いまの蒲郡市(がまごおりし)のもとが、1875年に西ノ郡村(にしのこおりむら)と蒲形村(かまがたむら)が合併してできた蒲郡村(がまごおりむら)だ。ほれから15年あとの1890年の蒲郡村の地図があった。東西のとおりに密集して市街地があって、みなみのほうには2年まえに開通した東海道線がとおっとる。ほいで、ほの当時の密集市街地がいまも銀座どおり商店街になっとるっていう。この密集市街地、往時は西町、東町のなまえでよばれとっだげなけど、ほの西町、東町の1907年から1916年ごろの軒割図(のきわりず)とみくらべるかたちで、現地をあるいてみた。訪問したのは2019年6月にじゅうよっか。軒割図は以前に蒲郡市博物館から提供していただいたもん。
1890年の蒲郡村の地図
西町、東町の1907年から1916年ごろの軒割図
うえが西町でしたが東町。画像は上下2枚になっとるけど、じっさいは西町から東町へと1本のとおりでつながっとる。西町と東町の合計で軒数が109軒。うち、商家が69軒。薬証寺や秋葉神社なんかの社寺も、不特定多数のひとがではいりできるっていう意味で商家にふくめた。商家以外は住宅。
2019年の現地訪問(2019年6月にじゅうよっか)
起点は蒲郡駅からきたにのびる駅前商店街が銀座どおりにあたった地点。この地点が西町のうちのひがしのほうにあたるだけど、こっからにしに西町のはしまでいって、おりかえしてひがしに東町のはしまでいって、また、おりかえしてこの地点にもどってくるっていう順路にする。進行方向のひだりがわのたてもんを順番にみていって、ほいでぜんぶが網羅できるってわけだ。ちなみに、ふるいのわがやからこの地点にいたるまでのようすは、2019年7月ついたちのブログ記事にかいたとおり。
しゅっぱつ地点からとおりをにしにみる。ひだりがわ、さいしょに、一部3階だての2階だて5軒ながやの共同ビルがある。
1軒めに Shops Pai っていうみせ。軒割図にある山川勝蔵(呉服)のとこだ。往時とのつながりはわからんけど商売はつづいとるってことで、「商売継続」って判定。
5軒めに好美洋品店。軒割図にある富田弓太郎(糸屋)のとこだ。これも往時とのつながりはわからんけど商売はつづいとるってことで、「商売継続」って判定。
2階だて5軒ながやの共同ビルからにしはすかすかで、中央本町交差点を右折してきたにすすむ。
すぐに左折して、にしにはいっていく。
ひだりに土蔵もあるりっぱな住宅。軒割図にある山本久左衛門(たまり屋)のとこだ。まあ商売はやってないみたいだけど、山本名の表札がでとるとこから、「世帯継続」って判定。
つぎに事業所。軒割図にある松山荒治郎(米屋)のとこだ。なんだかわからんかっただけど、みなみにまわってみたら蒲郡アパートサービスセンターだった。むかしみたいな米屋じゃないけど、なんらかの商売を継続しとるっていう意味で「商売継続」って判定。
つぎに2階だての木造たてもんが2軒。軒割図にある山本志の(旅籠)のとこか。たてもんがはたごっぽいとこからほうおもった。商売はやってないけど、はたごをやっとった世帯が継続して居住しとるって推測して、「世帯継続」って判定。
ひがしへのおりかえしのさいしょが薬証寺。軒割図にある薬証寺のとこだ。「商売継続」で「世帯継続」。まぐちのいちばんひだりにいりぐち。のぼりばたに三河新四国霊場ってかいてある。
まぐちのまんなかにある山門からなかにはいって、おまいり。
境内ひだりおくに西町会館っていうたてもんがあるのをかくにん。この地区のひとたちの集会所にちがいないだけど、西町っていうなまえがいきとるだ。むかしの西町はいま中央本町っていう町名にかわっとる。
境内みぎおくに土蔵群があるのをかくにん。薬証寺がわのしきちにあるのか、となりのしきちにあるのかはっきりせん。
薬証寺のつぎに万金商店。いいな~、ふぜいのある木造たてもんにむかしなつかしいホーローかんばん。軒割図にある山本浅右衛門(米穀商)のとこだ。「商売継続」で「世帯継続」って判定。
つぎに木造総2階だてのたてもん。軒割図の大久保福松(十文字屋八百屋)のとこだ。商売はやってないけど大久保名の表札がでとって、「世帯継続」って判定。
また木造2階だてのたてもん。軒割図の大森栄五郎(明治堂表具)のとこだ。いまは商売はやってないけど、このたてぐのりっぱさはもと表具やにまちがいない。大森名の表札もでとって、「世帯継続」って判定。
つきあたりにT字になる交差点の西北角に5軒ながやの共同ビルがあるだけど、ひとつもかんばんもなくて、ぜんぶシャッターがおりとる。
T字交差点みなみの中央本町交差点からひがしにすすむ。さいしょに一部3階だての2階だて8軒ながやの共同ビル。1軒めから3軒めにかけて小池商事がはいっとって、交差点のかどの部分には ZAKKA by Koike っていうみせもある。軒割図の小池吉左衛門(かじ源)のとこだ。「商売継続」で「世帯継続」って判定。
つぎに新光堂薬局。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
つぎに御菓子司(おんかしつかさ)成瀬屋。シャッターはおりとったけどみせはやっとるって推測。これも軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
ビルがかわって、こんどは3階だて2軒ながやの共同ビル。2軒めにたばこやがあって、軒割図の太田惣次郎(たばこ)のとこって推測。みせはやっとりそうになくて、「世帯継続」って判定。
1軒おいて、園芸のみせ山幸。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
起点からさらにひがしにすすむ。
ひだりに、一部3階だての2階だて5軒ながやの共同ビル。
2軒めに、毛髪やら肥満やら婦人病やらの研究ってかいたみせがあるけど、シャッターもしまとって、みせはやってないって推測。
3軒めに浅井作業服店と都築商店。これも、とやシャッターがとざされとるわ、かんばんの文字もかすれとるわで、みせはやってないって推測。
4軒めに衣料品店のすずや。これはばりばり営業しとる。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
5軒ながやの共同ビルをふりかえる。
本町西交差点からひきつづいてひがしにすすむだけど、ここをちょこっとすぎたとこから東町になる。いま、本町西交差点からひがしは本町っていう町名にかわっとる。
ちょこっとすすんで、ひだりにおべんとうのはたのみせ。かんばんもないしシャッターもおりとるし、みせはやってないって推測。
だいぶすすんで、パール美容室。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
ツヂ薬局。シに点々じゃなくてチに点々。軒割図にある辻十郎(赤馬薬局)のとこだ。いまもくすりやをやっとる。「商売継続」で「世帯継続」って判定。
となりに住山畳店。軒割図にある住山守吉のとこだ。むかしは商売をやってなかったけど、いまはたたみや。住山名では新規に商売をはじめたわけだけど、ほかのみせの商売がひきつがれたってかんがえて、「商売継続」って判定。もちろん「世帯継続」。
となりに浅井ミシン工業。軒割図にある浅井のとこだ。ここも浅井名では新規に商売をはじめたわけだけど、住山畳店におなじく「商売継続」って判定。もちろん「世帯継続」。はりがみに1キロひがしに移転したってかいてあったけど、このままの判定とする。
ちょこっとすすんで、沓名医院。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
また、ちょこっとすすんで、十王堂。どこにも十王堂とはかいてないけど、とおりがかったひとにきいたらまちがいなく十王堂だった。軒割図にある十王堂のとこだ。「商売継続」で「世帯継続」。
この十王堂のまぐちみぎがわにおおきないし灯篭があって、ほの土台いしになにやら文字がかいてある。ひだりはしに「この道」、みぎはしに「吉田道」ってかいてあるのか。なかにひとはみあたらんくて、きくことができんかった。
鈴木歯科医院。軒割図にある鈴木武雄(歯科医)のとこだ。100年以上まえから鈴木名でずーっとはいしゃさんをやっとるだ。「商売継続」で「世帯継続」。
ななし信号交差点までいって、ひだりうしろにふりかえる。
ななし信号交差点からちょこっとすすんで、木造総2階の住宅。軒割図にある安藤幸次郎(織布)のとこだ。まあ商売はやってないけど、安藤名の表札がでとるとこから「世帯継続」って判定。
また、ちょこっとすすんで、マルエー薬局。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
東町のはしまできて、秋葉神社。秋葉神社交差点の西北かどになる。軒割図にある秋葉神社のとこだ。「商売継続」で「世帯継続」。
境内にはいって、おまいり。ひだりおくに東町集会所があるのをかくにん。東町っていうなまえがいきとるだ。むかしの東町はいま本町っていう町名にかわっとる。ちなみに、秋葉神社のひだりどなりに、だしが保管してあるっておもわれる倉庫があった。
秋葉神社交差点からにしにおりかえす。
交差点西南かどは軒割図じゃあ宮田松次郎(カドヤ菓子店)になっとるだけど、あるのはふつうの住宅。表札もかくにんできず。
となりのたてもんのいりぐちに「東町第2常会長」のふだがかかっとる。常会長がなんなのかはわからんけど、やっぱり東町っていうなまえがいきとる。
となりに木造2階だての住宅。軒割図にある村松留吉(仏壇)のとこだ。村松名の表札がかかっとって、「世帯継続」って判定。
ちょこっとすすんで、田中不動産。軒割図のどれにあたるか特定できんけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
となりに木造2階だての住宅。軒割図にある浅井小四郎のとこだ。浅井名の表札がかかっとって、「世帯継続」って判定。
ななし交差点にとうちゃく。ひきつづきにしにすすむ。
ななし交差点の西南かどに木造ひらやだての住宅。軒割図にある安藤敬三郎(質屋)のとこだ。安藤名の表札がかかっとって、「世帯継続」って判定。
しばらくすすんで、きたがわにあった十王堂のむかいのへんで、しまったはなやと2階だて木造住宅。しまったはなやは営業してなさそう。木造住宅のほうは、軒割図にある池田彦八のとこで、池田名の表札もあって、「世帯継続」って判定。
また、ちょこっとすすんで、木造2階だての住宅。軒割図にある宮田円二のとこだ。宮田名の表札もあって、「世帯継続」って判定。
となりにマルコン住器。軒割図にある浅井一(画家浅井一介)のとこだ。「商売継続」って判定。
また、ちょこっとすすんで、御菓子司大和屋(おんかしつかさやまとや)。コンクリートづくり総2階のりっぱなみせだ。こんかい、西町、東町をぜんぶあるいてみたなかで、ここがいちばんりっぱなみせだった。軒割図にある安藤小三郎(菓子大和屋)のとこだ。みせにはいっておくさんにきくと、代々ここで和菓子店をいとなんできたっていうことで、「商売継続」で「世帯継続」。
ところで筆者が、100年以上まえの軒割図とみくらべながらまちをあるいとるっていうと、つよい関心をしめしてくれて、軒割図の写真までとってくれる。さらにおくさんは、「軒割図にある鈴木はな(酒大岡屋)はつくりざかやとして商売しとったけど、さいきんてばなした」とか、「おなじく軒割図にある安藤甚八郎(菓子)は、このみせがおや、大和屋がこどもの関係にあって、ともに和菓子店をやってきただけど、おやのほうは廃業していまは住宅になっとる」とか、「となりのスギタ薬局はいまでも商売をやっとるようにみえるけど、ほんとのごくごくさいきんに廃業した」とかいろいろおしえてくれる。ほいから、銀座どおりはどの範囲になるのかきくと、西町のほうは銀座どおりっていうけど、東町のほうはあんまりほうはいわんともおしえてくれる。いや、さんこうになる。あと、店内に創業1920年っていうきのふだがあるのをみて、「軒割図は1907年から1916年ごろのもんだで、大和屋さんは1920年よりまっとふるくからあるですよ」って指摘してあげる。すると、「1920年っていうのはだいたいほれぐらいじゃないかってことで、公称しとるだけのもんですよ」ってことだった。
おくさんとはなしをするあいだも2、3人のひとがきて商品をかっていっただけど、はなしがおわって筆者も「大和俵」と「あゆましゅまろ」をみやげにかう。「大和俵」はひとくち大のもなかで、たべやすかった。
大和屋のとなりがスギタ薬局。軒割図にある杉田和四郎(薬局)のとこなだけど、さっき大和屋のおくさんにきいたとおりごくごくさいきんに廃業した。「世帯継続」とだけ判定。
つづいてハウジングスタジオ OKADA。軒割図にある郵便局のとこになるだけど、郵便局も商売のうちで、ほれが住宅機器のみせに商売がえしたってことで、「商売継続」って判定。
サンワムセン。シャッターがおりとって、どうみてもやっとるかんじのみせじゃない。
ちょこっとすすんで、最新の2階だての住宅。みちからすぐに住宅じゃなくて、なんだいかぶんのクルマおきばのおくに住宅。ここがさっきの大和屋のおやにあたるとこで、軒割図にある安藤甚八郎(菓子)のこと。大和屋のおくさんからきいたとおり、廃業して住宅になっとる。「世帯継続」。
となりに、おかずのヤマコウ。こっから西町にかわるだけど、軒割図にある山本文吉のとこだ。ヤマコウの「ヤマ」と山本文吉の「山」が合致しとるってことで、山本文吉の末裔(まつえい)がこのみせをやっとるもんって推測。山本名では新規に商売をはじめたわけだけど、ほかのみせの商売がひきつがれたってかんがえて、「商売継続」で「世帯継続」って判定。
本町西交差点のてまえに近藤塗装。軒割図にある中川源蔵のとこだ。世帯は継続してないけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
本町西交差点からにしに、2階だて7軒ながやの共同ビル。西町にはいってまた共同ビルがあらわれた。
共同ビルの1軒めがカバンの和田屋。軒割図にある和田とよ(和文米穀商)のとこにちがいなく、「商売継続」で「世帯継続」って判定。
2軒めは「地球一周の船旅」っていうポスターがはってあるだけで、なんのみせだかわからんだけど、いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
3軒めが大黒屋陶器店。シャッターはしまっとるけど、定休びのためだった。いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
4軒めが杉屋呉服店とアンドースタジオ。軒割図にある安藤謙次郎(写真)のとこだっておもうだけど、商売はやってそうになく、「世帯継続」って判定。
5軒めはシャッターがしまっとるけど、杉浦名の表札がでとる。軒割図にある杉浦一二(弘明堂時計屋)のとこにちがいなく、「世帯継続」って判定。
6軒めがSHINTAMAYA。サッシのみせだ。いずれかのみせがなんらかの商売を継続しとるってことで、「商売継続」って判定。
さいごの7軒めはみせはやってないけど、尾崎名の表札がでとる。軒割図にある尾崎竜治(仏具)のとこにちがいなく、「世帯継続」って判定。
こいで起点にもどった。
◇ ◇
総括として、西町と東町で69軒あった商家が29軒になった。また、商家と住宅をあわせた軒数で、西町と東町で109軒あったうち、29軒で世帯が継続しとる。
(さんこう)
- ふるい8時しゅっぱつ、蒲郡9時とうちゃく - 2019年6月にじゅうよっか - あきひこゆめてつどう|2019/07/01
- 銀座どおりにあたるとこで、駅前商店街はおわり。このあとは、銀座どおりをふくむ、西町と東町のまちあるきをする。
- 蒲郡からかえる - 2019年6月にじゅうよっか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2019/06/24
- きょう2019年6月にじゅうよっか、蒲郡(がまごおり)は中央本町(ちゅうおうほんまち)から本町(ほんまち)にかけてのまちあるきをおえて、電車でかえった。
- 西ノ郡村と蒲形村が合併して蒲郡村になる - あきひこゆめてつどう|2019/04/18
- 1890年の地図で、開通したての東海道線のちょっときたに蒲郡村がある。東西のとおりに宅地が密集しとる。中心よりちょっとにしの、とおりがクランクしとるとこからみなみにみちがのびとるだけど、ほのみちが東海道線と交差するとこの東北がわにわずかに宅地がみえるだけど、ひょっとしたらここができたてほやほやの蒲郡のえきのとこだったのかもしれん。かかりいんのひとのはなしで、蒲郡のえきはさいしょ、いまのとこよりにしにあったっていうことだった。
- ほいで、いまの蒲郡市のうちのどのへんになるのかきくと、住宅地図をだしてしめしてくれる。1890年の地図のクランクのとこが、いまの中央本町交差点になるだげな。交差点の東北かどに小池商事っていうみせがある。ほー、ほんとのまちなかだ。いまも、往時のおもかげがあるのかないのか、にぎわっとるのかさびれとるのか。また、おとずれてたしかめてみるよ。
- 銀座通り商店街地図
- 1907年から1916年ごろの西町と東町 〔ついか〕
- 軒割図(もとの図) 〔ついか〕
- 西町と東町(中央本町と本町) - 2019.6.24 〔ついか〕