矢作川流域第一の都市は岡崎だった。なのになんで岡崎のなかの一地区である矢作が、かわのなまえになったのか。いや、矢作はいまでこそ岡崎のなかの一地区にすぎんけど、じつは岡崎より歴史がふるい。戦国時代までは矢作川流域第一のまちっていうと矢作だって、ほいでかわのなまえも矢作川になったじゃないかって推測する。
(さんこう)
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- 岡崎城下東海道の地図 - あきひこゆめてつどう|2019/04/28
- 東海道の変遷
東海道は鎌倉時代になって京都から26番めの宿が矢作宿(やはぎじゅく)であり、14世紀末東矢作岡崎郷が明大寺(みょうだいじ)に出現しました。1590年、田中吉政が岡崎に入城し城下町の建設にとりかかり乙川(おとがわ)(※ 菅生川のこと)の南岸をとおっとった東海道を城下にみちびきいれ、矢作橋の架設に着手しました。1601年、本多康重が岡崎藩主となり、田中吉政の城下町建設をひきつぎ、矢作橋を完成しました。1607年の大洪水によって八町の町民を城東の台地にうつし、伝馬町(てんまちょう)を新設し、つづいて連尺町(れんじゃくちょう)篭田町(かごたちょう)両町もつくられ、まちなみがほぼ完成し、「岡崎宿36町27まがり」っていわれるようになりました。
- 東海道の変遷
- 矢作町 - Wikipedia 〔ついか〕
- 矢作町(岡崎市) - Wikipedia 〔ついか〕
- 岡崎市西部に位置し、東は矢作川を挟んで日名本町・八帖北町・八帖町・八帖南町、西は東大友町・暮戸町・北本郷町・筒針町、南は筒針町・渡町、北は中園町に接する。
- 矢作地区に属し、矢作支所の所在地となっている。
- 碧海郡東矢作村および西矢作村を前身とする。当初は1つの矢作村であったが、宝暦年間(1751年から1764年までの期間)に東と西に分かれたとみられる。
- 日本武尊が当地に駐留した際、川の対岸の賊を平定するに際して矢作部が竹で多数の矢を作り、献上して大勝したことによるとされる。
- 1878年12月28日、東矢作村と西矢作村が合併し、矢作村となる。
- 1889年10月1日、町村制に基づく碧海郡矢作村となる。
- 1894年2月19日、町制施行に伴い、矢作町となる。
- 矢矧 - ArtWiki 〔ついか〕
- 現在の愛知県岡崎市・安城市付近。矢作川右岸に位置する。地名の由来は、日本武尊が当地に駐留し、対岸の賊を平定するに際し、矢作部が川辺に自生する竹で多数の矢作を作り、献上して大勝したことによる。
- 〔古代〕
矢矧。平安期に見える地名。三河国碧海郡・額田郡のうち。東海道と矢作川が交差する交通の要所には市が立っていた。矢作川は碧海・額田の郡界をなしており、渡河は浅瀬を歩いて渡るか渡船を利用した。この渡し場に宿泊施設ができ、市も立つようになって平安后期には宿場が形成された。宿駅は当然矢作川の両岸にあったと見られ、碧海・額田両郡にまたがっていたと思われる。 - 〔中世〕
矢作。鎌倉期から見える地名。碧海・額田郡のうち。矢作川西岸は碧海荘に属した。1181年3月に源行家軍と平家軍が矢作川を挟んで対陣した(平家物語・源平盛衰記)。 また、矢作宿は足利氏の三河支配の拠点となっており、政治的に重要な場所となり都市化も進んで東西交通・周辺経済の中継地として大いに繁栄した。室町期には既にあった源義経と宿の長者兼高の娘浄瑠璃御前の悲恋物語は、矢作宿の繁栄を背景に生まれたのであろう。1335年11月25日、新政に反旗を掲げた足利氏の大軍が新田義貞らの軍を矢作川で待ちうけて激戦を展開した。この合戦を描写した「太平記」に東宿・西宿が初めて見えるが、前代にそういう区分は既にできていたのだろう。単に矢作(宿) とあるのは、両者の総称であった。矢作川の洪水や支流の乙川の流路変化もあって東宿は衰微し、その中心地は乙川のややさかのぼった地点の南岸に移り、室町期には東矢作と呼ばれることもあったが、次第に西宿側に専ら矢作の名称が定着するようになる。しかし、矢作川西岸だけを矢作と呼ぶようになるのは江戸期になってからである。 - 〔近世〕
矢作村。江戸期の村名。三河国碧海郡のうち。岡崎藩領。矢作橋は、1600年~1601年頃対岸の八町村との間にかけられ、土橋であったが、1634年徳川家光の上洛の際、総けやき造り208間の板橋となった。矢作橋の付近には慶長年間(1596~1615)大友鍛治と称される鍛冶職人が居住し、製造された甲*1は矢作鉢と称した。寺社は、時宗の光明寺・誓願寺、真宗大谷派勝蓮寺、矢作神社など。宝暦年間(1751~1763)に東矢作村と西矢作村に分かれたという。
- 矢作川の東岸も矢作だった?|いわせあきひこ|フェースブック|2019年9月29日0:10 〔ついか〕
*1:意味不明