わが西三河の区域において、大友皇子(おおとものみこ)にかかわりがありそうなとことして、これまで、小針(こばり)にある大友皇子のはか、小針神明社、大友天神社、東大友町(ひがしおおどもちょう)にある大友皇子御陵ってみてきて、こんかいが東大友神明社だ。
小針神明社はかかわりがなかった。大友天神社は大友皇子がまつってあった。東大友町にある大友皇子御陵は、いしぶみに「1908年10月1日村社へ合祀」ってかいてあって、なぞがのこった。いったいどこの村社に合祀したのか。こんかい東大友神明社にいって、なぞはとけた。
◇ ◇
東大友神明社は、大友皇子御陵とおなじく東大友町にある。ともに、国道1号線暮戸(くれど)交差点からきたにのびる長瀬みなみどおりの1本ひがしの、南北にはしる生活道路に面しとって、東大友神明社のほうがちょこっときたにある。
社殿はひがしむき。とりいはいしづくりで、うらめんに「明治100年記念/1968年12月」ってかいてある。
とりいのひだりに社記。
社記
1.鎮座地:岡崎市東大友町字堀所36番地
1.神社名:神明社
1.祭神:
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、大友皇子(おおとものみこ)、保食神(うけもちのかみ)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)
1.例祭日:10月8日
1.氏子数:330戸
1.由緒:
この東大友町は往古入海に沿ひたる処にして壬申の乱(西暦673年〔注1〕)大津の軍利あらず。時に大友皇子御舟にて南海を巡りひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧海湾に到り沿岸の地に駐り給ふ(とどまりたまう)。村人相謀り王子〔注2〕の為に館を竹林の中に造りて皇子を住ますしめ奉る。今に其処(そこ)を丸薮と言へり。皇子祠を建てて天照皇大神を祀る。当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以て村人此の地を大友と称ふるに至る。后村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。然るに1753年〔注3〕5月矢作川氾濫し北野切の災に遭ひ祠流失。1880年〔注4〕9月再建す。当社は1876年1月村社に列し1908年10月7日無格社大友神社を合祀。1937年12月8日境内社なる稲荷社、社口社、諏訪社の三社を合祀す。1953年7月18日宗教法人となる。1959年9月の伊勢湾台風により大松が倒れ社殿が倒壊。氏子の献身的努力により1965年10月21日立派に竣工し現在に至る。
2001年10月8日
いや、すべてがわかった。壬申の乱で大津のみやからおちのびてきた大友皇子が、碧海湾沿岸のこの地にやってきて、むらびとたちがやかたをたててすまわせてあげただ。ほれが丸薮のやかた。碧海郡(へっかいぐん)は洪積台地と沖積平野からなるだけど、沖積平野のふかいとこまでうみがはいりこんできとったってのもおもしろい。おんなじ碧海郡の姫小川誓願寺(せいがんじ)の由緒にも、「孝徳天皇皇女綾姫が姫小川に漂着してすむ」っていうはなしがある。
ほいで、大友皇子は、ほこにあまてらすおおみかみをまつるほこらをたてる。ほれがこの東大友神明社だ。正式名称は神明社でしかないけど、よその神明社とまちがえんように東大友神明社っていう。これとはべつに、のちにむらびとが大友皇子をまつる大友神社をたてる。これはいったん矢作川の氾濫で流失。のちに再建。ところが1908年10月7日に東大友神明社に合祀される。うん、大友皇子御陵のいしぶみにかいてあった「1908年10月1日村社へ合祀」に合致する。大友皇子御陵のとこに大友神社があっただ。
注1:672年のまちがい
注2:皇子のまちがいか
注3:和暦で宝暦2年ってかいてあるで1752年のまちがいかもしれん
注4:和暦で明治12年ってかいてあるで1879年のまちがいかもしれん
社記のひだりに神社名をかいた石柱。正面に「村社神明社」、みぎめんに「矢作町大字東大友/戸数51戸」、ひだりめんに「1910年4月建之/寄付人、当所、高木政次郎、平松利造、伊与田直蔵、伊与田浅治郎」ってかいてある。うらめんは、いちばんしたのほうに石工のなまえ。
境内をすすんで、かわらぶきの長屋門。いや、神社にこんなのがあるって、めずらしい。まんなかに門。左右のたてもんはなかがへやになっとって、倉庫としてつかわれとる。
長屋門をくぐってふりかえってびっくり。左右のたてもんは、L字におくにのびとった。長屋門ぜんたいでコの字になっとる。
拝殿におまいり。いやこの拝殿もかわったふんいきだ。やねが銅板ぶきの、つまいりのしろっぽい、簡素なたてもんなだけど、おくゆきがあさくて、せーたかだ。
まわりこんでおくの本殿をかくにん。銅板ぶきの神明づくりで、ちぎとかつおぎがついとる。ちぎは水平ぎりのめすちぎ。欄干つきのえんがわと、ほこにあがる擬宝珠つきの階段がついとって、やね以外はぜんぶしろぬり。一見コンクリートっぽくもみえるけど、しろくぬってあるみたいだ。これもめずらしい。
ちょこっともどって、長屋門のひだりてまえにおはらいどころ。いしがきと石柱柵でつくった壇のうえに1本のご神木。
おはらいどころからおくにすすんで、拝殿のひだりに大友皇子丸薮のやかたあと。むらびとたちが、たけやぶのなかにやかたをたてて大友皇子すまわせてあげたっていうのが、ここなだ。いしぶみがたっとって、正面に「史跡大友皇子丸薮之館跡」、みぎめんに「所在地、東大友町字稲葉90番地」、ひだりめんに「神明社社記による壬申の乱1320年記念」、うらめんに「1992年壬申閏歳12月8日建立/岩月謙、矢田久明」ってかいてある。1320年記念ってはんぱだなっておもったら、干支は60年でひとまわりだで、672年の壬申の乱から22まわりで1320年になるだ。ほういうことか。いしぶみのおくにおおきなくすのき。
神社のひだりどなりに東大友町公民館。2017年建築の陸やね2階だてのおおきなたてもん。
〔2020年8月28日訪問〕
(さんこう)
- 東大友町にある大友皇子御陵 - あきひこゆめてつどう|2020/08/10
- 西大友町にある大友天神社 - あきひこゆめてつどう|2020/08/09
- 由緒に「往昔(おうせき)天智天皇の長子大友皇子は壬申の乱にあい、従者長谷部信次らとこの地に流偶し草庵をむすぶ。皇子は『天性明悟にして雅より博古を愛ます』と懐風藻(かいふうそう)にあり。のちに信次、皇子のために一祠を創業奉崇し、これを天神宮と称し、その所在地を大友といい、村落を長瀬村とよぶ」ってかいてある。壬申の乱で自害においこまれたってのはおもてむきのことで、じつは従者長谷部信次ともども三河におちのびとっただ。ほいで、大友皇子がなくなって、従者長谷部信次が大友にほこらをたてたってわけだ。長瀬村はいまも長瀬きたどおり、長瀬みなみどおりのなまえがのこっとるけど、明治期にあった矢作地区北部のむらで、大友もふくまれる。
- 小針神明社 - あきひこゆめてつどう|2020/07/24
- (※ 大友皇子とのかかわりなし)
- 小針にある大友皇子のはか - あきひこゆめてつどう|2020/07/23
- しろめぐりで東端城と小川城、姫小川城をみてきた - 2020年1月にじゅうよっか - あきひこゆめてつどう|2020/02/03
- 2020.8.28 矢作地区北部の地図(あきひこ) 1360-1520