名古屋に桶狭間古戦場をみてきた - 2020年10月はつか

2020.10.20 (26) 桶狭間古戦場公園 - 義元公くびあらいのいずみ 2000-1500

2020年10月はつか、名古屋の桶狭間古戦場をみてきた。このひとつきまえに、豊明の桶狭間古戦場をみてきたとこで、こんどは名古屋。しかも案内人つき。

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2020.10.20 (4) 有松 - 岐阜いき急行 2000-1500

9時8分、岐阜いき急行のあっかい電車で有松にとうちゃく。まあはいかいさつのそとに桶狭間古戦場保存会の案内人、高瀬幸枝(たかせさちえ)さんがまってみえて、すぐに古戦場めぐりにむかう。まちあわせ時間は9時半だった。

2020.10.20 (5) 有松交番前交差点からみなみえ 1600-1200

東海道有松のまちなみをよこぎって、みなみにさかみちをあがっていく。一帯は、住宅街になっとる丘陵地帯。

2020.10.20 (6) 高根山からにしをみはらす 2000-1500

ひがしにさかみちをあがりきって、高根山。てっぺんからにしをみはらす。鉄塔のむこうは大高城だっていう。桶狭間のたたかい当日の今川軍の目的地だ。あさ沓掛城をでて、ゆうがた大高城にとうちゃくする予定だった。とちゅうここ桶狭間に陣どった。尾張のくにのなか、沓掛城、大高城と鳴海城は今川がたのてにおちとるけど、織田がたも、あいさにいくつかのとりでをきずいて対抗しとる。ただ、大高城のてまえにある丸根砦と鷲津砦は、まあはいこのひのうちに今川軍の先遣隊がおとした。

2020.10.20 (7) 高根山からきたをみはらす 1400-1050

こんどはきたをみはらす。いまはきがしげってようみえんけど、むかしはようみえたとのこと。いま織田軍からの攻撃は、きたの方角にある鳴海城のまわりの中島砦、善照寺砦、丹下砦のほうからだ。桶狭間に陣どる今川軍の最前線が高根山にあって、善照寺砦のほうからせめてくる織田軍の先遣隊と対決。みはらしがよくて、織田軍先遣隊のいごきはまるみえ。今川軍はかんたんにこれをうちとる。

2020.10.20 (8) 高根山 - 桶狭間のたたかい布陣図 2000-1500 2020.10.20 (9) 高根山 - 説明がき 1990-1460

高根山のてっぺんには、織田今川両軍の布陣図と説明がきもある。

高根山からみなみにさかみちをおりて、つきあたりT字を左折。起伏のある住宅街をひがしにすすむ。ひだりて一帯は生山(はえやま)っていうおおきなやまだったっていう。むかしはまっとたかいやまだったとこを、宅地開発したとのこと。

2020.10.20 (10) 生山からひがしにくだる 1600-1200

しばらくすすんで、くだりざかのつきあたりのむこうに桜花学園大学(おうかがくえんだいがく)。おー、女子バスケットボールで有名な桜花学園大学ってこんなとこにあったのか。じつは、つきあたった南北のみちが名古屋市豊明市のさかいだって、大学の所在地は豊明市になる。

2020.10.20 (11) 桜花学園大学 - 信長坂 1200-1600

南北道路をちょこっとみなみにあるいたとこで、ひだり、大学のしきちにはいって信長坂を見学。このあたりが釜ケ谷(かまがたに)っていうとこで、織田軍本隊がここまできて、こっから信長坂をあがって、みなみにいっきに今川軍本隊にきりこんでいっただっていう。高根山でうちとられた織田軍先遣隊は、今川軍を油断させるためだったとのこと。きたにめをむけさせといて、ひそかにひがしがわからまわりこんできただ。

2020.10.20 (12) 釜ケ谷 - 説明がき 1980-1480

南北道路にもどったとこで、みちばたに釜ケ谷の説明がき。織田軍本隊がきりこんでいったのは、今川軍本隊の右翼。

ところで案内人の高瀬さん、この桜花学園大学の学生らに観光案内のしかたをおしえてみえるとのこと。また、学生らがほうした体験をもっとるっていうことが就職活動にも有利になっとるとのことで、おかげで就職がきまりましたっていうお礼のてがみをもらうこともあるとのこと。

2020.10.20 (13) 愛知用水をみあげる 1600-1200

またみなみにあるいていったとこで、南北道路を東西にまたぐみちがある。なんのみちかってきくと、みちじゃなくて用水だっていう。愛知用水だ。木曽川を水源として、はるか知多半島までみずをはこぶ愛知用水がこんなとこをとおっとるだった。

2020.10.20 (14) 愛知用水(にしむき) 1580-1180
愛知用水をにしむきにみたとこ

用水にあがって、ひがし、かわかみ方向にすすむ。

2020.10.20 (15) 愛知用水(ひがしむき) 1580-1180

ずーっとさき、用水のみぎがわ、やまのうえにあっかい仏塔がかすかにみえる。あー、豊明の桶狭間古戦場をまわってきたときにみた瑜祇塔(ゆぎとう)だ。いまおるとこも豊明市の区域だ。古戦場の区域は名古屋市豊明市にまたがっとるだ。

用水からみなみにおりたとこは住宅街で、信長坂をあがっていった織田軍がまいおりていったのがここだったっていう。ここが今川軍の右翼。高根山に織田軍先遣隊をけちらして安心しとったとこで、とつぜん側面から織田軍本隊がふってわいてきただ。一転雷雨になったなか、織田軍はきりこんでいった。あめのふるむきも織田軍にみかたしたっていう。今川軍があめがかおにあたるかたちになったのにたいして、織田軍はあめをせにするかたちになって、そうとう優位にたったとのこと。

2020.10.20 (16) 桶狭間古戦場 - 七ツ塚 1780-1350

いったんはなれて、住宅街をにしに移動。名古屋市の区域に七ツ塚を見学。場所は個人宅のにわさきにまわっていったとこ。桶狭間のたたかいにかった信長が、むらびとに命じてつくらせた、戦死者のはかだ。ななつあったうちのひとつが、ここにのこっとる。ほうむってあるのはもちろん織田がたの将兵だけかっておもったら、今川がたの将兵もだっていう。たたかいにいのちをおとした将兵に、てきもみかたもなかった。

もどって、また、名古屋市豊明市のさかいのへんをみなみにすすむ。てっぺんまで住宅街になっとる丘陵地帯のうちのたかい部分で、このへんをおけはざま山っていうだげな。

2020.10.20 (18) おけはざま山からにしをみはらす 1980-1480

おけはざま山からにしをみはらす。

2020.10.20 (19) 桶狭間古戦場 - 近崎道 1600-1200

いったんみなみのほうにおりて名古屋市の区域の区域にはいって、きたに転回していくとこで、みなみにのびる近崎道(ちかさきみち)。沓掛城をでた今川の大軍が、さいごこのみちをとおってはいってきただげな。いや、こんなほっそいみちをとおってきたとは。

2020.10.20 (20) おけはざま山 - 今川義元本陣あと 1580-1160

おけはざま山のにし斜面に今川義元本陣あと。個人宅のまえにいしぶみと説明がき。ここに陣どっとった義元が、右翼からきりこんできた織田軍におそわれる。ぬりごし(塗輿)があるのを発見されて、義元がここにおることがわかっちゃっただ。

2020.10.20 (23) 桶狭間古戦場公園 - 桶狭間のたたかい案内

まあちょっとにしにおりていったとこに桶狭間古戦場公園。田楽坪(でんがくつぼ)っていう、いちばんひくみになっとるとこにつくった公園で、義元は本陣からこの田楽坪においつめられてうちじに。

2020.10.20 (25) 桶狭間古戦場公園 - 駿公墓碣 2000-1500

公園の一角に義元のはか。

2020.10.20 (26) 桶狭間古戦場公園 - 義元公くびあらいのいずみ 2000-1500

義元公くびあらいのいずみもある。

ところで、名古屋のひとである高瀬さんたちも、こどものころから、豊明にあるのが桶狭間古戦場だっておしえられてきたとのこと。名古屋にも桶狭間古戦場があることがしられるようになったのはまんださいきんのことで、桶狭間村のひとたちのあいだでかたりつがれてきたはなしをほりおこすことで、事実関係があきらかになってきたとのこと。

公園からみなみに、大池のひがしがわをあるいていく。この大池のまわりでは、まいとし万灯会っていう供養祭がおこなわれとるっていう。そもそも、桶狭間村のひとたちが田楽坪でやっとったもんを、名古屋市主催でおおがかりにやるようになったらしい。

2020.10.20 (27) 長福寺 - 今川義元公くび検証のあと 2000-1500

長福寺にとうちゃく。桶狭間村にただひとつあるおてらで、境内の一角に「今川義元公くび検証のあと」のいしぶみ。くびあらいのいずみであらったくびをここまでもってきて、今川義元のくびにまちがいないことをたしかめただ。本堂のなかには、今川義元と、今川軍の指揮官松井宗信の木造もある。

2020.10.20 (28) 長福寺 - ほらはざま 1600-1200

境内ひがしのほうに「ほらはざま」。桶狭間村は、じつは南朝の落人集落で、青山、梶野、中山のみっつの名字のひとたちがひっそりとくらしてきたとのこと。いや、ここってほういうとこだったのか。ほういやあ、案内人をおねがいするのにさいしょに連絡をとった、桶狭間古戦場保存会の会長も梶野幸男(かじのゆきお)さんだ。このほらはざまが桶狭間の原風景にちがいない。いまは一面の住宅街になっとるけど、桶狭間のたたかいがおこなわれた当時は、ただ雑木のしげる丘陵がひろがっとるだけのとこだっただ。

訂正。「中山氏一族全員20人ぐらいは、桶狭間村での生活にたえれんくなって、緒川城主(おがわじょうしゅ)水野氏をたよって岩滑(やなべ)に移住。新美南吉の『ごんぎつね』にでてくる『中山のとのさま』になった。いま、桶狭間に中山っていう名字のひとはおらん」とのこと。〔2020年11月16日追記〕

2020.10.20 (30) 桶狭間神明社 2000-1500

長福寺からにしにすすんで、南北のクルマどおりをよこぎって、桶狭間神明社にとうちゃく。きりとおしの参道は、戦国さながらのふぜい。境内で映画のさつえいがおこなわれることもおおいっていう。ここも、桶狭間村にただひとつあるおみやさん。

2020.10.20 (31) 桶狭間古戦場観光案内所 - 戦図 2075-1460

南北のクルマどおりをきたにすすんで、桶狭間古戦場観光案内所にとうちゃく。たてもんのなかのかべに「桶狭間のたたかい戦図」。織田軍は熱田神宮からの、今川軍は沓掛城からの進軍経路がしるされとって興味ぶかい。会長の梶野幸男さんもみえて、落人の末裔であることをかくにん。いまもこのあたりには、青山、梶野、中山のみっつの名字のひとたちがおおいっていう。案内してくださった高瀬さんや会長の梶野さんたちに礼をいって、古戦場めぐりをおえる。

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2020.10.20 (8-1) 高根山 - 桶狭間のたたかい布陣図 1590-1590
(高根山 - 桶狭間のたたかい布陣図)

2020.10.20 (22-2) 桶狭間古戦場公園 - いくさのみち地図 1070-1070
(桶狭間古戦場公園 - いくさのみち地図)

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(さんこう)