2021年1月26日、前日にひきつづいて、三河鉄道時代のゼロキロポストをみつけに三河知立(みかわちりゅう)までいってきた。
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あさ、豊田市近代の産業とくらし発見館に電話。担当の小西さんから、三河知立ゼロキロポストのばしょをおしえてもらう。えきからはだいぶ豊田市方面にいったとこにあるとのこと。
午前中の用事をすませて、みなみあんじょう12時57分のしんあんじょういきふつうにのる。電車は2両編成きんぎょばちのあっかい電車。
13時2分、しんあんじょうは2番のりばにとうちゃく。
橋上コンコースをわたって4番のりばに移動。しんあんじょう13時6分の一宮いき急行にのる。電車は、4両編成のあっかい電車と2両編成のぎんいろ電車の連結。
13時10分、知立は5番のりばにとうちゃく。
いったんかいさつをでて、えきまえにみつけた山口屋っていうみせでひるごはん。たのんだのはどてどん。どてどんはひさしぶりだけど、なんかいいな。
えきにもどって、こんどは三河線。2番のりばから知立14時5分の猿投いきふつうにのる。電車は6038編成2両6000系かんつうがた。三河線は6000系かんつうがたがすべてだ。
のること1分の14時6分、三河知立は3番のりばにとうちゃく。豊田市方面から知立いきふつうのあっかい電車が2番のりばにはいってくるのをでむかえ。
ここまでのってきた猿投いきふつうのあっかい電車が豊田市方面にでていくのをみおくり。
かいさつをでて、線路のきたがわに平行する道路をひがしにあるいていく。
さいしょのふみきりをみなみにわたる。ほのとちゅうで豊田市方面をみてみる。この視界のなかのどっかにゼロキロポストがあるはずだ。
線路のみなみがわに平行する道路をひがしにあるいていく。7年まえに知立連絡線あとをあるいたときにとおったみちだ。このさきで三河線からみぎに分岐して名古屋本線につながる知立連絡線があっただ。
ちなみにきのうは、このふみきりから、線路のみなみがわに平行する道路をにしにあるいてえきのほうにもどっていった。まさか、えきからほんなにはなれたとこにゼロキロポストがあるとはおもわんかっただ。
ひがしにあるいて、線路ぞい、さいしょに4階だてのデンソー知立寮。つづいて3階だてのアパート。
あった! 3階だてのアパートのひがしのはし、単線の三河線の線路のむこうがわに、三河知立ゼロキロポストを発見。しろいおおきな三角柱の標識に、でっかくゼロってかいてある。いや、こんなにえきからはなれたとこにあったとは。
単線の三河線の線路のてまえには、まんだ知立連絡線の線路ものこっとって、さらにほのこっちがわには、なんぼんかのレールもひらづみしてある。
いったんにしに「さいしょのふみきり」までもどって、こんどは線路のきたがわに平行する道路をひがしにあるいていく。
ふたたび三河知立ゼロキロポストを発見。きためんにはなんにもかいてなくて、正面からはただしろいおおきな三角柱の標識がたっとるっちゅうだけだ。
このばしょからみぎに知立連絡線が分岐していっとった。7年まえにはこのさきものこっとった廃線あとはまあないだけど、ほいでものこっとる線がわずかにみぎにゆみなっとって、おもかげはのこっとる。
ひだり45度以上にまわりこんでいって、やっとゼロの文字がみえる。
豊田市方面からやってきた、知立いきふつうのあっかい電車が、三河知立ゼロキロポストのまえをとおりすぎていく。三河鉄道はそもそも、こっからみなみに碧南までをむすぶ、碧海軽便鉄道(へっかいけいべんてつどう)として計画された鉄道だった。いまは知立で反転分岐してみなみにのびる三河線だけど、もともとはまっすぐにのびていく鉄道だった。ちなみに、こっから刈谷までのかんの開通が、刈谷から碧南までのかんの開通より1年おくれたのは、「院線こせんきょう架設のごとき一大難工事」があったため。
こんどは知立方面からやってきた、猿投いきふつうのあっかい電車が、三河知立ゼロキロポストのまえをとおりすぎて豊田市方面にむかっていく。こっから碧南までのかんを開通させた三河鉄道は、第2段として豊田市方面に線路をのばしていった。こっから豊田市までの鉄道布設を計画した知挙軽便鉄道(ちきょけいべんてつどう)の免許権をゆずりうけて、線路をのばしていった。ちなみに「知挙」は、知立と、豊田の旧名挙母(ころも)の合成。
こっからみなみに、また、きたに、三河線はのびていった。三河知立ゼロキロポストのあるこの地は、三河線の聖地だ。三河知立は、2023年度完成予定の知立駅高架工事にともなってえきがなくなっちゃうだけど、歴史をつたえるこのゼロキロポストだけはのこしてほしい。
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三河知立ゼロキロポストの存在をおしえてくれたのが、いま豊田市近代の産業とくらし発見館で開催中の挙母駅開業100年展。また、三河鉄道開業以来の三河線のこまかな歴史までおしえてくれたのもこの展覧会。企画してくださったかたがたに感謝。
(さんこう)
- 乗車記録 - 2021年1月26日、かようび、平日
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- きょうのひるは、知立えきまえ山口屋ってみせにはいって、どてどんを注文。いや~、なんかひさしぶりにたべたけど、いいな。
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- 1910年、知立町から大浜町(いまの碧南市)にいたる碧海軽便鉄道(へっかいけいべんてつどう)を鉄道院へ出願しました。1912年、社名を三河鉄道株式会社にあらため、資本金を50万円とし、軌間を1067ミリで建設することをきめました。さらに三河鉄道は、1912年に知挙軽便鉄道(ちきょけいべんてつどう/1911年設立/知立町~挙母町の鉄道布設を計画)の免許権をゆずりうけました。
- 1914年2月に刈谷新(いまの刈谷)~大浜港(いまの碧南)間14.5キロの営業を開始しました。1915年10月には刈谷新~知立4.0キロが開通、旧碧海軽便鉄道の計画した路線(いまの三河線海線)がすべて完成しました。開業時は蒸気機関車が客車、貨車をけんいんしました。
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- 三河知立と廃線あと - あきひこゆめてつどう|2014/06/30
- 東西にはしる名古屋本線と南北にはしる三河線のまじわる知立(ちりゅう)から、ひとえき豊田市(とよだし)方面にいったとこにあるのが三河知立(みかわちりゅう)だ。きょうはこの三河知立とほっから分岐する知立連絡線の廃線あとのふうけいを紹介する。
- さらに線路ぞいにひがしにいくとふみきりになる。ほっから三河知立方面をみると、保線車両とホームがみえる。豊田市方面をみると、いまも電車がはしるきたがわの線と、いまは電車がはしることのなくなったみなみがわの線の両方が、まあちょっといったとこでみぎに分岐していくのがみえる。これが知立連絡線だ。三河線が知立にスイッチバックで接続するまえ、三河知立で名古屋本線の東知立で連絡するだけのときにできた線で、こっからみぎにまがってちょっといって名古屋本線と合流するようになる。いまヰキペディアでしらべると、「この知立連絡線は1928年にできたもので、1950年には知立連絡線を介して名古屋本線との直通運転を開始した」とある。いまの知立へのスイッチバックができたのは1959年とあり、ほれまでのあいだはこの知立連絡線に旅客列車がはしっとったみたいだ。
- まあちょっと三河知立方面にむかってすすむと、廃線あとはアパートのしきちの一部になっちゃっとるだけど、かたすみに知立連絡線が三河線から分岐するとこを発見。
- まあひとつにしのアパートが三河知立ひがしふみきりのひがしになるだけど、ここまでくると知立連絡線は完全に三河線に合流しちゃっとる。
- 三河知立からかえる - 2021年1月26日 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/29 〔ついか〕