これだ。これが松木島(まつきじま)のえきにまちがいない。三河線は、三河一色(みかわいしき)と吉良吉田(きらよしだ)のまんなかのいなかに、こんなまるで博物館みたいにりっぱなえきがあっただ。小学校入学前后だったか中学生高校生のころだったかに電車にのりにいって、いっかいみただけの松木島のえきにまたあえた。廃線でなくなっちゃったえきに、模型だけどあえて、じーんってする。
ひだりななめうえからみおろしてみる。
うらがわ、のりばのがわからみてみる。
おさなごころにふしぎだった。こんないなかにこんなりっぱなえきがあることが。いまは飛行機が最先端の交通機関だけど、むかしは鉄道が最先端の交通機関だった。鉄道ってもんにたいするねつのいれかたが、いまとはぜんぜんちがっただ。ほいで、最先端の交通機関である鉄道のえきがこんなにりっぱだった。ほんなふうにかんがえて、じぶんをなっとくさせとった。
説明がきをよんでみる。松木島のえきができたのは、三河鉄道時代の1926年のこと。三河鉄道3代め社長、神谷伝兵衛(かみやでんべえ)の功績をたたえて、出身地である松木島にこんなりっぱなえきをつくっただ。えきのなまえも、さいしょは神谷だった。きひんしつまであったっていうでおどろきだ。
じもとの高校生がかいた松木島のえき。じまんだっただらあな。
はせがわK.さんのかいた神谷伝兵衛の肖像画。神谷伝兵衛は、東京浅草の神谷バーや茨城県牛久のワイン醸造所シャトーカミヤをつくった実業家。1916年、知立碧南間で開業しとった三河鉄道の3代め社長として就任。経営危機をすくって、1922年になくなるまでのあいだに、路線を知立から土橋、上挙母、豊田市、越戸って延伸。
東京浅草の神谷バー。
蜂印香鼠葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)のポスター。
斎藤吾朗(さいとうごろう)画伯の「神谷伝兵衛さんに、乾杯!」。神谷伝兵衛本人や、渋沢栄一らかかわりのあるおおくの人物、神谷バー、シャトーカミヤ、三河鉄道沿線の地図なんかがかきこんである。
神谷伝兵衛についての理解をふかめたとこで、会場をあとにする。
◇ ◇
会場 | 一色まなびのやかた (西尾市一色町一色東前新田8) |
---|---|
開催期間 | 2022年4月16日から2022年5月29日 |
わが訪問 | 2022年4月21日 |
◇ ◇
(以下追記)
区間 | 申請 | 認可 | 開業 |
---|---|---|---|
西中金~足助 | - | - | - |
三河広瀬~西中金 | 1919年 | 1921年 | 1928年 |
猿投~三河広瀬 | 1919年 | 1921年 | 1927年 |
越戸~猿投 | 1914年 | 1924年 | |
豊田市~越戸 | 1914年 | 1922年 | |
知立~豊田市 |
1920年 | ||
知立~刈谷 |
1915年 | ||
刈谷~碧南 |
1914年 | ||
碧南~松木島 | 1920年 | 1920年 | 1926年 |
松木島~吉良吉田 | 1920年 | 1920年 | 1928年 |
吉良吉田~三河鳥羽 | 1920年 | 1920年 | 1929年 |
三河鳥羽~蒲郡 | 1920年 | 1920年 | 1936年 |
神谷伝兵衛社長在任:1916.4.5~1922.4.24 (※あかじは神谷伝兵衛社長在任時の事業) |
神谷伝兵衛の三河鉄道社長在任は、1916年4月いつかから1922年4月にじゅうよっかまで。ほれまでに開業しとった区間は、知立からみなみに刈谷、碧南まで。これを神谷伝兵衛は、きたに豊田市、越戸までおおきく延伸。のこる南北の末端区間の開業はほのあとのことになるだけど、ほとんどの区間の布設認可を在任時に取得。