2019年10月15日、矢作神社までいってきた。やまとたけるのみことが東夷とたたかうためにここにいのって、やをつくるためのやだけをとなりの矢作川でとってきたっていういわれのある神社だ。
◇ ◇
いき
ふるい13時25分のしんあんじょういきふつうにのる。車両は6047編成2両6000系鉄仮面。初期のかたの鉄仮面だ。
あんじょう平野をきたにすすんで、高架をあがって、みなみあんじょうに停車。吉良吉田いき急行のとうちゃくをまって、しゅっぱつ。吉良吉田いき急行は、2両編成6800系きんぎょばちをふたつ連結したやつ。わがしんあんじょういきふつうはモーター音をあげて、東海道線をこえて地平におりていく。
きたあんじょうに停車。
名古屋本線がちかづいて、ひだりにまがっていく。
ひだり線路わきは、西尾線留置線の布設がえ工事中。
進行方向がにしむきにかわって、名古屋本線と合流して、13時32分、しんあんじょうは2番のりばにとうちゃく。下車。
6番のりばに移動。しんあんじょう13時35分の東岡崎いきふつうにのる。車両は3506編成4両3500系きんぎょばち。
しんあんじょうをひがしにでてすぐに一宮いき急行とすれちがい。一宮いき急行は3516編成4両3500系きんぎょばち。
パノラマスーパーの岐阜いき特急とすれちがい。ひだりに矢作中学校があって、自転車でかえっていくこらがみえる。
13時41分、矢作橋にとうちゃく。下車。のってきた電車をみおくって、かいさつをでる。
矢作神社
矢作橋駅から矢作神社まではあるいていく。矢作のまちはみなみから順番に名古屋本線、国道1号線、東海道が東西にとおっとるだけど、まえにあるいた東海道をまたあるいていくのは芸がなく、こんかいは名古屋本線と国道1号線の中間のみちをひがしにすすむことにする。便宜的になかどおりっていう。えきまえからさいしょ線路ぞいのみちをひがしにすすむとこで、ひだりに中華レストラン知久。午后5時から10時までの営業で、すいようびと第1、第3もくようびはていきゅうび。どおりで、これまであいとるのをみたことがなかった。なかどおりにうつるとこで、みぎにいざかや華もん。このあたり、えきまえののみやがいってふんいきがただよう。なかどおりにでてひがしにすすむ。国道1号線の矢作橋東交差点と矢作橋駅ひがしふみきりをむすぶ南北のみちと交差するへんはずいぶんにぎやかで、左右にみせがいっぱいある。みせがすくなくなってきたとこで、ひだりにうなぎの魚利。ほのつぎにビューティーサロンパールがあって、ほの東南かどからきたにT字にのびるみちがあって、矢作東小学校南交差点までいってみる。この交差点の西南かどに鶴田歯科医院。1階がコンクリートづくり、2階が木造のおおきなたてもんだ。この交差点からさらにきたにみちはのびとって、東海道につきあたるとこにリンナイガス器具杉浦清商店がみえる。なかどおりにもどってひがしにすすんで、みぎにうなぎ鮮魚魚実(うおみ)。ひとつのみせの半分をつかってやっとるだけど、のこりの半分はストアー八百美の文字だけあって、シャッターがおりとる。ひがしにすすんで、国道1号線の矢作町加護畑(やはぎちょうかごばた)交差点と名鉄名古屋本線アンダーパスをむすぶ南北のみちと交差。左折して矢作町加護畑交差点までいってみる。この交差点の西南かどにらーめん幸楽苑。この交差点からさらにきたにみちはのびとって、東海道につきあたるとこにイカイ種苗がみえる。なかどおりにもどってひがしにすすむだけど、国道1号線の矢作町加護畑交差点と名鉄名古屋本線アンダーパスをむすぶ南北のみちをわたるのに、横断歩道がない。南北のみちはまんださいきんにできたもんで、クルマがびんびんいきかうみちなだけど、なんでなかどおりと交差するとこに横断歩道をつくらんかったのか。ここでまちが東西に分断されとる。この横断歩道のない交差点の東北かどにオチアイネクサス男子寮があって、東南かどのおおきなしきちにニッコーECのこうば。オチアイネクサス男子寮のひがしに光明寺があって、おまいり。
なかどおりをひがしにすすんで、ひだりに岡崎矢作郵便局。すぐむこうはまあはい矢作川の堤防で、なかどおりは堤防ぞいに南北にのびる東海道につきあたる。東海道は基本的に東西にとおっとるだけど、この区間、南北にとおっとるだ。郵便局のしきちの西南部分が駐車場になっとって、ではいりするクルマでにぎわっとる。あるいていける範囲をこえたとこからこの郵便局にくるひともおおいだ。ここでいったん、郵便局のにしからきたにはいっていくほそいみちにいってみる。国道1号線のしたをくぐって東海道につきあたる。つきあたるとこの西南かどにわがしの近江屋本舗があるのをかくにん。
なかどおりにもどって、ひがしに東海道にあたって左折。きたにすすむとこで、みぎ45度に国道1号線がとおる矢作橋をみる。うつくしい。はしの歩道を、自転車にのったおばさんが、帽子がかぜにとばされんようにてでおさえながらはしってくるのがみえる。はしのたもとまでいったとこで、あるいてはしをわたってきたおじさんとすれちがって、あいさつをかわす。おおきなリュックをせおって、東海道ひとりたびをしとるっていうふぜいのおじさんだった。
矢作橋のたもとをきたにこえてちょこっといったとこで、東海道はひだりT字に左折してにしにすすむだけど、矢作神社にいくべく、東海道からはなれてほのまま矢作川堤防道路をきたにすすむ。T字路の西北かどにある正蓮寺(しょうれんじ)をひだりしたにみて、自転車にのってやってきた高校生3人とすれちがう。
みぎに矢作川のかわもをみる。むかしは、このかわもをほかけぶねがいきかっとったらしい。
堤防道路をきたにすすんで、堤防道路とおんなじたかさでひだりに八幡宮。みぎに簡易トイレ。いや、こんなとこに簡易トイレがあるってめずらしい。簡易トイレのきたがわはちょこっとしたひろばになっとって、いくつかいしぶみがある。愛知県のたてた、矢作川の勝景っていう不整形な平板のいしぶみ。堤防道路に面してまをあけて左右に、どぶとくてひくい門柱みたいないしぶみ。しっかり文字がよみとれんけど、「十里堤成万民なんとか」っていう円筒がたの石塔。愛知県のたてた不整形な平板のいしぶみがまあひとつ。これはうえ半分がおれてなくなっとる。いや、こんなにいしぶみがいっぱいあるここってなんだ。
八幡宮のうら、堤防道路からひだりに分岐して、堤防道路にそってしたにおりていくさかみちがある。さかみちのいりぐちに郷社矢作神社っていういしぶみ。このさかみちをおりていったとこに矢作神社があるだ。
さかみちをしたまでおりきったとこにとりいがあって、こっから矢作神社の境内がひろがる。
とりいのひだりに矢作二区のだしぐら。矢作に2台あるだしの1台がここにおさまっとるだ。説明がきのかんばんに、「江戸時代末期の作品で、正面やねのあげさげが自由になっとる。牛若丸と天狗の彫刻をはじめ、彫刻はすべて金箔、極彩色がほどこされとる。やまをあげたときのたかさ7.09メートル、さげたときのたかさ6.00メートル。1973年3月23日、岡崎市有形民俗文化財指定」ってかいてある。だしのひきまわしは2年に1回で、次回はらいねん2020年10月みっかどようび。矢作三区のだしといっしょにひきまわしがある。
さらにひだりうしろにいったとこが、周辺の住宅のほうから神社にはいるいりぐちで、ほのわきに「軍艦矢矧(やはぎ)ゆかりの神社」のいしぶみ。表記こそちがうけど、矢作のなまえが軍艦にもなっとるだ。説明がきをよんでみると、初代と2代のふたつもある。初代が1911年に進水して、1914年から1919年の第1次世界大戦に参加、太平洋戦争のあとの1947年に解体。2代が1942年に進水して、太平洋戦争に参加、1945年、アメリカ軍の攻撃で沈没。
とりいのとこにもどって参道をすすんで、みぎにやまとたけるのみことの陶像。いや、ここ矢作はやまとたけるのみことゆかりの地なだ。説明がきのかんばんに、「やまとたけるのみことが東征で矢作をとおりかかったおり、住民が賊にくるしめられとることをうったえた。やまとたけるのみことに命じられた矢作部(やはぎべ)たちはやをつくらあってするけど、たけのはえとるかわのなかすまでいけん。とつぜん一匹のちょうがひとのすがたになって、たけをきりとってきてくれた。矢作部たちは1万本のやをつくって、やまとたけるのみことは神社にいのって、賊をほろぼした。ほれ以来神社は矢作神社ってよばれた」ってかいてある。べつの説明がきのかんばんにも、「景行40年西暦4世紀ごろ、反乱をおこした東夷をほろぼすためやまとたけるのみことが派遣されて、ここ三河のくに蓬里(よもぎのさと)で対戦。かわのなかすにあった良質のやだけでたくさんのやをつくって突破した。のちにこのかわを矢作川って、またさとのなを矢作って改称した」ってかいてある。いや~、古代の英雄やまとたけるのみことは、まさにこの矢作の地で敵とたたかっただ。
ひだりに秋葉神社。あとでわかっただけど、かぐつちのみことをまつってある。ひのかみさまだ。
おくまでいって、拝殿におまいり。由緒がきをよんでみる。やまとたけるのみことがこの神社にいのったときに、すさのおのみことをまつって、境内でやをはいだで矢作神社っていうなまえになったってかいてある。「やをはぐ」ってのは、「たけにはねをつけてやをつくる」っていう意味だ。ほかに、源義家(みなもとのよしいえ)が奥州征伐のとちゅう、やまとたけるのみことの故事にならってここ矢作神社を参拝したことや、新田義貞(にったよしさだ)が足利尊氏とのたたかいで戦勝をここ矢作神社に祈願したときに、いしがうなりをあげたことなんかもかいてある。さらに、軍艦矢矧の艦長以下の船員もここ矢作神社を参拝しとったことも。
拝殿のひだりに、やだけやぶとうなりいし。やまとたけるのみことは矢作部たちに命じて、このやだけでやをつくらせただ。新田義貞が戦勝を祈願したときに、このいしがうなりをあげただ。
おまいりをおえて、堤防をあがってかわらのほうにおりてみる。かわらんなかにアスファルトのみちがあって、これをみなみにちょこっといったとこで、みぎにちょっとした檀があって、ひだりにいしだたみのちょっとしたひろばがあるとこを発見。矢作神社にいくまえ、堤防のうえにいっぱいいしぶみのあるひろばをみた。ほの堤防のうえのいしぶみのひろばからかわらのほうにおりたのが、ちょうどこのあたりだ。星野美『矢作橋のたもと』っていうほんをよむと「矢作の天王土場は現在の矢作神社のまひがしにあたるかわぎしにあります」ってかいてある。土場ってのは渡場ともかいて、ふなつきばのことだ。ほの天王土場がまさにいまおるここじゃないのか。矢作川のかわもをやってきたほかけぶねが、ここでにのつみおろしをしたのか。
かえり
かえりみち。天王土場のとこから堤防にあがって、矢作橋のたもと、矢作橋バス停までいったとこで、ちょうど東岡崎いきバスがやってきて、のる。15時46分。
すぐに矢作橋をひがしにわたる。はしのうえからひだりに、いまいってきた矢作神社のもりや天王土場のへんをみる。バスの車内、電光表示に「この路線は岡崎市の補助により運行されております」って文字がながれるのをかくにん。バスはJRあんじょうえきと東岡崎をむすぶ岡崎あんじょう線のバス。この路線にはあんじょうしも補助しとるだけど、岡崎市も補助しとるだ。16時ちょうど、東岡崎にとうちゃく。下車。
電車にのりかえ。東岡崎16時24分の豊明いきふつうにのる。また矢作川をわたってにしにすすんで、16時34分、しんあんじょうは3番のりばにとうちゃく。下車。
2番のりばに移動。しんあんじょう16時37分の西尾いきふつうにのる。
あんじょう平野をみなみにすすんで、みなみあんじょうに停車。はんたいから佐屋いき急行がくるのをまって、しゅっぱつ。16時45分、ふるいにとうちゃく。下車。このひのたびをおえる。
(さんこう)
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- 矢作川中流域の治水 - 碑文をてがかりに出版岡崎の渋谷さん|東海愛知新聞 - 2005.10.4|エフエムEGAO 〔ついか〕
(※ ブログ記事本文中「愛知県のたてた不整形な平板のいしぶみがまあひとつ。これはうえ半分がおれてなくなっとる。」の記述に関連して)
- 岡崎市大幡町の元中学校長・渋谷環さんが、『碑は語る―岡崎平野の治水と農業』(B5判・191ページ)を出版した。1882年に起きた岡崎市久后崎町地内の乙川左岸堤防決壊(俗称「久后切れ」「三島切れ」)后の治水事業の経過を記した「三郡輪中治水碑」をはじめ、旧額田・碧海・幡豆三郡に残る治水、土地改良にかかわる碑の撰文を手がかりに矢作川中流域の治水や農業の歴史をまとめた。
- 失われた碑の上半分
「久后切れ」后の治水事業では、矢作川左岸の旧額田郡六名村から旧幡豆郡小島村までの堤防補強工事も行われた。 - それに伴って右岸の補強工事も行われた。この工事の経過を記した碑「矢作川堤塘記念碑」が、岡崎市矢作町宝珠庵の矢作神社東の堤防に置かれとる。建立時は矢作橋のたもとにあった。
- この碑は現在、上半分が行方不明で下の部分だけが残っとる。幸い大正時代の私家版『矢作町誌』に碑の全文が写されて遺っとる。
- 「碑文に、地元への負担があまりにも重いため不満がおこり、一時工事が中断したことが書かれとるのは大変珍しい」と渋谷さんは不思議がっとる。
- 渋谷さんが調べた碑は20基を超す。「碑に向き合い碑文を読んどると、治水や農業開発に汗した先人の苦労や英知、后世への期待と願いが迫ってくる」と『あとがき』で結んどる。
- およそ4百冊を印刷。図書館、市民センター、先輩、知人などに配布したが、残部が若干ある。問い合わせは、渋谷さん(0564 - 48 - 2844)へ。