中山道加納宿まちづくり交流センターに「近代加納の土地利用」って展示資料があって、ほんなかの地図にこの周辺の東海道線と名鉄名古屋本線のえきがのっとった。地図は1920年のもんで、いまとはちがう点もいくつかあってとっても興味ぶかい。
【東海道線】
【名鉄名古屋本線】
〔2022年2月25日訪問〕
(さんこう)
- 近代加納の土地利用(中山道加納宿まちづくり交流センター展示資料)
- 明治時代になると、岐阜県がおかれ1897年にあたらしい加納町がうまれます。
- ほの歴史の一端をしめすのが東海道線岐阜駅の所在位置の変遷です。1887年に、大垣加納間が開通、現在の溝旗公園(みぞはたこうえん)ちかくに加納停車場とよばれるえきが設置されました=①。ほれはやがて名鉄岐阜駅にしがわにうつり、名称は岐阜駅にかわりました=②。ほのあと、加納町の誘致運動のけっか、現在地に移転したのが1913年です=③。
- また、学校群の設置も近代加納町のとくちょうです。加納城三の丸あと、厩曲輪(うまやぐるわ)あと周辺には、1900年ごろから大正時代にかけ岐阜県師範学校=④、加納高等女学校=⑦などの教育施設が集中して配置され、現在までつづく文教地区を形成しました。
- こうした繁栄を象徴したのが、まちの中心地である当地にあったまちやくばです。1926年に落成したたてもんは、先駆的な鉄骨鉄筋コンクリートづくりでした。1940年、岐阜市との合併により近代加納町の歴史はまくをひきますが、それぞれの地名は「加納」をかんむりにつけ現在の町名として地域にとけこんでおります。
- 『加納のまち』