2020年10月はつか、名古屋の桶狭間古戦場をみてきた。このひとつきまえに、豊明の桶狭間古戦場をみてきたとこで、こんどは名古屋。しかも案内人つき。
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9時8分、岐阜いき急行のあっかい電車で有松にとうちゃく。まあはいかいさつのそとに桶狭間古戦場保存会の案内人、高瀬幸枝(たかせさちえ)さんがまってみえて、すぐに古戦場めぐりにむかう。まちあわせ時間は9時半だった。
東海道有松のまちなみをよこぎって、みなみにさかみちをあがっていく。一帯は、住宅街になっとる丘陵地帯。
ひがしにさかみちをあがりきって、高根山。てっぺんからにしをみはらす。鉄塔のむこうは大高城だっていう。桶狭間のたたかい当日の今川軍の目的地だ。あさ沓掛城をでて、ゆうがた大高城にとうちゃくする予定だった。とちゅうここ桶狭間に陣どった。尾張のくにのなか、沓掛城、大高城と鳴海城は今川がたのてにおちとるけど、織田がたも、あいさにいくつかのとりでをきずいて対抗しとる。ただ、大高城のてまえにある丸根砦と鷲津砦は、まあはいこのひのうちに今川軍の先遣隊がおとした。
こんどはきたをみはらす。いまはきがしげってようみえんけど、むかしはようみえたとのこと。いま織田軍からの攻撃は、きたの方角にある鳴海城のまわりの中島砦、善照寺砦、丹下砦のほうからだ。桶狭間に陣どる今川軍の最前線が高根山にあって、善照寺砦のほうからせめてくる織田軍の先遣隊と対決。みはらしがよくて、織田軍先遣隊のいごきはまるみえ。今川軍はかんたんにこれをうちとる。
高根山のてっぺんには、織田今川両軍の布陣図と説明がきもある。
高根山からみなみにさかみちをおりて、つきあたりT字を左折。起伏のある住宅街をひがしにすすむ。ひだりて一帯は生山(はえやま)っていうおおきなやまだったっていう。むかしはまっとたかいやまだったとこを、宅地開発したとのこと。
しばらくすすんで、くだりざかのつきあたりのむこうに桜花学園大学(おうかがくえんだいがく)。おー、女子バスケットボールで有名な桜花学園大学ってこんなとこにあったのか。じつは、つきあたった南北のみちが名古屋市と豊明市のさかいだって、大学の所在地は豊明市になる。
南北道路をちょこっとみなみにあるいたとこで、ひだり、大学のしきちにはいって信長坂を見学。このあたりが釜ケ谷(かまがたに)っていうとこで、織田軍本隊がここまできて、こっから信長坂をあがって、みなみにいっきに今川軍本隊にきりこんでいっただっていう。高根山でうちとられた織田軍先遣隊は、今川軍を油断させるためだったとのこと。きたにめをむけさせといて、ひそかにひがしがわからまわりこんできただ。
南北道路にもどったとこで、みちばたに釜ケ谷の説明がき。織田軍本隊がきりこんでいったのは、今川軍本隊の右翼。
ところで案内人の高瀬さん、この桜花学園大学の学生らに観光案内のしかたをおしえてみえるとのこと。また、学生らがほうした体験をもっとるっていうことが就職活動にも有利になっとるとのことで、おかげで就職がきまりましたっていうお礼のてがみをもらうこともあるとのこと。
またみなみにあるいていったとこで、南北道路を東西にまたぐみちがある。なんのみちかってきくと、みちじゃなくて用水だっていう。愛知用水だ。木曽川を水源として、はるか知多半島までみずをはこぶ愛知用水がこんなとこをとおっとるだった。
△ 愛知用水をにしむきにみたとこ
用水にあがって、ひがし、かわかみ方向にすすむ。
ずーっとさき、用水のみぎがわ、やまのうえにあっかい仏塔がかすかにみえる。あー、豊明の桶狭間古戦場をまわってきたときにみた瑜祇塔(ゆぎとう)だ。いまおるとこも豊明市の区域だ。古戦場の区域は名古屋市と豊明市にまたがっとるだ。
用水からみなみにおりたとこは住宅街で、信長坂をあがっていった織田軍がまいおりていったのがここだったっていう。ここが今川軍の右翼。高根山に織田軍先遣隊をけちらして安心しとったとこで、とつぜん側面から織田軍本隊がふってわいてきただ。一転雷雨になったなか、織田軍はきりこんでいった。あめのふるむきも織田軍にみかたしたっていう。今川軍があめがかおにあたるかたちになったのにたいして、織田軍はあめをせにするかたちになって、そうとう優位にたったとのこと。
いったんはなれて、住宅街をにしに移動。名古屋市の区域に七ツ塚を見学。場所は個人宅のにわさきにまわっていったとこ。桶狭間のたたかいにかった信長が、むらびとに命じてつくらせた、戦死者のはかだ。ななつあったうちのひとつが、ここにのこっとる。ほうむってあるのはもちろん織田がたの将兵だけかっておもったら、今川がたの将兵もだっていう。たたかいにいのちをおとした将兵に、てきもみかたもなかった。
もどって、また、名古屋市と豊明市のさかいのへんをみなみにすすむ。てっぺんまで住宅街になっとる丘陵地帯のうちのたかい部分で、このへんをおけはざま山っていうだげな。
おけはざま山からにしをみはらす。
いったんみなみのほうにおりて名古屋市の区域の区域にはいって、きたに転回していくとこで、みなみにのびる近崎道(ちかさきみち)。沓掛城をでた今川の大軍が、さいごこのみちをとおってはいってきただげな。いや、こんなほっそいみちをとおってきたとは。
おけはざま山のにし斜面に今川義元本陣あと。個人宅のまえにいしぶみと説明がき。ここに陣どっとった義元が、右翼からきりこんできた織田軍におそわれる。ぬりごし(塗輿)があるのを発見されて、義元がここにおることがわかっちゃっただ。
まあちょっとにしにおりていったとこに桶狭間古戦場公園。田楽坪(でんがくつぼ)っていう、いちばんひくみになっとるとこにつくった公園で、義元は本陣からこの田楽坪においつめられてうちじに。
公園の一角に義元のはか。
義元公くびあらいのいずみもある。
ところで、名古屋のひとである高瀬さんたちも、こどものころから、豊明にあるのが桶狭間古戦場だっておしえられてきたとのこと。名古屋にも桶狭間古戦場があることがしられるようになったのはまんださいきんのことで、桶狭間村のひとたちのあいだでかたりつがれてきたはなしをほりおこすことで、事実関係があきらかになってきたとのこと。
公園からみなみに、大池のひがしがわをあるいていく。この大池のまわりでは、まいとし万灯会っていう供養祭がおこなわれとるっていう。そもそも、桶狭間村のひとたちが田楽坪でやっとったもんを、名古屋市主催でおおがかりにやるようになったらしい。
長福寺にとうちゃく。桶狭間村にただひとつあるおてらで、境内の一角に「今川義元公くび検証のあと」のいしぶみ。くびあらいのいずみであらったくびをここまでもってきて、今川義元のくびにまちがいないことをたしかめただ。本堂のなかには、今川義元と、今川軍の指揮官松井宗信の木造もある。
境内ひがしのほうに「ほらはざま」。桶狭間村は、じつは南朝の落人集落で、青山、梶野、中山のみっつの名字のひとたちがひっそりとくらしてきたとのこと。いや、ここってほういうとこだったのか。ほういやあ、案内人をおねがいするのにさいしょに連絡をとった、桶狭間古戦場保存会の会長も梶野幸男(かじのゆきお)さんだ。このほらはざまが桶狭間の原風景にちがいない。いまは一面の住宅街になっとるけど、桶狭間のたたかいがおこなわれた当時は、ただ雑木のしげる丘陵がひろがっとるだけのとこだっただ。
訂正。「中山氏一族全員20人ぐらいは、桶狭間村での生活にたえれんくなって、緒川城主(おがわじょうしゅ)水野氏をたよって岩滑(やなべ)に移住。新美南吉の『ごんぎつね』にでてくる『中山のとのさま』になった。いま、桶狭間に中山っていう名字のひとはおらん」とのこと。〔2020年11月16日追記〕
長福寺からにしにすすんで、南北のクルマどおりをよこぎって、桶狭間神明社にとうちゃく。きりとおしの参道は、戦国さながらのふぜい。境内で映画のさつえいがおこなわれることもおおいっていう。ここも、桶狭間村にただひとつあるおみやさん。
南北のクルマどおりをきたにすすんで、桶狭間古戦場観光案内所にとうちゃく。たてもんのなかのかべに「桶狭間のたたかい戦図」。織田軍は熱田神宮からの、今川軍は沓掛城からの進軍経路がしるされとって興味ぶかい。会長の梶野幸男さんもみえて、落人の末裔であることをかくにん。いまもこのあたりには、青山、梶野、中山のみっつの名字のひとたちがおおいっていう。案内してくださった高瀬さんや会長の梶野さんたちに礼をいって、古戦場めぐりをおえる。
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(さんこう)
- 名古屋の桶狭間古戦場観光案内所にある桶狭間のたたかい戦図 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/09
- 名古屋の桶狭間古戦場は長福寺にあるほらはざまと桶狭間発祥の地の説明がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/09
- 名古屋の桶狭間古戦場公園にある桶狭間のたたかい案内 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 名古屋の桶狭間古戦場公園にあるいくさのみち地図 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 名古屋の桶狭間古戦場はおけはざま山の今川義元本陣あと - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 名古屋の桶狭間古戦場にある七ツ塚 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 名古屋の桶狭間古戦場は釜ケ谷の説明がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 名古屋の桶狭間古戦場は高根山にある桶狭間のたたかい布陣図と高根山の説明がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- 桶狭間のたたかいの地図 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- ふるいから有松まで - 2020年10月はつか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/11/08
- にしにすすんで、9時8分、有松にとうちゃく。基本的に準急停車駅だけど、一部の急行が特別停車するだ。1日平均乗降客数は、2018年で14,964人もある。
- かいさつをでたとこで桶狭間古戦場保存会の案内人のかたと合流。古戦場めぐりにむかう。
- 『決戦!桶狭間!!熱田神宮から桶狭間まであるいてみた』 - あきひこゆめてつどう|2020/11/07
- すごい。熱田神宮から桶狭間まであるいたこがおる。
- 2020年10月15日、ぶらっていったあんじょう市民ギャラリーで「歴史ひろば」をやっとって、ほんなかの作品に『決戦!桶狭間!!熱田神宮から桶狭間まであるいてみた』ってのがあっただ。「歴史のひろば」ってのは、小中学生のなつやすみの自由研究のなかから、歴史を主題にした優秀作品をえらんで展示しとるもんだ。
- このこは「桶狭間のたたかい」をなつやすみの自由研究にしただ。ただ、机上で研究しただけじゃない。ただ、桶狭間古戦場にいっただけじゃない。信長の進軍経路をたどるっていうかたちで、歴史を体感しただ。清洲城をでた信長は、とちゅう熱田神宮に戦勝祈願したあと、いくつかのとりでによって桶狭間にとうちゃく。今川軍にきしゅうをかけて、義元のくびをとっとる。このこはあしがるになってこの経路をたどった。
- 豊明に桶狭間古戦場をみてきた - 2020年9月21日 - あきひこゆめてつどう|2020/10/05
- 桶狭間のたたかい - Wikipedia
- 第2部緑区あれこれ - 名古屋市〔PDF〕 > 桶狭間
- 桶狭間で人々の生活がいつから始まったかは正確にはわかっておりません。二つの朝廷が争う南北朝の戦いに敗れた南朝の武者が、1350年ころ山間の谷間で農業をして生活するようになりました。
- このあたりの山には、多くの洞穴があったので、はじめは「洞(ほら)」と言われていました。その「洞」と「狭間」がつながって「ホラハザマ」と呼ばれました。そして「洞」をこの地方では「ホケ」と呼ぶことから「ホケハザマ」と呼ばれるようになりました。このホケハザマが、いつのころからか「オケハザマ」に変わっていきました。
- 地名は洞迫間が起源のようで、「ホケ」が「オケ」に転じて桶狭間となったとされておりますが、街道を通る人々の喉を潤すため、水汲み用のオケが泉に浮かべてあり、その桶が湧き出す水の勢いでグルグル回る様子から、桶廻間と呼ぶようになったとも言われております。
- 16世紀以前には洞迫間・公卿迫間でそれ以降は桶迫間・桶廻間・桶狭と書かれておりました。1878年の地方制度改正によって「桶狭間」の字があてられることになりました。