ふるゐのえきがある。古井産業くみあいがある。あんじょう城址がある。みなみあんじやうのえきがある。農場がある。丸碧連合会がある。あんじょう町農会がある。碧海郡農会がある。1934年の碧海郡(へっかいぐん)の地図だ。
あんじょうし、刈谷市(かりやし)、知立市(ちりゅうし)、碧南市(へきなんし)、高浜市(たかはまし)の5市に、いまは岡崎市(おかざきし)にはいっとる六ッ美(むつみ)と矢作(やはぎ)、いまは西尾市(にしおし)にはいっとる米津(よねづ)、いまは豊田市(とよだし)にはいっとる上郷(かみごう)と高岡(たかおか)の5地区をくわえたのが、碧海郡(へっかいぐん)の区域だ。
鉄道は、東海道線、名古屋本線、西尾線、三河線があるほか、三河線がいまは終点の碧南からさらに吉良吉田のほうにつながっとったり、いまやほの存在さえしらんひとがほとんどじゃないかっていう西尾鉄道が六ッ美地区をとおっとったりする。1915年の悠紀斎田(ゆきさいでん)おたうえ式では、中島のえきがおおいににぎわったっていう。
道路も四通八達(しつうはったつ)。郡役所のあったあんじょうを中心に放射状にのびる。
(さんこう)
- 西三河の鉄道のうつりかわり11回め=蒲郡線の開業と挙母線の延伸 - あきひこゆめてつどう|2017/08/11
- 悠紀斎田と西尾鉄道 - あきひこゆめてつどう|2016/09/22
- あんじょうのまちをつくったおとこ - 岡田菊次郎 - あきひこのいいたいほうだい|2014/10/25
- 安城村は明治の廃藩置県により静岡県に編入。額田県、愛知県に編入されるのはほのあと。1891年に安城村に東海道線のえきができて、ほっから発展がはじまる。
- えきができたのは、安城村でもひとのすんどらん安城がはらのまっただなかだっただけど、1903年にはここまで発展。安城駅のまわりには、旅館、運送や、馬車や、めしや、銀行、郵便局のほか、岡田菊次郎のちちのいとなむ精米所もできとる。南明治で83戸、北明治で32戸をかぞえるまでになる。これも、村会議員や村長をつとめてきた岡田菊次郎のちからによるところがおおきい。
- 1906年に村から町に昇格してからも、おおくの期間町長をつとめることになる岡田菊次郎は、また農林学校を誘致。にほん三大農学校のひとつだ。さらに安城駅から四方八方につながる道路をつくる。まわりの自治体にくらべて圧倒的に優位にたつ。
- えき開設后の30年間をざっとみてみる。1891年に安城駅設置。1901年に農林学校設置。1906年に村から町に移行。1907年に東海道線が複線化。1910年に警察署が知立から安城に移転。1914年には郡役所も知立から安城に移転。これは全国的にみてもきわめてまれなことである。岡田菊次郎の政治力やおそるべし。このあと、安城はにほんのデンマークとして発展をとげ、全国から年間2万人の視察者がおとずれるようになる。
- ところが、にほんのデンマークもいつまでもつづくもんじゃない。大正末期からの農村不況で、三州社が倒産したり、山丸製糸がひきあげたり。安城の工業の80パーセントが製糸業だっただけに、これはおおきないたで。大東亜戦争がちかづくにつれ、安城農業の特色だった多角経営も、穀物増産の方向に転換を余儀なくされる。
- ほこで岡田菊次郎は、安城の発展をとだえさせちゃならんと、内外綿の工場を誘致。いまの倉敷紡績だ。ほかに、マキノやワシノも誘致。ちなみに豊田自動織機も誘致せえとしただけど、こっちは刈谷にとられちゃったとのこと。
- 岡田菊次郎のまちづくりはみっつ。ひとつ、まちは結節点。道路網の整備もこのため。ひとつ、みやこといち。行政、金融、商業の集積が必要。ひとつ、住民の生活がだいじ。商工会の設立や工場誘致もこのため。
- 安城町長 岡田菊次郎 - 農林学校を 誘致、道路網を 整備 - あきひこのいいたいほうだい|2014/06/20
- 郡制 - Wikipedia
- 1921年4月12日に「郡制廃止ニ関スル法律案」が可決された。これによって1923年4月1日に郡制が廃止された。郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、郡長および郡役所は残務処理のため1926年7月1日まで存置された。