2019年7月30日は午后から刈谷城下にいって、いまは刈谷市郷土資料館としてつかわれとる旧亀城小学校本館をみてきた。刈谷城下にいくまでの道中やほかにみたもんのこととあわせて、以下に紹介する。
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アンフォーレで開催の新美南吉誕生祭で石川恵深さんの朗読をきいたあと、アンフォーレバス停11時28分のしんあんじょういきバスにのる。あんじょうの市街地をきたにすすんで、定刻の11時38分から5分おくれでしんあんじょうにとうちゃく。下車。電車にのりかえ。しんあんじょう11時48分の弥富いき急行にのる。5005編成4両の5000系ぎんいろ電車。3号車5155号にのっただけど、やけにばたばたおとがする。モーター車だでおとがするっていう以上のもんのようなきがした。にしにすすんで、11時53分、知立は5番のりばにとうちゃく。下車。おりたホームでまつうちに、5番のりばにつぎの岐阜いき急行がきて、みおくり。2両編成の3100系きんぎょばちと4両編成の3500系きんぎょばちの連結。ふりかえると、4番のりばにおりかえし碧南いきふつうになる電車がとうちゃくしとって、乗客がおりてくるとこだ。6044編成2両の6000系かんつうがた。のりこんだとこで、5番のりばに新鵜沼いき快速特急がとうちゃく。乗客ののりおりをおえた新鵜沼いき快速特急がしゅっぱつしたわずかあとに、わが碧南いきふつうもしゅっぱつ。時刻表上で同時刻の12時1分しゅっぱつだけど、相互ののりかえも可能だった。
さいしょは複線。名古屋本線と平行にひがしにでて、ほっからみぎにぐいーんってまがって、進行方向が西南方向にかわる。きのまくらぎの線路を時速90キロですすむ。ちょこっとひだりにまがって、相対ホームの重原に停車。ひがさをさしたおんなのひとがひとりのってくる。重原をでて単線になるだけど、ひだりに複線用地がある。ひだりにずれて、東海道線をこえる。みぎにまがって、東海道線と平行にみぎにすすむ。東海道線の電車をみながら、しましきホームの刈谷に停車。いつもならさきにまっとるはんたい電車も同時停車。おおぜいののりおりがあって、たちきゃくがだいぶへる。
はんたい電車がしゅっぱつしてちょっとまち時間があってから刈谷をしゅっぱつ。こっからまた複線。ひだりにまがってふみきりをすぎて、高架をあがっていく。時速60キロでゆっくりすすむ。
12時11分、ひだり曲線のとちゅうで、しましきホームの刈谷市にとうちゃく。下車。けっこうなかずのひとがおりて、ホームにまっとった女子高生らがのっていく。
かいさつをでてひるごはんだっておもったら、あてにしとったやまやはやすみ。ほのままえきまえどおりから於大どおりってきたにあるいて、T字にあたって左折。ちょこっとにしにすすんで銀座4丁目交差点にとうちゃく。こっからまっすぐにしにはいらんで、ひだりクランクしてにしにはいったとこにむかしながらのそばやさんを発見するも、しばらく休業のはりがみ。ほのまま土蔵づくりっぽいふぜいのあるたてもんのとこまでいって、右折。住宅街のなか、たにみちをきたにすすんで、八幡町交差点てまえみぎがわに、下町常夜灯あとを発見。説明がきをよんでみる。「このかどが刈谷町と熊村のさかいだった。移築していまは刈谷市郷土資料館のまえにわにある。正面に『永常灯』、ひだり側面に『当所安全』、みぎ側面に『嘉永四歳次辛亥九月吉日』ってかいてある」。石柱のいしぶみもあって、ほのみぎにはほこらもある。
八幡町交差点の西南かどに、みよしやっていうおにぎりやさんを発見。2個かう。クルマどおりをにしにすすんで、体育館南交差点から西北、亀城公園にはいっていく。亀城ってのは刈谷城の別名で、しろあとがこの公園になっとるだ。本丸あとにはいったとこで、十朋亭っていうたてもんを発見。周囲よりたかみになっとるとこにまた2階だてのたてもんがあるわけで、ずいぶんとめだつ。1階が自由につかえるようになっとって、ここでさっきかったおにぎりをくって、ひとやすみ。いや、そとがあっついだけに、冷房のきいた室内はありがたい。そとにでて、この十朋亭の説明がきをよんでみる。「1916年、大野介蔵が本丸あとに士族会員の会合ばしょとしてつくった。2階だて。江戸初期に3層のやぐらのあったとこだ。いまのたてもんは1972年3月に改築された」。ほー、士族会員ってのが城下町らしいな。わがあんじょうにはおらん人種だ。江戸初期に3層のやぐらがあったっていうと、天守閣のなかった刈谷城上じゃあ、ほのやぐらが中心的なたてもんだったのか。
また、公園のなかをにしにすすんだとこで、刈谷城あとの説明がきがあって、よんでみる。「1533年、水野氏が金ケ小路のほとりに築城。譜代大名が代々の城主だった。水野、分家水野、深溝松平、久松松平、稲垣、阿部、本多、三浦、土井の9氏。1871年、廃藩置県で刈谷城は政府保有になって、城郭の建造物はとりはらわれる。1913年、大野介蔵に売却され、旧しろあとを永久に保存することになった。1936年、町から旧しろあとを公園にしたいっていう意見書がだされて、刈谷町にうりわたされて、翌年には亀城公園になった」。おー、大野介蔵って、十朋亭つくった大野介蔵じゃんか。士族会員の会合ばしょとしてりっぱなたてもんをつくったっていうだけじゃなくて、このしろあとぜんぶを政府からかいあげただ。いやいや、どんなにかねもちなだ。やっぱり士族のまちはひとあじもふたあじもちがうな。
公園をにしにつきぬけて、境川の堤防にでる。対岸である西岸は東浦町の緒川地区。かわをはさんではおるけど、ついめとはなのさきだ。刈谷城をつくった水野氏はほの緒川からここにうつってきただ。境川は当時まんだころもがうらっていううみだって、ほのうみをわたってきただ。
ほの情景をおもいうかべながら、すぐうしろにあるおしろのいしがきをみる。
刈谷球場のすぐにしがわをみなみにあるいて城町交差点にでて、ほっからまたみなみにさかをあがっていったとこで、ひだりにレンガ塀。
塀のなかに旧亀城小学校本館。亀城小学校ほのもんは、いまもこの旧本館のまわりにあるだけど、旧本館だけが保存されて刈谷市郷土資料館としてつかわれとる。よこながに16スパン。まんなかの2スパン分のとこに、こっちがわにでっぱって玄関。さらにこのりょうがわに、こっちがわにL字がたにでっぱるかたちで左右4スパンづつ。それぞれのスパンの中央にはたてながのまど。うつくしいたてもんだ。
玄関のわきに説明がきがあって、よんでみる。「旧亀城小学校本館。1980年5月ついたち、刈谷市郷土資料館として開館。大中肇の設計による。1926年着工。1928年完成。木造かわらぶき2階だて。一部コンクリートづくり。昭和初期のたてもん様式。1999年2月17日、くにの登録有形文化財になる」。入館は無料。館員のひとにこえをかけて、玄関からなかにはいる。天井もはりもかべもしろくぬられとる。
ひだりに廊下をみる。こしいたやまどわく、天井のわくなんかのきの部分はおちついたちゃいろにぬられとる。
みぎに廊下をみる。
つきあたりまでいって、階段で2階にあがる。
2階の廊下をみとおしてみる。
2階廊下のまんなかの階段で1階におりる。この階段はたてもんのうらがわにでっぱっとる。教室にはいると資料館としての展示があって、昭和の生活を再現したへやなんかにもはいってみただけど、このたてもんのうつくしさにかなうもんじゃない。
たてもんをでて、まえにわにあるっていう常夜灯をかくにん。どえらいでっかい常夜灯だ。説明がきをよんでみる。「1851年に銀座6丁目につくられたもん。よみちをいそぐひとびとのめじるしになった。大正時代まではむかしのままのすがただっただけど、ほのあとはくずれおちて土砂やおちばんなかにうまりかけとった。ほこで、移築して刈谷市郷土資料館のまえにわにくみたてた。たかさ3メートル」。
このあと、みちをみなみにちょこっとすすんだとこで、ひだりがわ、亀城小学校校庭のわきに刈谷城大手門あとのいしぶみを発見。これまでみつけれんかっただけど、こんなとこにあったとは。この発見をさいごに刈谷城下のまちあるきをおえて、えきにもどる。
(さんこう)
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- はしらどけい、くろ電話…|いわせあきひこ|フェースブック|2019年7月30日15:25 〔※ 限定公開〕
- はしらどけい、くろ電話、ブラウン管テレビ、ちゃぶだい、えもんかけ、鏡台。ひととき昭和にひたる。
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- 2019年5月16日、刈谷城下をあるいた。いや、刈谷って城下町っていうけどぜんぜん城下町っぽいとこなんかないじゃんかっておもっとっただけど、じつはあっただ。なんじゅうねんもとなりの市にすんどりながらしらんかっただけに、おどろきはおおきかった。このひもじつは、ことし2019年3月にじゅうよっかに開館したばっかりの刈谷市歴史博物館にいくのが目的だって、刈谷市駅からあるいていくとちゅうにたまたま「刈谷城下」を発見したってわけだ。城下をあるいたようす、博物館を見学したようすを、以下に紹介する。
- またすすんだとこで、みぎに風格のある洋風のたてもん。いまは郷土資料館としてつかわれとるだけど、もともとは亀城小学校の本館としてつかわれとったたてもんだった。いや、ほれにしても、なんちゅうりっぱなたてもんだ。