きょう2020年9月ようか、西尾線、名古屋本線、三河線って電車をのりついで、知立(ちりゅう)は重原(しげはら)の万福寺(まんぷくじ)にいってきた。
〔いき〕〔万福寺〕〔かえり〕
◇ ◇
いき
ふるい10時55分のしんあんじょういきふつうにのる。電車は2両編成きんぎょばちのあっかい電車。
単線の西尾線をきたにすすんで、11時2分、しんあんじょうは2番のりばにとうちゃく。
4番のりばに移動。一宮いき急行はぎんいろ電車のため、みおくり。つぎの、しんあんじょう11時12分の岐阜いき特急にのって、名古屋本線をにしにすすむ。電車は6両たす2両のパノラマスーパー。展望車じゃないほうが先頭になっとるけど、こいでも前方視界ばつぐんだ。
豊橋いき急行のぎんいろ電車とすれちがい。しんがたの9500系だけに、ぎんいろ電車でもめだつ。
牛田のてまえで、回送のあっかい電車とすれちがい。方向幕のいきさきがからっぽってのも、なんだかまがぬけとる。
11時16分、知立は5番のりばにとうちゃく。
むかいの4番のりばにとまっとった、知立11時17分の碧南いきふつうにのりかえ。電車は4両編成かんつうがたのあっかい電車。
さいしょひがしむきにでた電車は、ぐいーんっておおきくみぎにまがって進行方向を西西南にかえて、三河線の複線区間をすすんでいく。まくらぎはきのまくらぎ。
11時19分、重原にとうちゃく。のってきた電車が、単線に合流した線路にはいっていくのをみおくって、かいさつをでる。
万福寺
万福寺はえきのみなみがわ。本堂のおおやねがホームからでもみえるぐらいのちかさだ。おおやねをみながら、にしまわりにぐるーって4分の3周して、やっといりぐちにとうちゃく。いりぐちはひがしむきにあるだった。
いりぐちの左右に石柱。ひだりの石柱に、おもてに「林桂山万福寺」、うらに「当寺26世住職釈宗雄」ってかいてあって、みぎの石柱に、おもてに「真宗大谷派本願寺」、うらに「1938年1月|寄進人|野々山文吉、永田志げ」ってかいてある。わがあんじょうしやここ知立市をふくむ西三河でいちばんおおい浄土真宗のおてらだ。わがふるいの願力寺(がんりきじ)から沖縄の真教寺(しんきょうじ)にはいって、戦后の遺骨収集事業にとりくんだ田原惟信(たはらゆいしん)のいもうとにあたるひとが、この万福寺にとついできたってきいて、どんなおてらなのかみにきた。
りっぱな山門をくぐってなかにはいっていく。くぐってすぐひだりにかねつきどう。本堂のみぎてまえに、登録有形文化財のいしぶみ。おもてに「本堂1899年建立、2015年修復|山門1844年再建|鐘楼1862年再建」、うらに「2016年第28世釈了円代」ってかいてある。
本堂におまいり。ごてごてしたとこのないすっきりしたつくりの、おおきくてりっぱな本堂だ。境内も、じつにきれいにていれされとることに感心。
かえり
万福寺のきたのみちをにしにあるいて、すぐにえき。
重原11時56分の知立いきふつうにのる。電車は2両編成かんつうがたのあっかい電車。いや、三河線はかんつうがたがすべてだ。のりこんで、おんなのひとのこえで英語の自動放送がはいるのにおどろく。のっとるの、全員にほんごのわかるにほんじんなのに。英語にたいしてここまで卑屈になるくにもほかにないじゃないか。
電車は時速80キロで東東北にすすむ。90キロにあがったとこで、ここまで。
ぐいーんっておおきくひだりにまがって進行方向をにしにかえて、11時59分、知立は4番のりばにとうちゃく。
こせんきょうをわたって6番のりばにおりてから、かいさつにいかあっておもったとこで、あれ? 通路がない。いや、これまで6番のりばのまんなかからかいさつへの連絡通路があったのに、いちばん豊橋よりにうつっとっただ。高架工事まっさかりの知立駅はひびかわっていくだ。これまで連絡通路だったとこは、まわりもふくめてひろい範囲でふかくほられて、これから鉄骨がたちあがっていくとこだ。この部分があたらしいえきの主体部分みたいだ。
えきまえの信号をわたったとこで、「煙草小売所」のホーローかんばんを発見。みせはあたらしいだけど、このかんばんを后生大事(ごしょうだいじ)につかっとるだ。意識がふわーって昭和にもどっていく。
きたにあるいて、ホテルクラウンパレス知立でひるごはん。あいにくきょうは軽食しかなかったなかで、ビーフカレーライスを注文。ごちそうさまでした。
えきまえまでもどって、ミスタードーナッツでいっぷく。みせをでたとこで、となりにある喫茶あすなろのいりぐちに「8月31日で閉店」のはりがみを発見。えきの高架工事にあわせてやっとる区画整理事業によるたちのきだで、まあしょうがないだけど、ひとつ昭和がなくなるのはさびしい。
かいさつをはいって、知立14時28分の豊川稲荷いき急行にのる。電車は4両編成鉄仮面のあっかい電車。
ひがしにすすんで、14時32分、しんあんじょうは5番のりばにとうちゃく。
2番のりばに移動。しんあんじょう14時37分の西尾いきふつうにのる。電車は2両編成鉄仮面のあっかい電車。
みなみにすすんで、しんあんじょうに停車。佐屋いき急行のあっかい電車がくるのをまって、しゅっぱつ。
スプリングポイントをおしのけて、えきをでていく。
14時45分、ふるいにとうちゃく。きょうのみじかいたびをおえる。
(さんこう)
- 乗車記録 - 2020年9月ようか、かようび、平日
- いき
- かえり
- いき
- ふるいの偉人田原惟信(たはらゆいしん) (1) 人生を決定した沖縄戦 - あきひこのいいたいほうだい|2020/09/07
- 万福寺 (知立市) - Wikipedia
- 本証寺布教大会にいってきた - 2020年9月みっか - あきひこのいいたいほうだい|2020/10/29 〔ついか〕
- 真宗大谷派岡崎教区教務所の杉山寧(すぎやまやすし)師からコールアーバーのはなし。「田原惟信師は願力寺の二男。『流転のしま』の作詞は真教寺5代住職の田原大興(たはらたいこう)師。沖縄の歴史として、北海道からこんぶがきとった。こんぶロードがあって、交易でさかえた。島津氏の沖縄侵攻で20万人以上なくなる。大東亜戦争でアメリカが占領。田原惟信師はちちのようにえかきになりたかったとこを真宗専門学校にいって、暁烏敏(あけがらすはや)にすすめられて、沖縄の真教寺3代住職になった。那覇くうしゅうでてらがやけおちる。摩文仁(まぶに)で、牛島中将自決まで攻撃されつづける。ふんどし1枚のすがたでたすかる。遺骨収集につとめ、魂魄の塔やひめゆりの塔をたてる。いきのこったもんの責務としておこなったこと。教誨保護事業もおこない、沖縄仏教界の会長にもなる。20年以上本堂はなかった。ビルマ仏教大会に参加。99年の生涯をいきる」。
- このあと休憩。杉山寧師からさらにはなしをきく。「田原惟信師のいもうとが知立の万福寺にいった。作曲の清沢久恵さんは、西方寺と関係のある西光寺のひと」とのこと。