朝日新聞出版『旅と鉄道』2014年1月号にのっとった桐生典子さんの文章をつぎに紹介する。
そのひそのひで表情をかえる「富士山の百面相」
11時15分、東海道本線を吉原駅で下車し、隣接する岳南電車の吉原駅へとむかった。
岳南電車は、吉原を起点にぜんぶで10駅。きょりにして9.2キロで、終点までの所要時間はわずか21分。このローカル線を、とちゅう下車をたのしみつつ踏破?する計画だ。
その吉原駅でまずはこころときめいた。きっぷが、むかしなつかしい硬券なのである。まどぐちの駅員さんにいきさきをつげると、硬券さしから1枚をぬきとり、ぱちんとはさみをいれてくれた。
「JRのきっぷもありますし、全国から鉄道ファンがかいにみえますよ。なかには1万円単位で購入されるかたもいらっしゃいます」
勤続二十余年という駅長さんがおしえてくれた。かいさつぐちのよこには、「おわすれもの」としるされたちいさな連絡黒板もあり、「昭和」でときをとめたような駅のふぜいがあったかい。
ホームには、2両編成のみどりの列車が出発時間をまっていた。かぐやひめと富士山をデザインした「かぐや富士」なるヘッドマークの電車にのることもたのしみのひとつだった。
「それは、運がよかったです。『かぐや富士』のついたみどりの8000がたは、平日はあさゆうだけなんです。きょうはたまたま団体客があったのでひるまも運行していますが、ふだんは7000がたというあかいろの1両編成で」
幸運に感謝しつつ、富士山もすがたをみせてくれないものかと、ホーム中央まであるいていく。と、あつぼったいくものあいだから、山頂のひだりかたがすこしだけのぞいているではないか。
まだ冠雪はしていなかったが、吉原は、田子の浦港をまぢかにし、万葉の名歌〔田子の浦ゆ うちいでてみればましろにそ 富士のたかねにゆきはふりける〕の舞台である。そして岳南電車のすてきなところは、どの駅にも富士山のみえるポイントがあること。
吉原駅を出発し、みぎてに製紙工場をながめ、列車がみぎにおおきくカーブしたときだった。ふいにましょうめんに、富士山がどーんとあらわれたのである。わずか数十秒だが、おもわず「おお!」とこえをあげていた。それほどの威容だった。しらくものおびをしているものの、天をつくそのたかさとそのおおきさ、威厳と優美さは圧巻だ。ずしりとおなかにまでせまってくる。岳南電車にのってよかった。これでくもがすべてはれたら、この感動は百倍にちがいない。と、しかし、このあと富士山はくものなかにかくれ、終日みることができなかったのだが・・・。
とちゅう下車した比奈(ひな)では、駅ちかくにある比奈カフェでランチをとった。テラス席につくと、かたかたとはしっていく列車のおとやふみきりのおともこころよく、また、比奈駅から徒歩10歩のちいさな工房「フジドリームスタジオ501」では、鉄道ジオラマをみせてもらった。さらに、ちょっとあしをのばして竹採公園(ちくさいこうえん)へ。
このたびではじめてしったのだが、比奈は、『竹取物語(かぐやひめ伝説)』の地としてなのりをあげているのである。かぐやひめはつきではなく、じつは富士山にかえったという斬新なはなしも伝承されている。富士山本宮浅間大社のまつりがみ木花咲耶媛(このはなのさくやひめ)が、かぐやひめのモデルだという説まであるのだ。岳南電車のヘッドマーク「かぐや富士」は、もちろんこの伝説に由来する。
富士のわきみずのながれるおがわはこのうえなくすみきって、竹採公園では静寂のなか、たけばやしがなみのようなおとをたてていた。
そのあと、比奈駅のおとなりの岳南富士岡駅ホームで列車をまっているときのこと。ベンチにこしかける年配の婦人がはなしをしてくれた。
「フジサン、きょうはあさはやい時間にはみえていたんですけどね。うちは2階のまどからみえるんですよ。そのひそのひで表情がちがっていて、なくなった主人がいつもたのしそうにいってました。『富士山の百面相』って」
(さんこう)