信参鉄道の記憶

足助をめざした鉄道がみっつある。岡崎電気軌道、三河鉄道、信参鉄道(しんさんてつどう)のみっつだ。岡崎電気軌道は、いまはなき名鉄挙母線の前身で、岡崎から北上して足助にいたる予定だった。三河鉄道は名鉄三河線の前身で、刈谷知立から北上、豊田を経由して足助にいたる予定だった。信参鉄道は、新川から北上、あんじょうを経由して、豊田、足助にいたる予定だった。岡崎電気軌道は門立(もだち)まで開業して、以北断念。三河鉄道は西中金(にしなかがね)まで開業して、以北断念。信参鉄道は、どの区間も開業することなく解散。

信参鉄道株式会社株式申込証

2021.2.2 (65-1) 信参鉄道株式会社株式申込証(1901年) 2240-1620

1901年の信参鉄道株式会社株式申込証に発起人121人がしるされとる。いちばんおおいのが新川町のひとで31人。岡本八右衛門さんや角谷安兵さん、古居七兵衛さんっていうなまえがみえる。つぎにおおいのがあんじょうむらのひとで10人。岡田久治郎さんや山本新吉さん、平岩藤九郎さんっていうなまえがみえる。

この1901年の時点で西三河にあった鉄道は、東海道線のほか、岡崎電気軌道の岡崎市内線岡崎明大寺間だけ。

信参鉄道計画路線

2021.2.2 (68-1) 信参鉄道線路平面図(全体) 2480-1640
2021.2.2 (69-1) 信参鉄道線路平面図(ひだり) 2000-1500
2021.2.2 (70-1) 信参鉄道線路平面図(なか) 1970-1500
2021.2.2 (71-1) 信参鉄道線路平面図(みぎ) 1800-1500

ところで、信参鉄道の計画路線は、足助にとどまらんで飯田までいくもんだった。信参の信は信濃の信、信参の参は三河の三だ。

1906年、新川から足助までのかんで免許取得。1907年、新川から矢作までのかんで工事着手。ただし、資金がつづかず、開業のひをみることなく1916年に解散。

この1916年までに、西三河電気軌道は岡崎市内線を康生町まで延伸。三河鉄道が、刈谷からみなみに大浜までのかんと、きたに知立までのかんを、あらたに開業。また、これ以外に、西尾鉄道が、岡崎からみなみに西尾、平坂までのかんと、西尾から吉良吉田までのかんを、あらたに開業。

〔資料はすべて挙母駅開業100年展のもん〕


【信参鉄道にかんするあきひこゆめてつどうの記事のいちらん】

(さんこう)