京都も あるいて くらせる まちづくり めざす

富山市とか 立山町とか 仙台市とか、全国に かずは おおく ないけど、公共 交通 機関を 活用して、あるいて くらせる まちづくりを すすめとる 自治体が ある。

京都市も、市内の 鉄道、バスが のりほうだいの フリー 乗車券を、2010年 12月 11日 どようびから 2011年 3月 23日 すいようびまでの あいだ 試験的に 発売しただけど、

じつは、すでに 2010年 1月 23日に 「あるく まち・京都」 憲章を さだめて、あるいて くらせる、または あるいて たのしめる まちづくりを する ことを 宣言しとっただった。

「あるく まち 京都」 憲章
わたしたちの 京都では、市民 ひとり ひとりは、
1.健康で、ひとと 環境に やさしい、あるいて たのしい くらしを たいせつに します。
そして、市民と 行政が 一体と なって、
1.だれもが あるいて でかけたく なる 道路 空間と 公共 交通を ととのえ にぎわい ある まちを つくります。
1.京都を おとずれる すべての ひとが、あるく 魅力を 満喫できる ように します。
(2010年 1月 23日 制定)

京都市 都市計画局 歩くまち京都推進室の ウェブサイト みとったら、「この 憲章に 賛同する ひとは なまえと すまいを おしえろ」って いう ページが あって、おれも 記入して 送信しただけど、

つぎに 紹介する この 憲章の 解説文に 同感しての ことだ。


(前文) 「あるく まち・京都」 憲章の 制定 目的と 意義

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第1段では、わたしたちの 京都は、1,200年を こえる ながい 歴史の なかで、それぞれの 時代の ひとびとが 先人から うけついだ まちなみや 自然 景観、伝統、文化を ひきつぎ、まもり、さらに すこしずつ 改善しつつ、次代に ひきついで きた ことが のべられとる。さらに、こうした 歴史、伝統を まもり そだてながら、こどもから おとしよりまで だれもが 安心して 快適に あるく ことが できる まちを つくりあげて きた 結果と して、はじめて こんにちの ような 「京都らしい すがた」に なって きただ、って いう ことが まず さいしょに のべられとる。

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ところが、こうした ながい 歴史の なかで、まもり、そだてられて きた 京都の まちが、近代 以降、急激に、クルマに よって おおきく さまがわわりしはじめ、その 魅力が おおいに そこなわれて きただ、って いう ようすが のべられとる。

かつて クルマが なかった 時代、京都の まちの なかでは、ひとびとは みちの うえを あるき、ときに たちどまって たちばなしを したり、そして こどもたちは みちの あちこちで つじあそびを し、いたる ところに まちの にぎわいが みられた はずだ。しかし、クルマが その みちの うえを はしる ように なると、ゆっくりと あるく ことも、ゆっくりと たちばなしを する ことも、そして こどもたちが 夢中で つじあそびを する ことも、いずれも いちじるしく むずかしい ものと なっちゃった。

その 結果 、 京都の まちの いたる ところに みられた まちの にぎわいが すこしずつ うしなわれちゃった。そして、みちは いつしか あるく ひとびとの ためでは なく、クルマの ために つかわれる ように なり、まっくろな アスファルトに おおわれちゃう ことと なった。その 結果、まちなかには さらに 大量の クルマが はしる ように なり、大量の 排気 ガスを だしつつ 渋滞を まきおこしちゃうに いたっただ。こうして、ながい 歴史のなかで つちかわれ てきた まちやが たちならぶ たたずまいや 魅力が そこなわれとる。

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しかし、京都の まちに ふさわしい 移動の 方法は、そうした さまざまな 問題を かかえる クルマでは なく、じぶんの ちからで、ときに ひとの たすけを かりながら ひとびとが おこなう あるくって いう もので あるに ちがいない。つまり、じぶんの ちからで あるくって いう 移動、そして、バスや 鉄道などの 公共 交通や、クルマ いすや ベビーカーを 利用する ひとびとの 移動こそが、京都の まちに ふさわしい ものなだ。第2段では、冒頭で あらためて その 点が 強調された うえで、その 理由が のべられとる。

あるく ひとびとは、クルマの ように 排気 ガスを だして まちの 空気を よごす ことも なければ、クルマの 渋滞 列や 放置 駐車された クルマの ように、まちなみの 景観を おおきく きずつける ような ことは ない。そして それは むしろ、まちに 負担を かけ、きずつける 要素で あるって いうよりは、まちの 活力の みなもとですら ある。あるく ひとびとが おるでこそ、まちに にぎわいが おとずれ、その まちの 商業に 活気が やどり、ひとと ひととの さまざまな 交流が うまれるだ。ところが、まちなかに あつまるのが ひとびとじゃ なく クルマで あるなら、それは けっして にぎわいと よばれる ことは ない。それは 混雑でしか ない。ひとびとの にぎわいには 活気が やどるけど、クルマの 混雑が 直接的に うみだす ものは なんにも ない。なぜなら、ひとびとが クルマに のっとる かぎり、ほかの ひとびととの 交流が うまれる はずも なく、かいものを したり する ことも できんでだ。むしろ、クルマに のっとや、まちなかの ふんいきを ほかの ひとびとと 共有する ことも、おんなじ 空気を すう ことも ないだ。つまり、クルマの なかは、まちの なかに ありながら、まちと 遮断されちゃった プライベートな ちいさな 空間と なっちゃっとるだ。ひとびとが この プライベートな ちいさな 空間に 固執する かぎり、京都の まちが かつての にぎわいや 活気を とりもどす ことが できんじゃ ないか、この 段落では、そういう おもいが みじかい 文章の なかに こめられとる。

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さらには、あるく ことが まちの 活力や 魅力の ために 必要で ある ばっかりじゃ なく、ひとり ひとりの 健康の ためにも のぞましい もので ある ことが のべられとる。そして それは、地球 規模の 環境にも のぞましい もので ある ことが のべられとる。

つまり、この 段落では、クルマを 中心と した くらしが 京都の まちの 魅力と 活力、個人の 健康、そして、地球 環境の 観点から おおいに 問題を かかえとる 一方で、あるく ことを 中心と した くらしこそが、健康と 環境、そして、京都の まちに とって のぞましい もので ある ことが のべられとるだ。

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そして 前文の 最後の 段落で ある 第3段では、以上に のべた 認識の もと、わたしたちの 京都は、みちの つかいかたや、バスや 電車などの 公共 交通の ネットワークなどを ふくめた 交通の ありかた 全般を、あるく ことを 中心と した ものに おおきく 展開する ことに よって、にほんのみならず、世界の 模範と なる ような 「ひとが 主役の 魅力 ある まちづくり」を 推進する ために、以下に のべる ような みっつの 具体的な 決意から なる 「あるく まち・京都」 憲章を さだめる ことと した、って いう ことが のべられとる。

なお、「ひとが 主役の 魅力 ある まちづくり」とは、現代の 物質 文明の ありかたを みなおし、機械や 商業じゃ なく ひとが 主役の まちを めざすって いう おもいが こめられとる。

あるく ひとが おるでこそ にぎわいが うまれるっての、まったく その とおり。

東京や 大阪 みたいに、交通 手段の おおきな わりあいを 鉄道が しめとる とこへ いくと よく わかる。駅の まわりが にぎやかだもん。

ひるがえって 地方 都市の えきまえ、さむざむと しとるよね。駅で おりたって、時間 つぶす とこ、あやへんもんな。おおがた こうりてんとか いっぱい 郊外に できちゃって、みんな クルマで ほっちに いっちゃっとるだでね。えきまえ あるいとる ひとなんか おやへんし、ひどい とこじゃ えきまえに めし くうう とこ、ひとつ あやへん。都市 計画だって わるいよ。駅 周辺や 鉄道 沿線に うちを はりつけらあと しとやへんもんな。

あるいて くらせる まちづくりってのは、電車に のりつけん いなかの ひとには なかなか 実感しにくい ことかも しれんけど、この 「あるいて くらせる まちづくり」が 全国に ひろまって ほしいよ。