むかしの岐阜の写真と地図 - 20世紀前半と江戸時代

2018年5月よっかに岐阜市歴史博物館にむかしの岐阜のまちのようすをたしかめてきたってことはまえにブログ記事にかいたとおりだけど、こんかいはほのときにみてきた、むかしの岐阜の写真と地図を紹介する。

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20世紀前半 - 岐阜の写真

まずは20世紀前半の岐阜の写真を6枚。戦前のもんが5枚に戦后のもんが1枚。

長良橋2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (20) 長良橋(昭和初期) 1470-930
優美清麗なる長良橋(ながらばし)の風姿(昭和初期)【かくだい】【せつめい】
昭和の初期ごろにうつされた長良橋の写真で、豪華なかざりのシャンデリアがようめだっとる。このはしは1915年に完成し、1957年まで使用されつづけた。
長良橋の歴史=1874年、明七橋(舟橋) → 1884年木橋 → 1901年、木橋(木トラス式) → 1915年、鉄鋼橋(トラス式) → 1957年、現在のはし(5径間連続鋼鈑桁橋)

名鉄、JRの岐阜駅から岐阜市のめぬきどおり長良橋どおりをずーっときたにすすんで、長良川をわたるとこにかかっとる。はしのみなみづめのひがしがわには信長の築造した岐阜城のある金華山(きんかざん)があって、にしがわにはぎふ長良川うかい観覧船のりばがある。いまは廃止になっちゃった路面電車の線路がはしの中央にはしる。

神田町どおり(きたむき)2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (22) 神田町どおり(大正末期) 1325-850
繁盛(はんじょう)な一街衢(いちがいく)神田町どおり(大正末期)【かくだい】【せつめい】
大正末ごろの神田町どおり2丁目あたり。みなみからきたをみてうつした。ひだりがわ望楼(ぼうろう)のたてもんは岐阜郵便局(現在の岐阜市役所南庁舎)。とおくに岐阜警察署のひのみやぐらがみえる。みぎてのビルは協和ビル。いろいろなのりもんがうつっとる。

いまは長良橋どおりってなまえをかえとる神田町どおり(かんだまちどおり)だ。路面電車の線路は複線か。

神田町どおり(みなみむき)2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (24) 神田町どおりと丸物百貨店(1930年から1937年) 1500-945
殷賑(いんしん)なる神田町どおり(かんだまちどおり)(1930年から1937年)【かくだい】【せつめい】
1930年から1937年の神田町どおりをきたからみなみへうつしたもん。みぎて5階だてのおおきいビルは丸物デパート(1938年には8階だてに増築された)。まんだ弁天堂が丸物のとなりにあった。

おなじく神田町どおりで、これはみなみむきにみとる。

ニュボルート式岐阜停車場付近快飛行2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (26) ニュボルート式岐阜停車場付近快飛行(大正初期) 1400-935
ニュボルート式岐阜停車場付近快飛行(大正初期)【かくだい】【せつめい】
現在の大岐阜ビルまえ付近から東南方向をのぞみ、現名鉄名古屋本線陸橋上の1両の車両と、ほの上空をとぶ飛行機をとらえとる。陸橋上の車両は、岐阜と笠松をむすぶ美濃電気軌道の電車。上空の飛行機は、各務原飛行場でおこなわれた航空啓蒙のための展示飛行(原画には宙がえり飛行ってしるされとる)に参加した機体。この飛行機は1913年陸軍からフランスに出張した長沢賢二郎中尉が購入してきた中翼単葉機ニューポールNGがた単葉機っておもわれる(酣灯社(かんとうしゃ)発行「にほんの航空50年」より)。大正初期の写真。

岐阜停車場ってのはいまのJR岐阜駅のことで、写真てまえの複線の線路が東海道線。むこうのどてうえ高架と鉄橋のうえの線路が美濃電気軌道の笠松線で、ちょうど電車がはしっとる。美濃電気軌道の笠松線がいまの名鉄名古屋本線で、画面をひだりにはずれて東海道線をこえたとこに新岐阜駅がある。

国鉄岐阜駅きたぐちまえのひろば
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (28) 旧国鉄岐阜駅きたぐちまえのひろば(1950年ごろ) 1405-950
国鉄岐阜駅きたぐちまえのひろば (1950年ごろ)【かくだい】【せつめい】
画面おくにみえるひらやのたてもんが駅舎で、ひろばにはバスやタクシー、自転車にのるひと、歩行者がみえる。画面てまえでおおきくカーブするレールは、神田町(かんだまち)どおりをはしる市内電車のレール。1950年ごろの写真。

これだけが戦后の写真になる。国鉄岐阜駅は地平駅で、神田町どおりを南下してきた路面電車の線路が、ぐいーんってみぎにまがって駅前停車場にはいっていく。

柳ヶ瀬どおり
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (30) 柳ヶ瀬どおり(1933年ごろ) 1480-950
市の熱閙地(ねつどうち)たる柳ヶ瀬どおりの雑踏(1933年ごろ)【かくだい】【せつめい】
1933年ごろの柳ヶ瀬どおりをにしからひがしにうつしたもん。みぎおくは丸物。ひだりがわ丸金食堂。百貨店。みぎがわ百助洋品部。

ああ~あ~あ~ やながせの~ よる~にないている~♪ ごぞんじ美川憲一さんの柳ヶ瀬ブルースで全国にしられる柳ヶ瀬どおりだ。神田町どおりをにしにはいったよこちょうで、りょうがわにたちならぶみせがあるくひとなみにおおいかぶさるようなにぎわいだ。

江戸時代

つぎに江戸時代の岐阜の地図。

2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (17) 江戸時代の岐阜の地図 1060-1340
江戸時代の岐阜の地図【かくだい】【せつめい】
1654年(原本は名古屋市蓬左文庫(なごやしほうさぶんこ)所蔵)
岐阜町をえがくもっともふるいえずで、およそ1800分の1の縮尺でかかれております。まちをかこむ土塁(くろ線)とかわ、ほりのようすがようわかります。

区域は金華山の西麓にかぎられる。信長時代から江戸時代をつうじて、この区域だけが岐阜だっただ。名鉄やJRの岐阜駅はおろか神田町も柳ヶ瀬も岐阜の区域にはいってない。いまみたいに岐阜のまちがひろがるのは、東海道線のえきができて、名鉄の前身美濃電気軌道のえきができてからだ。

2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (16) 江戸時代の岐阜って 560-780 2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (19) 江戸時代の岐阜のまちのようす 690-965
(江戸時代の岐阜って)(江戸時代の岐阜のまちのようす)
関ヶ原のたたかいののち岐阜町は幕府の直轄領となり、美濃国内の政治を総括するくに奉行(くにぶぎょう)の陣屋がおかれました。1619年に尾張藩領にくみこまれ、政治の中心地ではなくなりましたけど、戦国時代以来あつめられた商工業者はほのままとどまり、岐阜町は地域経済の中核都市となりました。
まち北部の長良川に面したかわみなとは河川流通のかなめで、尾張藩のかわ役所が材木やふなにの税金を徴収しました。またうかいでとれたあゆでつくるあゆずしはまちの特産品でした。
まちのようす
江戸時代の岐阜町は、そうがまえでかこまれた戦国時代の城下町とほぼおんなじ区域ですけど、あきちとなった旧武士居住地はむらかたとされました。くに奉行は中心部のやまぎわにあたらしく陣屋をもうけ、まちが尾張藩領となると、ほのしきちには藩の御殿がおかれます。1695年に岐阜奉行が新設されると、おんなじばしょが奉行所となりました。
岐阜町は44のまちからなり、そうどしよりを最高位とするまち役人によって町政が運営されました。人口は18世紀なかごろには5,300人をかぞえ、まちなみはそうがまえからあふれて、周囲のむらかたにひろがっていきました。

美濃のくにえず

さいごにおまけとして、岐阜をふくむ江戸時代の美濃のくにえず。

美濃のくにえず - 全体
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (1) 美濃のくにえず(1834年) - 全体 1470-1000
(美濃のくにえず(1834年) - 全体)

岐阜県全体の地図はようみるけど、美濃のくにだけの地図をみることはなく、新鮮だ。写真は岐阜市歴史博物館1階のかべにでかでかとはりだされとったやつをとったもんだけど、うちでもみれるように縮小版を1枚かってきた。

岐阜のへん
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (2) 美濃のくにえず - 岐阜のへん 1920-1080
(美濃のくにえず - 岐阜のへんの拡大図)

岐阜が、厚見郡(あつみぐん)っていう、きいたこともないちいさな郡に属するのが意外だ。

御嵩のへん
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (3) 美濃のくにえず - 御嵩のへん 1920-1080
(美濃のくにえず - 御嵩のへんの拡大図)

表記は「御岳」になっとるけど、いまは名鉄広見線(ひろみせん)の終着点である御嵩(みたけ)は江戸時代、美濃太田(みのおおた)から東濃地方にぬける中山道にそうまちだった。

大垣のへん
2018.5.4 岐阜市歴史博物館 (4) 美濃のくにえず - 大垣のへん 1920-1080
(美濃のくにえず - 大垣のへんの拡大図)

地形としては岐阜より大垣のほうがひろびろとしとって、おおくのむらむらにかこまれとる。大垣も岐阜におなじく中山道からははずれとって、大垣もよりのしゅくばまちはきたにある赤坂になる。


(さんこう)