2020年6月よっか、浜松をたびした。パノラマスーパーとこだま号をつかっていきかえりして、さらに現地では遠州鉄道と遠鉄バスをつかっていきかえりして、ともだちにおしえてもらった元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)をたずねた。
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さいしょは西尾線。ふるい8時17分のしんあんじょういきふつうにのって、あんじょう平野をきたにすすむ。車両は2両編成かんつうがたのあっかい電車。
8時26分、しんあんじょうは2番のりばにとうちゃく。ふるいからしんあんじょうまで5.7km、9分、38.0km/h。
4番のりばに移動。名古屋本線にのりかえ。しばし電車見物のあと、しんあんじょう8時58分の豊橋いき特急にのって、ひがしにすすむ。車両は8両編成のパノラマスーパーで、1号車展望席5Dにすわっていく。
9時26分、豊橋にとうちゃく。しんあんじょうから豊橋まで38.3km、28分、82.1km/h。かなりはやい。
東海道新幹線にのりかえ。豊橋9時41分の東京いきこだま708号にのって、ひがしにすすむ。きっぷは自由席で、先頭16号車ひだり席5Dにすわっていく。
9時53分、浜松にとうちゃく。豊橋から浜松まで35.3km、12分、176.5km/h。破壊的なはやさだけど、これも標準軌を採用しとるためだ。
いったん東海道線で豊田町(とよだちょう)までいきかえりして、浜松のえきをでる。
遠州鉄道の新浜松のえきをにしにぬけたとこにある喫煙所でいっぷく。ここは5階だて雑居ビルの北面にあって、となりにたからくじうりば。ほのとなりにローソン。うえの階は雀荘やライブハウス、バー。たばこをすうひとたちのなかには、おねえさんふたりも。いいな、このふぜい。
遠鉄百貨店8階飲食店街は浜松ぎょうざのみせ錦華(きんか)にはいって、ひるごはん。たのんだのは半チャーハン、半ラーメン、ぎょうざ3こにみつまめのセット。いや、うまい。
はらごしらえができたとこで、遠州鉄道。高架の新浜松12時36分の西鹿島(にしかじま)いきふつうにとびのる。電車は12分ごとにあっていそぐ必要もなかっただけど、人間ってのはめのまえのもんにとびつくもんなだ。遠州鉄道っていやああかでんなだけど、のったのはどういうわけか2両編成のみどりいろ電車。みぎにあかでんをみながら、しゅっぱつ。きたにすすむ。
車内も外観にあわせて、みどりいろ基調。2両のあいだにとびらはなくて、ひろびろかんじる。
単線の高架をすすんで、すぐにひだりかためんホームの第一通りに停車。ホーム柵があるのがすごい。
また単線の高架をすすんで、12時38分、相対ホームの遠州病院(えんしゅうびょういん)にとうちゃく。新浜松から遠州病院まで0.8km、2分、24.0km/h。ホームのはしにあった回収ばこにきっぷをいれて、階段をおりる。ICカード乗車券のひとは機械にカードをかざしていくだけど、きっぷのひとはこういうふうになるだ。良心を前提にできたしくみだ。したにおりたとこにかたちばっかりのかいさつがあって、ほのままとおりぬける。ほっからまた階段をおりて地平にでる。
地平にでたとこのすぐよこに新川交番。めざす元城町東照宮はこっから西北にあるだけど、まずは高架した、にしがわの側道をきたにすすむ。すぐに、みぎがわに秀忠公たんじょうのいど。家康は浜松城主の時代がながくて、のちの2代将軍秀忠もここでうまれただ。
しばらくいったとこでひだりにまがって、新川っていうかわをみぎにそって、センターラインのないみちをにしにすすむ。
ちょっといったとこで、新川にかかる后常橋(ごじょうばし)っていうはしをみてみる。なんかいいかんじだ。
また、にしにすすむ。左右住宅街のなか、ぽつぽつとこりょうりやがある。いなか料理のみせ、一品料理のみせ。おおきなみちをよこぎって、食事どころはせがわ。いいかんじのとおりだ。二俣街道をよこぎるとこで、ひだりに元目町(げんもくちょう)バス停を発見。1時間に1本のバスだけど、これで浜松駅にもどれることをかくにん。よこぎってまたにしにすすんで、みぎに浜松市役所元目分庁舎。ひだり、いしがきのうえにもり。ここが元城町東照宮にちがいない。まっすぐいくとおおどおりにでちゃうだけど、てまえのひだりにはいっていくみちをいく。みぎがわにいしがきをみながら、みなみにさかをあがっていく。さいしょの十字路をみぎにまがって、また、みぎがわにいしがきをみながら、にしにさかをあがっていく。この十字路のとこのいしがきのうえにはたてもんがあるだけど、いしがきからおちこぼれそうになってたっとるのにおどろく。
のぼりざかがうまのせになったとこで、すぐみぎに元城町東照宮。おもっとった以上にこぢんまりとしたおみやさんだ。とりいをくぐって、ひだりにちょうずしゃ。なかの水盤のうえに由緒がきがあって、よんでみる。
旧幕臣井上八郎氏(延陵)が1884年、元城町古城(旧曳馬城あと)に創建。神社の管理は大日本報徳社から大石力氏にうつって、さらにほのあと元城町の氏神、村社になる。1945年、戦災により焼失。1949年、再建(社殿、ちょうずしゃ、社務所)。
なるほど。明治になってから、古城のあとにたてたおみやさんだっただ。
ひだり、ちょうずしゃのつぎは、井上延陵くんのいしぶみ。
みぎに元城町公民館。いしがきからおちこぼれそうになってたっとったのが、この公民館だ。
いしだんをあがってすすんで、拝殿におまいり。ももいろのはしらに、朱ぬりの欄干、銅板ぶきでみどりいろのやね、千鳥破風(ちどりはふ)と唐破風(からはふ)の二重破風。コンクリートづくりではあるだけど、上品でしゃれたおみやさんだ。
うしろにつづいて、わたり殿と本殿。どっちも銅板ぶき。本殿にはちぎ、かつおぎもついとって、いかにもな神社建築だ。
ところで、本殿のうしろ、フェンスにかこわれたなかにコンクリートのかたまりがある。なんかっておもったら、「浜松大くうしゅうでやけあとになったとこにたてたほこらの台座」だっていう。社殿ももりもやけちゃったあとに、じもとのひとたちがちいさなほこらをつくって、おまつりをつづけただ。もしほこらがなかったら、戦后の区画整理事業でこのもり自体がけずりとられちゃったかもしれんだ。このほこらがあったおかげで、元城町東照宮がのこって古城のあとものこって、いまも歴史的遺産としてここにあるって、説明がきにかいてある。いや~、ほんな経緯があったとは。
ほこらの台座のうしろ、こだちのすきまから西南方向に浜松城をみる。古城からあたらしいしろは、めとはなのさきだ。
社殿のみぎに家康と秀吉の銅像。まんなかにたって、記念さつえい。こいで出世はまちがいないとのこと。ほんとかな。
さいごのとりいのとなりの説明がきをかくにん。「むかしは、いまの馬込川(まごめがわ)が天竜川の本流だって、ほの西岸に町屋(まちや)が発展して、ほの町屋をみおろすおかのうえにできたのが引間城(ひくまじょう)。家康がさいしょに居城にしたのもここで、三方ケ原のたたかいで信玄にまけてにげかえってきたのも、引間城のきたぐちにあたる玄黙口(げんもくぐち/元目口)だった」っていう。おー、元目って、ここにくるまでにとおってきたとこだ。さらに、「秀吉もここをおとずれたことがある。浜松城が整備されてからここは古城っていわれて、こめぐらなどにつかわれとった。1886年、旧幕臣、井上延陵(いのうええんりょう)が本丸あとに家康を祭神とする元城町東照宮をたてた」とのこと。説明がきには地図もついとって、位置関係がようわかる。
元目町バス停までもどって、かえりのバス。13時56分の定刻から10分おくれでやってきた遠鉄バスにのる。乗客は15人。尾張町バス停でふたりおりて、乗客は13人に。田町バス停、田町中央通りって通過。
14時5分の定刻から10分おくれで浜松駅は10番バスのりばにとうちゃく。マナカはつかえんくて、現金140円をはらってバスをおりる。
バスのりばから地下通路にもぐって、あがって、えきコンコースにとうちゃく。おんなじ地平にあるのにばかなことだ。売店でみやげをかって、タリーズでいっぷく。
かいさつをはいって、浜松15時27分の名古屋いきこだま729号にのる。
15時35分、豊橋にとうちゃく。浜松から豊橋まで35.3km、8分、264.8km/h。いやいや、いきも176.5km/hっていう破壊的なはやさだっただけど、かえりは、さらにほの1.5倍のはやさだ。座席にすわっとるまもない。
名鉄にのりかえ。パノラマスーパー、あっかい電車、あっかい電車ってのりついで、ふるいにもどる。
(さんこう)