島原鉄道は JR長崎本線の 諫早(いさはや)駅を 起点に、島原半島を みぎまわりに 半周する 鉄道だったのだが、その みなみ半分が この 3月末を もって 廃止と なった。
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以下、ウェブより
(2008年 1月 18日 読売新聞)
3月末で島原外港(島原市)以南の35・3キロを廃止する問題で、沿線住民らでつくる「島原半島を未来につなぐ会」は 1月 17日、島原、南島原両市に、地域公共交通活性化再生法に基づき、島原鉄道などと存続に向けた協議会を発足させるよう求める要望書を、3万5933人分の署名とともに提出した。
(長崎新聞ホームページ:長崎の最新ニュースや観光・イベント情報 2008年 3月 18日)
長崎県立口加(こうか)高校(南島原市口之津町)の 1953年度卒業生が島原鉄道南線を利用するミニ同窓会が 3月 16日 あり、39人が思い出の列車の中で語り合った。有志が「島原鉄道さよなら乗車の旅」と題して企画。島原市の島原外港駅を出発、加津佐駅に到着する一時間余りの旅。
(島原鉄道南線 廃線までのカウントダウン−OhmyNews:オーマイニュース 高柳 拓也 2008年03月22日)
今月末、長崎県の島原半島を走る島原鉄道線の島原外港(しまばらがいこう)〜加津佐(かづさ)間が廃線となり、半世紀以上の歴史にピリオドを打つ。3月 20日朝、宿を出て向かったのは「島鉄本社前駅」。一日フリーの乗車券を購入し、加津佐行きの列車に乗り込む。やってきたのは昭和30年代に製造された「キハ2000型」と呼ばれる車両で、廃止になる南線と運命を共にし、4月以降は廃車されるとのこと。窓が開くのはもちろん、ドアが手動など昭和の雰囲気がたっぷりの車両だ。
乗車してしばらくして、廃止区間に入ると、橋や民家が全体的に新しい地区があった。雲仙普賢岳の噴火活動の被災地だ。廃止となる区間の一部は、噴火により施設が損傷され一時休業状態にあったものの、1997年に再開した。だが、10年ほどして廃線というなんとも悲しい運命を辿った。
今回、初めて乗車した島原鉄道線。私が廃止区間を乗車するのは最初で最後の今回だけだが、間近に迫る海と車窓に映る平成新山は魅力的であった。廃止の理由はどうであれ、このような風光明媚な路線がまた一つ消えていくことは残念である。
(島原鉄道が一部区間を廃止 ファンら最終列車を見送る)
長崎県の島原半島を走る島原鉄道の営業区間78・5キロのうち、ほぼ南半分にあたる島原外港−加津佐間(35・3キロ)が3月いっぱいで廃止され、31日には最終列車の出発に合わせたセレモニーが行われた。
廃止区間は1928年までに整備された。半島南部の海岸沿いを走り、高校生の通学の足として親しまれてきた。沿線には島原の乱(1637−38年)の舞台となった原城跡がある。
(島鉄への思いをCDに 2008年5月8日 読売新聞)
3月に「南線」(島原外港―加津佐駅)が廃線となった島原鉄道(本社・島原市)を応援しようと、島原市亀の甲町、葬儀会社役員本多邦年さん(53)と南島原市南有馬町、リサイクルショップ経営旭芳郎さん(54)が歌を作った。無償提供を受けた島原鉄道は、創立100周年記念事業の一つとしてCD化し、5月 11日から販売する。2人は「島鉄を支えるためにも、ぜひ、聞いてほしい」と話している。(篠原太)
2人とも旅行や通学などで鉄道を利用してきたといい、本多さんは「島鉄に多くの人が乗ってくれるきっかけになれば」、旭さんは「環境に優しい鉄道を守っていきたい」と話している。
(島原鉄道:「地域と歩む」 100周年祝う /長崎−毎日jp(毎日新聞)
島原市と諫早市を結ぶ島原鉄道(本社・島原市)が創立100周年を迎え、その記念式典が9日、市内のホテルで開かれ、関係者約200人が参加した。塩塚吉朗社長は「新しい100年に向けてスタートを切ります」と宣言した。
島鉄は1908(明治41)年5月5日創立。2度の世界大戦、57年の諫早大水害、90〜96年の普賢岳災害などで再三線路が寸断される危機に陥ったが、乗り越えてきた。
一方でマイカー普及と少子高齢化から、輸送人員減少に歯止めがかからず、80年の歴史がある南線(島原外港−加津佐間35・3キロ)を3月いっぱいで廃止し、現在は北線(諫早−島原外港43・2キロ)だけの営業となった。
2008/06/10
三河湾174号ドラマ「盲人重役」などの舞台にもなった歴史のある路線が、また一部廃線となっのは、寂しいですね。
2008/06/11
あきひこ
三河湾174号さん こんばんわ。
しりませんでしたが、テレビドラマの 舞台にも なった ことが あるんですね。普賢岳災害も のりこえて きたのに、100周年を 目前に して、一部廃線は さびしいです。