東海道を宮宿で分岐して中山道に垂井宿で合流する美濃路。宮宿から名古屋宿、清洲宿って西北方向にすすんでいくだけど、名古屋宿と清洲宿のあいだで庄内川と新川をわたる。このふたつのかわにはさまれた区間を、これまでに2回あるいた。きたに名鉄名古屋本線も平行するこの区間を、1回めは二ツ杁のえきでおりて、2回めは新川橋のえきでおりて、それぞれちょこっとづつあるいた。ちょこっとづつあるいて、ひがしは問屋記念館からにしは新川橋のはしまでのかんをあるきおえた。のこった庄内川から問屋記念館までのかんを、3回めになるこんかいあるいてきた。西枇杷島のえきでおりて、あるいてきた。2021年2月18日のこと。
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西枇杷島のえきで電車をおりて、名古屋本線の線路みなみがわを名古屋方面にもどるかたちであるいていく。
庄内川につきあたって、堤防のうえに王義之車(おうぎししゃ)のだしぐら。電車で庄内川鉄橋をわたってくるときにみえた、あのだしぐらだ。
堤防ぞいをみぎ、かわしも方面にむかうとはしがみえる。名古屋から西枇杷島にわたってくるはしだ。
堤防からみぎした、側道ぞいに銅像とみちしるべを発見。銅像は、上半身はだかの農夫がばかでっかいだいこんをかたにかかえあげとるもんで、台座に「尾張名所図会おこし|にしびゆめだいこん」ってかいてある。にしびは西枇杷島の略だけど、だいこんはこの地の特産品か。西枇杷島はむかしいちばでさかえたまちで、ほれを記念してこの銅像があるにちがいない。みちしるべは美濃路のみちしるべで、「にし津島天王清洲宿みち|ひがし東海道名古屋みち|みなみ文政10年丁亥(ひのとい)7月吉日|きた岩倉みち」ってかいてある。文政10年は1827年。どのみちとどのみちがどういう位置関係にあったのかいまいちのみこめんけど、とにかくここが交通のかなめだったってことはわかる。
堤防をあるいて、はしのたもとにとうちゃく。はしのむこうがわに、名駅の摩天楼がでかでかとみえる。はしのなまえは枇杷島橋で、堤防道路とまじわる交差点のなまえは問屋町(とんやまち)交差点。このあたりにいちばがあったにちがいない。
はしからいったみちと側道のまじわる十字路を、側道から直進するかたちですすんで、美濃路にはいっていく。
みぎに橋詰神社。
ほのとなりに頼朝車(よりともしゃ)のだしぐら。たちのたかいしろいくらに、いりぐちのあかがあざやか。
くぐって、すぐひだりに泰亨車(たいこうしゃ)のだしぐら。みあげるたかさの位置に唐破風(からはふ)つきのかわらやね。うすあおいろのいりぐち一面にちりばめられた各種家紋。
左右、住宅街のなかにぽつぽつとみせ。
みぎに高照寺(こうしょうじ)。風格のある鐘楼をくぐって、なかにはいっていく。
本堂におまいり。かわらやねが、たてもん本体の部分から向背(こうはい)の部分にかけてきれいにつながってきとって、とってもすそののひろいやねにみえる。
また美濃路をすすんで、みぎおくに六軒神社。拝殿も本殿もひらいり銅板ぶきのたてもんで、水平ぎりの千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)つき。
いしづくりのしろいとりいをくぐって、拝殿からおまいり。ところでさいせんばこも銅製。ながいことあめゆきにさらされて緑青(ろくしょう)におおわれとる。
美濃路がゆるくみぎにゆみなっていく。まんだひるごはんがたべてなくて、めしやさんをさがしながらあるいていくだけど、なかなかない。さぶさもきつい。
ついにはゆきまでふってきて、みぎに紅塵車(こうじんしゃ)のだしぐら。
あった。みぎ、問屋記念館のとなりに八百喜(やおき)。1回めに二ツ杁のえきでおりて美濃路をあるいたときに、ひがしにここ問屋記念館まできて、この八百喜でひるごはんをたべただ。こんかいも、ここでひるごはんにする。みせんなかストーブがあるのがありがたい。かかえこんでからだをあっためる。たのんだのはてんどん。ごちそうさまでした。
問屋記念館のしきちにたつ地図かんばんで、あるいてきたみちすじをかくにん。枇杷島橋はいまのばしょじゃなくて、まあちょっとかわかみ、名鉄名古屋本線庄内川鉄橋とのあいだにあっただ。ほいで、名古屋から枇杷島橋をわたってきたとこが、にしびゆめだいこんの銅像と美濃路のみちしるべのあったとこだ。さらに、問屋記念館のなかに掲示してある地図で、この問屋記念館のたてもんがもともとたっとったとこも、ほのあたりだってことがわかる。
まちあるきをおえて、かえりは二ツ杁のえきからかえりの電車にのる。
(さんこう)
- 問屋記念館のしきちにたつ「旧美濃路散策コース」のかんばん - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/02/22
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- 八百喜(やおき)でひるごはん|いわせあきひこ|フェースブック|2021年2月18日23:00
- 新川橋のえきでおりてみたらほこも美濃路だった - 2020年11月むいか - あきひこゆめてつどう|2020/12/09
- 新川橋(しんかわばし)のえきでおりてみたらなにがあるかっておもっていってみたら、ほこも美濃路だった。現地では、むかしっからの美濃路をごぞんじのかたからはなしをきくこともできて、有意義なたびになった。
- 枇杷島市場(びわじましじょう)は1955年まであったとのこと。まえに二ツ杁のえきからあるいた美濃路よりまあちょっとひがしにある市場で、江戸の神田、大坂の天満とあわせて、にほん三大あおものいちばっていわれた枇杷島市場だ。さいしょの移転さきは名古屋市内。いまは東枇杷島スポーツになっとる上更どおり(かみさらどおり)にいっただげな。ほれからさらにあとになって、いまの北部市場に移転したとのこと。北部市場は名古屋空港のある豊山町にある。
- ほいから、新川のこの美濃路のとおり、むかしはぜんぶみせがたちならんどったっていう。枇杷島市場までいきかえりするリヤカーで、みちもごったがえしとったっていう。すごいな。いまはむかし。みせもだいぶへってきとる。さっきみてきた廃業しとるっぽいくしかつやは、まんださいきんに廃業したもんだった。さらに、みせがへってきたのとあわせて、やねがみさまをのせとるとこもずいぶんへったとのこと。ほや、維持管理がたいへんだもんな。
- 二ツ杁でおりてみたらほこは美濃路だった - 2020年10月16日 - あきひこゆめてつどう|2020/11/26
- なんの予備知識もなしにおりた二ツ杁のえきだけど、えきからまっすぐあるいてでたみちは美濃路だって、むかしは枇杷島市場(びわじましじょう)もあって、たいへんなにぎわいだったっていう街道のふぜいをたのしむことができた。
- すすんで、ひだりににほん料理八百喜(やおき)っていうみせを発見。いや~、めしやさんがあって、よかった~。たのんだのは信長かきあげ天茶。
- みちからおくまったとこに問屋記念館のたてもん。このたてもんは、問屋業をいとなんどった山田九左衛門(やまだくざえもん)家の住居で、問屋業をはじめたのは徳川家康がきっかけだったとのこと。大坂ふゆの陣のおり、徳川家康が庄内川をわたるのをたすけたことで、ほのみかえりにひきたてられて問屋業をはじめたみたいだ。
- かべに枇杷島市場問屋配置図。このたてもんは、枇杷島市場にあったもんをさいきんになってここに移設したもんで、枇杷島市場は、江戸の神田、大坂の天満とあわせて、にほん三大あおものいちばっていわれたとのこと。いや、おどろきもものきだ。枇杷島市場はこっから美濃路をまあちょっとひがしにいったとこにあって、この地図に山田九左衛門のなまえもしっかりある。
- 名鉄博士と電車さんぽ - 2020年2月ふつか - あきひこゆめてつどう|2020/02/13
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