名鉄資料館でみてきたもの (1) 松木島のえき

2016年9月15日、名鉄資料館にいって、館長さんからいろんなはなしをいっぱいきいて、いろんな展示物をいっぱいみてきた。いっぺんにぜんぶを紹介するのはとてもむりで、これからちょこっとづつ紹介していく。

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第1弾は松木島(まつきじま)のえき。じつは展示物じゃなくて、当方のもとめにおうじて館長さんがとりだしてくれた本のなかの写真だ。こどものころにこのえきをじかにみてうけた強烈な印象がいまもわすれれんくて、資料がみてみたかっただ。このえきは三河一色(みかわいしき)と吉良吉田(きらよしだ)のあいだのえきだけど、三河線碧南-吉良吉田間の廃止とともになくなった。じぶんのすむおんなじ西三河の地にありながら、このりっぱな駅舎を写真におさめんじゃったことが、くやんでもくやみきれん。

みなみがわからみた松木島駅舎(一色町松木島・1958年)
20160915 名鉄資料館 (3) 写真 - 松木島
当時、松木島駅にはまんだうでぎ式信号機がのこっており、写真みぎには、ほの操作のタイミングをまつ駅員のようすがうつされとる。〔白井昭氏さつえい〕
20160915 名鉄資料館 (3) 写真 - 松木島

みよ、この堂々とした洋館。一色町の代表駅でもない、吉良吉田みたいな結節点のえきでもない、ただのいなかのえきなのになんちゅうりっぱなたてものをあたえられとることか。こどものころにみたとき、つぎのように理解した。この鉄道ができた当時は、えきっていうもんがいまだと飛行場に相当するもんじゃなかったか。こっから電車にのやあ、にほんぢゅうのどこにだっていけるだ。ほんなひとびとの期待がこのりっぱな駅舎にこめられとるだって。

松木島駅(一色町松木島・1966年)
20160915 名鉄資料館 (2) 写真 - 松木島 620-450
三河線全駅のなかで、社長出身地にふさわしいとびぬけてモダンなたてものである。三河吉田へ延長されるまで終点駅であった。乗降客はすくなかった。〔倉知満孝氏さつえい〕
20160915 名鉄資料館 (2) 写真 - 松木島

このえきが、当時三河鉄道の社長の出身地のえきだったことは、ずーっとあとでしった。あ、ほいで、三河線がいっきに吉良吉田までつながったじゃなくて、さいしょはこの松木島どまりだっただ。えきのなまえも、社長のなまえをとって「神谷駅」だった。1926年のこと。乗降客はすくなかった、、、か。

松木島駅(旧神谷駅
開業=1926年9月ついたち、所在地=幡豆郡一色町松木島中切

20160915 名鉄資料館 (4) 写真 - 松木島 530-470
三河鉄道が大浜港(現碧南)から海岸の町村ぞいに鉄道建設工事をすすめ、矢作古川(やはぎふるかわ)のすぐてまえ、松木島に神谷駅をもうけて、1926年9月、大浜港-神谷間が開通した。
松木島は三河鉄道再興の恩人とされる神谷伝兵衛社長の出身地であり、駅名を神谷とした。こうした駅名は全国的にもたいへんめずらしい。このとし、2代め神谷伝兵衛が社長に就任、まもなく地方にはめずらしいコンクリート製のりっぱな駅舎をたてた。
1949年に学制改革などにともなう駅名改称がおこなわれたとき、ほかの13駅と同時に「神谷」を所在地おおあざ名の「松木島」にあらためた。1953年9月25日、13号台風による被害をうけた(松木島-三河吉田間の復旧開通は11月15日)。りっぱな駅舎は1978年9月、老朽化によりとりこわされた。〔沢田幸雄〕
20160915 名鉄資料館 (4) 写真 - 松木島

いや~、この駅舎がとりこわされたのは1978年のことだったか。てっきり、2004年3月31日の三河線碧南-吉良吉田間の廃止のときだっておもっとった。

矢作古川にかかる鉄橋をわたる栄生(さこう)いき特急(吉良吉田-松木島間・1964年)
20160915 名鉄資料館 (5) 写真 - 松木島 580-440
かわはばのひろい矢作古川の架橋には多額の費用と時間を要するので、三河吉田への延長は2年后であった。写真はまんだ本線直通特急が運転されとったころのようす。〔白井良和氏さつえい〕
20160915 名鉄資料館 (5) 写真 - 松木島

三河線が吉良吉田、当時三河吉田につながるのは、松木島開業から2年あとのことだったか。矢作古川(やはぎふるかわ)をわたるのがたいへんだっただね。いや、ほれにしてもこの写真の「栄生(さこう)いき」にはおどろきだ。1964年っていうとおれは小学校2年生だったけど、当時、西尾線経由じゃなくて、三河線経由で名古屋本線にのりいれていく特急の運行があっただ。鉄道の黄金期だ。

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さいごに、三河鉄道創業時の社長、神谷伝兵衛のものがたりだ。一色町松木島の出身で、えきのなまえにもほのなまえがあたえられたほどだけど、じつは鉄道の専門家じゃなくて、東京にでてワインの事業で成功をおさめたひとだった。

郷土の偉人 - 神谷伝兵衛
20160915 名鉄資料館 (6) 写真 - 松木島 560-425
にほんにワイン文化をひろめたおとこ神谷伝兵衛(1856~1922)は、一色町松木島のうまれだ。豪農のいえにうまれたけど、生家は没落し、17才のとき、横浜にでてフランス人経営の洋酒醸造会社につとめた。ワインをのんで病気が治癒したことから、酒造業界でみをたてることを決意したっていう。
てはじめに、浅草に洋酒の一杯うり『神谷バー』を開店、しょうちゅうづくりと平行してにほんじんごのみのあまみぶどう酒を調整して「蜂印」として販売し、好評をえた。本格的ぶどう酒づくりのために養子の伝蔵をフランス・ボルドーに派遣し、ワインづくりの手法をまなばせるいっぽう、ぶどうづくりの敵地をもとめて茨城県(いばらきけん)牛久(うしく)の地を開墾し、拠点とした。ぶどう園をつくり醸造施設をふくむレンガづくりの「牛久シャトー」を完成させたのは1903年、40才代なかばだ。牛久シャトーの本館2階にはおおひろまをもうけ、東京から知己(ちき)の政府高官をまねいてパーティーをするほどの社会的地位をえとった。
事業にたいする着眼点はするどく、石油・銀行・炭鉱・汽船・印刷などにほんの近代化に必要な会社の創立や経営に関与しとる。また、故郷の発展をつよくのぞみ、三河鉄道にも創立からかかわった。1916年には社長となり、経営悪化からのたてなおしに貢献した。1922年、郷里までの延長をみることなく、66才で死去。2代め伝兵衛(伝蔵)も、のち三河鉄道の社長となった。終点「神谷」の駅名は伝兵衛の姓に由来する。〔石川始史〕
20160915 名鉄資料館 (6) 写真 - 松木島

横浜でフランス人経営の洋酒醸造会社につとめて、浅草で神谷バーをひらいて、茨城県(いばらきけん)で「牛久シャトー」をつくった、、、か。政府高官をまねいてパーティーをひらくまでになって、石油、銀行、炭鉱、汽船、印刷っていう、ひろい分野にわたる事業にかかわっとっただ。三河鉄道にかかわったのは、故郷の発展をおもってのことだったって。

20160915 名鉄資料館 (1)
20160915 名鉄資料館 (1) 玄関にかざってある動輪


(さんこう)