな。みぎ、東尾八幡宮のあるたかだいが二の丸で、あんじょうし歴史博物館のきたがわのへんが三の丸。1440年、和田親平(わだちかひら)が、いまの農免道路ぞいにあったあんじょう古城からこの地に移転。1471年、岩津城主松平信光があんじょう城をうばいとって、ほのあとここが松平氏の本拠地になる。うばいとるにあたっては、場外でぼんおどりをやって城兵をさそいだしといて、ほのあいだにうばいとるっていう方法をとったらしい。おかげで、あんじょうむらのひとたちはぼんおどりがだいきらいだっていう。1540年にいたって、織田信秀にうばいとられる。1549年、今川氏のたすけをかりて、ふたたび松平氏がうばいかえす。このときとらえた城代の織田信広と、竹千代をひとじち交換。これがなかったら、のちに江戸幕府をひらいた徳川家康はなかったかもしれん。1540年から1549年にかけてなんかいかおこなわれたいくさをあんじょう合戦っていう。本拠地が岡崎にうつったあとの、1562年ごろ、あんじょう城は廃城となる。122年間のしろだった。

桜井城

2019.12.20 (2) しろめぐりバスツアー - 桜井城あと 1670-1350

バスで桜井城に移動。県道岡崎西尾線ぞい、城山公園になっとるとこだ。松平本家のあんじょう城時代から岡崎城時代にかけて、ほの支店として6代70年間あったしろだ。1590年、徳川家康の関東移封(かんとういほう)にともなって廃城となる。桜井松平氏も全国を転々。さいごは桜井姓になった摂津尼崎城の城主になっただげな。ほいで、ほの末裔がいまも東京にすんどるっていう。

2019.12.20 (3) しろめぐりバスツアー - 桜井松平6代のはか 1600-1200

しろあとのすぐにしに桜井松平6代のおはか。いや、いまもほんなおはかがのこっとるとは。

菩提寺

2019.12.20 (4) しろめぐりバスツアー - 菩提寺 2000-1500

西北にあるいて菩提寺に移動。桜井松平氏菩提寺がこの菩提寺だ。ふつう名詞である菩提寺っていうことばを、ほのままこのおてらの固有名詞としてつかっとるのがおかしい。東京にすむ末裔の桜井さんはいまも年に1回おまいりにくるっていう。いや~、戦国から歴史がつづいとるだ。桜井翔さんがまえにテレビばんぐみで桜井の地をおとずれたのも、このことと関係があるのか。

堀内公園の駐車場まであるいてバスにのらあっておもったら、おらん。てもちぶさたな時間に、同行しとったあんじょうふるさとガイドの会会長の平岩さんから、ひがしがわ、県道ぞいにみえる碧海山古墳(へっかいざんこふん)の説明。第12代景行天皇がここをおとずれたときに、まわりにうみがあったことから、あおいうみ、碧海のなまえができただげな。ほー。わが碧海郡の歴史はこんなにふるいだ。ふるいから桜井にかけて22か所の古墳がある。

藤井城

2019.12.20 (5) しろめぐりバスツアー - 藤井城あと 1540-1200

バスで藤井城に移動。藤井のまちのまんなかに、しろあとをしめす説明かんばんだけがある。うしろは常夜灯と秋葉社

2019.12.20 (5-1) しろめぐりバスツアー - 藤井城あと説明がき 610-420

ここも桜井城におなじく松平本家の支店。矢作川をへだてたむこう、東条氏、吉良氏へのそなえとして重要な意味をもっとっただげな。ほれと、矢作川をいきかうふねを管理する意味もあったとのこと。2代め信一(のぶかず)は家康もたよりにしたとのこと。ここも関東移封にともなって、廃城。藤井松平氏茨城県布川(ふかわ)城主や上田城主なんかを転々。家臣には岩瀬姓や神谷姓がおったとのこと。

ところで常夜灯があんじょうにあったとはしらんかった。平岩会長にきいてみたら、藤井のほか木戸にもあって、じもとのひとたちが当番でひをともしとるっていう。へー。

本証寺城

バスで本証寺城に移動。こんかいはしろめぐりのたびってことで、本証寺のしろとしての機能に焦点をあてての見学だ。いまもあるうちぼりをかくにん。敵の防御のためのうちぼりだ。太鼓楼はただ太鼓をならすだけじゃなくて、みはりのためのもんだった。一向一揆の本拠地だった本証寺。真剣に家康とたたかっただ。

2019.12.20 (6) しろめぐりバスツアー - 本証寺城そとぼり発掘調査 1500-2000

おくりからきたにぬけて、土塁をかくにん。うちぼりがあって、りょうがわに土塁がある。高低差は7メートルもあっただげな。本気の防御だ。ほのきたにそとぼり。うもれちゃっとるだけど、ちょうど発掘調査の最中。特別にみせてもらう。土塁の位置に変遷があるらしく、境内最北端の土塁のしたにそとぼりがあったじゃないかとのこと。調査結果がたのしみだ。

榊原さんから解説。一向一揆の結果家康によってとりこわされた本証寺だけど、ほの20年あとに、信長秀吉連合に対抗するため家康の命で再度本証寺が建立されたっていう。いや、しらんかった。土塁も、かつての家康からまもる土塁から、家康をまもる土塁にかわったとのこと。いや、うまいこというなあ。

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バスであんじょう市民ギャラリーにもどる。おおきなこえで、あかるくわかりやすく説明をしてくださった榊原さんに感謝。

2019.11.15 広報あんじょう - しろめぐりバスツアー 810-390
2019.11.15 広報あんじょう - しろめぐりバスツアー 1520-1430