2020年11月29日、清海堀(せいかいぼり)をあるいてきた。あー、ほりばたをあるいてきたのかっておもうだらあけど、ほじゃない。したまでおりて、ほりのそこをあるいてきた。岡崎城本丸すぐてまえのほりが清海堀で、しろをみにいくときにはみぎしたにみおろしていくほの清海堀のそこをあるいてきた。ふつうならおりれるはずのないほりのそこだけど、清海堀発掘調査のあとの「清海堀を探索しよう」っていうもよおしに参加するかたちで、とくべつにおりることができたもんだ。以下にほのようすを紹介する。また、清海堀をあるいたついでにほかのほりもぜんぶみてきただけど、ほのようすもあわせて紹介する。
〔清海堀〕〔竜城堀〕〔西堀〕〔北堀〕〔外清海堀〕〔ふたたび清海堀〕(岡崎城の地図)
◇ ◇
清海堀
二の丸から本丸にいくあいだにあるのが持仏堂曲輪(じぶつどうぐるわ)。二の丸から太鼓門をとおって持仏堂曲輪にわたったとこで、ほのおく、廊下橋のてまえに「清海堀を探索しよう」のうけつけを発見。むこうはすぐ天守閣ってとこだ。
廊下橋(ろうかばし)
持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)と天守台をつなぐはしで、1920年に現在のアーチがたいしばしに改修されておりますが、江戸時代はやねつきの廊下橋がかけられておりました。曲輪から天守へ直結するはしはめずらしいもんです。廊下橋をわたった正面の天守台いしがきにはかがみいし(はば2.1メートル、たかさ1.8メートル)が配置されております。
いまからこのほりのそこにおりていけるだ。
うけつけで参加料ひとり200円をはらって、廊下橋のわきに臨時につくられたやぐらをおりていく。ヘルメット着用。ひとつの階段はひとりだけ。階段はのぼり優先。
ひだりにそそりたついしがき。むこうにいくにしたがってみぎにゆみなっていく、ほのゆみなりぐあいのうつくしいこと。
みぎはつちだけの薬研堀(やげんぼり)で、すぐうえに天守閣がそびえる。
おちばのしきつめらたほりのそこを、ひがし、おくにあるいていく。
案内人さんからいしがきの説明をうける。とちゅうまでが初期にあったいしがきで、ほっからさきは田中吉政が増築したもんだっていう。ほー。田中吉政は豊臣秀吉がたの武将で、徳川家康江戸移封(いほう)のあと岡崎城主になった人物。1590年から1600年のあいだ城主として、いまにつながる城下町の整備をおこなった。
ところで、このほり、みずがないだけど。むかしっからおもっとったこの疑問を案内人さんにぶつけてみると、はなからみずのないからぼりだったとのこと。いや、こいだけのふかさのあるほりなら、みずなんかはってなくたってじゅうぶんに防御の用をなすわけだ。ほいから、本丸大手門につながるのはこのいしがきのうえをとおる大手道(おおてみち)だけで、ここをすすんでくる敵の隊列は、ほりをへだてた本丸のがわからみてよこながにのびるかたちになっとって、容易にいかけることができたとのこと。なるほど。
ひだりのいしがきがめのまえにまわりこんできて、ほりはとじる。みぎにまわりこんだとこが本丸大手門。ちょうど、いしがきのうえの大手道をバスガイドさん一行がほっちのほうにいく。
みぎは薬研堀だったけど、本丸大手門のそでだけはいしがきになっとる。
廊下橋のほうにひきかえす。
やぐらをのぼっていくとちゅう、ふりかえってなごりをおしむ。
廊下橋のアーチものぞいてみる。
廊下橋のうえ、すぐみなみ、いしだんをあがったとこに天守閣。
清海堀のはんたいがわ、にしがわもほり。
こんどはうえから清海堀をみていく。大手道をひがしえ。
本丸大手門にちかづいたとこで、ふりかえってみる。
竜城堀
大手門のはしのうえから清海堀のはんたいがわをみると、ひがしがわにもほり。こっからむこうは竜城堀(たつきぼり)だ。
みぎにいしがきがそびえたって、ほのうえに巽閣(たつみかく)。いや、なんちゅうすばらしいけしきだ。きょうは清海堀をみてかえるつもりだっただけど、予定を変更して岡崎城のまわりのほりをぜんぶみていくことにする。
本丸大手門をはいらんで、持仏堂曲輪からほのままひがしに隠居曲輪におりていったとこで、大手門のはしのとこをふりかえってみる。
桜茶屋のとこから、いしがきとほのうえにたつ巽閣をみる。
竜城堀はひがしおくでいきどまり。
竜城堀のむこうがわ、みなみがわにまわりこんで、いしがきとほのうえにたつ巽閣をみる。
にしにすすんで、竜城橋をわたる神橋(しんきょう)。このうつくしいあっかいはしのうえで、七五三のきねんさつえいをする家族。
対岸にいしがきをみながら、さらににしえ。
竜城堀はにしおくでいきどまり。
にしおくまでいったとこで、竜城堀をふりかえってみる。
きたがわにまわりこんでいって、埋門(うずみもん)のはしのとこから竜城堀をみる。
はしからさかをあがったとこに、本丸にはいっていく埋門(うずみもん)。
西堀
埋門(うずみもん)のはしのうえから竜城堀のはんたいがわをみると、こっからきたがわにもほり。このほりはとくになまえはさだまってないみたいで、本丸のにしにあるってことで、便宜的に西堀(にしぼり)ってよぶ。
西堀のにしがわをきたにあるいていく。対岸に埋門きたそでのいしがき。
本丸埋門北袖石垣(ほんまるうずみもんきたそでいしがき)
本丸埋門からきた方向にのびるいしがきで、たかさは10メートルをこえる大規模なもんです。
石材にはおおがたの自然石やわりいしが使用され、おおきさやかたちはややふぞろいながらも、よこ方向のめじの一部がそろうことから、持仏堂曲輪腰巻石垣(じぶつどうくるわこしまきいしがき)より先行する江戸時代前期の構築とかんがえられます。
ふりかえって、埋門のはしをみる。
西堀はみぎもひだりも薬研堀(やげんぼり)。
みなもにかもがあそぶ。
ほりがひがしにT字に分岐。おくに廊下橋がみえる。あのはしのむこうが、さいしょにあるいた清海堀。T字のみぎが本丸で、ひだりが持仏堂曲輪。それぞれかどのとこがいしがきになっとるだけど、曲線的なのと直線的なのとで対照的だ。
持仏堂曲輪・本丸腰巻石垣
ひだりがわが持仏堂曲輪の腰巻石垣、みぎがわが本丸の腰巻石垣です。持仏堂曲輪がわは近世城郭のとくちょうである直線的な曲輪形状にととのえられて構築されたいしがきですが、本丸がわは中世城郭のとくちょうである曲線的な曲輪形状をほのままいかして構築されたいしがきとかんがえられます。
対岸、持仏堂曲輪のいしがきがきたにつづく。
持仏堂曲輪の西北かどのいしがき。
持仏堂曲輪腰巻石垣
江戸時代前期に構築されたいしがきで、后世の改修をうけることなく現在までのこる貴重なもんです。
おおきさやかたちがととのえられた石材がぬのづみにちかいつみかたできずかれております。隅角部(ぐうかくぶ)のすみいし(隅石/角石)は長辺と短辺が交互に配置された算木積み(さんぎづみ)となっており、ほの表面はのみで平滑にしあげられております。
西北かどのいしがきから、西堀も持仏堂曲輪のきたがわにまわりこんでいく。まわりこんでいってひがしむきになったつきあたりに、能楽堂から持仏堂曲輪にわたるはし。
はしのうえで結婚式のまえどり。はなよめさん、きれいだな。
北堀
能楽堂から持仏堂曲輪にわたるはしのとこから、さらにひがしにほりがつづく。このほりを便宜的に北堀(きたぼり)ってよぶ。左右、一部にいしがきがあるだけで、ほとんどが薬研堀だ。
ほりがおおきくみぎにゆみなっていく。
対岸の持仏堂曲輪が半島のようにでっぱってきとって、半島の突端にあずまやがみえる。
まわりこんでいってみなみむきになったつきあたりに、太鼓門のはし。
太鼓門のはしのとこまでいって、北堀をふりかえる。
外清海堀
太鼓門のはしのとこから、また、ひがしにほりがつづく。大手道のうらがわになるほりだ。大手道のおもてがわのほりが清海堀で、うらがわのこのほりもおなじく清海堀ってよぶことがおおいみたいだけど、わかりやすさのために便宜的に外清海堀(そとせいかいぼり)ってよぶ。左右、薬研堀。
本丸周辺のなわばりといしがき
【本丸周辺のなわばり】
岡崎城は河岸段丘の先端に本丸を配置し、段丘が地つづきとなる本丸きたがわにはふかいからぼりがつくられ、いくえもの曲輪をつくりだしております。二の丸から持仏堂曲輪にはいり二重におれまがったさきのせばい通路(帯曲輪(おびぐるわ))にはたえず本丸からのよこやがかかるしくみになっております。
岡崎城の本丸周辺の厳重なまもりは、戦国時代の松平清康(まつだいらきよやす)(生没1511 - 1535年/徳川家康の祖父)の改修をひきつぎ、家康がきずいたもんです。
【本丸周辺のいしがき】
徳川家康が1590年に関東に移封(いほう)するまでの岡崎城は、からぼりと土塁をたくみに配置した堅固な「つちづくりのしろ」でした。家康の関東移封后に豊臣大名の田中吉政が城主(在城1590 - 1600年)になって以降、天守台や本丸周辺のほりや門にいしがきがきずかれていきます。江戸時代前期には譜代大名の本多氏によって長大な菅生川端石垣(すごうかわばたいしがき)がきずかれるなど、しろ全体をいしがきできずきあげる近世城郭へと発展していきました。現在も本丸周辺には多様ないしがきのつみかたや、曲輪の形状にあわせた湾曲する特異ないしがきをみることができます。
いしがきはもっともふるい段階には自然石をほのまま使用してつまれますが、しだいに自然石をわった割石(わりいし)が使用されるようになります。さらにあたらしい時代にはわりいしのかたちをととのえ、表面を平滑に加工した石材を使用するいしがきへと発展していきます。また、意匠をこらした「みせるいしがき」として、おおきな鏡石(かがみいし)(天守台石垣東面、北面)やすきまなくつみあげられて切石積み(きりいしづみ)(本丸大手門脇石垣)もみられます。
なお、いしがきの石材にはほぼすべて花崗岩が使用されております。花崗岩は岡崎城にもっともちかいところでは本丸から東北におよそ1キロメートルの甲山(かぶとやま)(六供町(ろっくちょう))で産出するほか、小呂町(おろちょう)や稲熊町(いなぐまちょう)の丘陵地でも豊富に産出します。
太鼓門のほうをふりかえる。
ほりのそこにはきもはえとって、おちばがいっぱい。
ほりがみぎにゆみなっていく。
まわりこんでいってみなみむきになってつきあたり。ほりが、持仏堂曲輪から隠居曲輪におりていくさかにつきあたる。こいで岡崎城のすべてのほりをみた。
外清海堀からはなれて、つづらおりを隠居曲輪におりていく。
ふたたび清海堀
さいごにまあいっかい清海堀をみに、隠居曲輪から持仏堂曲輪にさかをあがっていく。さかのとちゅう、七五三のおやことすれちがい。
持仏堂曲輪にあがって、みぎ、地面のたかさからうえにいしがきづみ。
ひだりに本丸大手門があるとこで、清海堀ごしに天守閣をみる。
持仏堂曲輪にあがってみぎにあったいしがきづみは、大手道までずーっとつながっとる。みぎしたにあるはずの外清海堀は、このいしがきづみにさえぎられてみえん。
ひだりはかんたんな柵があるだけで、ましたに清海堀がみえる。
すすんで、みぎ、いしがきづみのきれめに太鼓門。
天守閣をせに太鼓門をでて、二の丸にもどる。
◇ ◇
(さんこう)
- 鐘庵でひるごはん - 2020年11月29日 - あきひこのいいたいほうだい|2020/11/29
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- ところで展示室のてまえにモニターがあって、ケーブルテレビ会社ミクスネットワーク制作の展示品案内映像がながれとる。ナビゲーターの森由貴子さんが質問をして、ほれに学芸員の鈴木航平さんがこたえるっていうかたちで、展示品の説明をしていってくれる。
- こんかい発掘したのは、天守閣うらがわの清海堀(せいかいぼり)や、菅生川にちかいほうにあるつきみやぐらあと、ひがしすみやぐらちかくのますがたあと。さらに、まちをとりまくようにあった総堀あと。成果として、田中吉政のときのいしがきがかくにんできたほか、多数のかわらが出土したとのこと。かわらの紋は、田中吉政のときは三葉紋(さんようもん)で、江戸時代はみつばあおいの紋。
- 映像をみおえて、展示品を見学。
- 出土品展のほか、常設展の3間半やりにびっくり。ふきぬけになっとる2階の天井もつきやぶりそうだ。
- 葵武将隊みてきた - 2020年9月22日 - あきひこのいいたいほうだい|2020/10/16
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- 『岡崎城あと出土品展2』
清海堀を探索しよう2020=10/31(土)~11/29(日)までの毎週土日および祝日
- 『岡崎城あと出土品展2』
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- 図2-11 岡崎城内郭の曲輪などの名称
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