岐阜、加納のへんのえきのうつりかわり

中山道加納宿まちづくり交流センターに「近代加納の土地利用」って展示資料があって、ほんなかの地図にこの周辺の東海道線名鉄名古屋本線のえきがのっとった。地図は1920年のもんで、いまとはちがう点もいくつかあってとっても興味ぶかい。

2022.2.25 (19-1) 中山道加納宿まちづくり交流センター(居波さん) - 1920年の加納(かきこみ) 1415-1250

東海道線

  • まずもって、線路自体がいまよりきたのほうをとおっとった。
  • 初代岐阜駅はいまよりだいぶ東北にあった。当初加納駅をなのって、すぐに岐阜駅にかえとる。
  • 2代岐阜駅はいまの名鉄岐阜駅のへんにあった。
  • 3代岐阜駅がいまのえき。線路がみなみのほうにつけかわって、この位置にできた。

名鉄名古屋本線

  • 初代名鉄岐阜駅はいまのJR岐阜駅のすぐ東北にあった。
  • 2代名鉄岐阜駅がいまのえき。線路がつけかわって、2代岐阜駅があったとこにうつった。
  • 初代加納駅は廃止されとる。
  • 広江駅も廃止されとる。このえきが、さいしょに美濃電気軌道が笠松線を開業したときの起点だった。
  • 2代加納駅は現役のえき。安良田駅(あらたえき)がにしに移設してこのえきになった。
  • 茶所駅は現役のえき。さいしょっからここにあった。

〔2022年2月25日訪問〕


(さんこう)

  • 近代加納の土地利用(中山道加納宿まちづくり交流センター展示資料)
    • 明治時代になると、岐阜県がおかれ1897年にあたらしい加納町がうまれます。
    • ほの歴史の一端をしめすのが東海道線岐阜駅の所在位置の変遷です。1887年に、大垣加納間が開通、現在の溝旗公園(みぞはたこうえん)ちかくに加納停車場とよばれるえきが設置されました=①。ほれはやがて名鉄岐阜駅にしがわにうつり、名称は岐阜駅にかわりました=②。ほのあと、加納町の誘致運動のけっか、現在地に移転したのが1913年です=③。
      2022.2.25 (19) 加納宿交流センター - 1920年の加納 1415-1450
    • また、学校群の設置も近代加納町のとくちょうです。加納城三の丸あと、厩曲輪(うまやぐるわ)あと周辺には、1900年ごろから大正時代にかけ岐阜県師範学校=④、加納高等女学校=⑦などの教育施設が集中して配置され、現在までつづく文教地区を形成しました。
    • こうした繁栄を象徴したのが、まちの中心地である当地にあったまちやくばです。1926年に落成したたてもんは、先駆的な鉄骨鉄筋コンクリートづくりでした。1940年岐阜市との合併により近代加納町の歴史はまくをひきますが、それぞれの地名は「加納」をかんむりにつけ現在の町名として地域にとけこんでおります。
      2022.2.25 (18) 加納宿交流センター - 近代加納の土地利用 1580-1000
  • 『加納のまち』
    • 中山道加納宿まちづくり交流センターかかりいん居波(いなみ)さんからさんこう資料としてもらった。
      『加納のまち』 455-645