めしもりおんなっちゅうなまえの遊女。ふつうならはかなんかつくってもらえるみぶんじゃないだけど、借金を苦に入水自殺(じゅすいじさつ)したことをあわれんで、はたごの主人がとくべつにつくったもんだっていう。ほんな遊女のはかをたずねて、御油宿(ごゆじゅく)は東林寺(とうりんじ)までいってきた。2019年1月21日あさ、新聞でこのことが紹介されとるのをみて、ほのひのうちにいってきた。
◇ ◇
御油まで
ふるい11時55分のしんあんじょういきふつうにのって、あんじょう平野をきたにすすむ。
みなみあんじょうで吉良吉田(きらよしだ)いき急行といきちがい。
12時2分、しんあんじょうにとうちゃく。ホームを移動して西尾線から名古屋本線にのりかえ。しんあんじょう12時5分の東岡崎いきふつうにのって、ひだりに東海道と平行して西三河平野(にしみかわへいや)をひがしにすすむ。さっきはあっかい電車だったけど、こんどはぎんいろ電車。
12時15分、東岡崎にとうちゃく。のってきた電車は伊奈いきふつうにかわって運行を継続。これにのってほのままいきゃあいけただけど、ひるごはんがたべてなくて、ここで下車。
またかいさつをはいったとこで、さいしょにまちあい線のほうにぎんいろ電車がはいってくる。東岡崎13時19分の伊奈いきふつうだけど、こいつはみおくることにする。
つぎに主線のほうに東岡崎13時17分の豊橋いき快速特急がはいってくるだけど、こいつにのっちゃうといっぺんに豊橋までいっちゃう。これがでたあと、まちあい線にとまっとった伊奈いきふつうがでていく。
豊橋いき快速特急も伊奈いきふつうもでたあとに、主線のほうに東岡崎13時22分の豊橋いき急行がはいってきて、これにのる。いや~、あっかい電車、きれいだわ~。
ひがしにすすんで、13時26分、さいしょの停車駅、美合(みあい)にとうちゃく。ここで東岡崎でみおくった伊奈いきふつうにのりかえ。13時28分、美合をしゅっぱつ。急行はめざす御油(ごゆ)にとまらんだ。
藤川(ふじかわ)をすぎて、あたらしい塗装のパノラマスーパーの岐阜いき特急とすれちがい。このちょっとてまえで、ほれまでひだりに平行しとった東海道がみぎにうつっとる。
ひだりに舞木(まいぎ)検査場。ぎんいろ電車がとまっとるのがみえる。
名電山中(めいでんやまなか)に停車。なまえのとおり、やまんなかってふんいきのとこだ。
本宿(もとじゅく)に停車。ここでぎんいろ電車の東岡崎いきふつうとすれちがい。なんかぎんいろ電車率たかいな。
岐阜いき急行のあっかい電車とすれちがい。
岡崎市の区域から豊川市の区域にはいる。西三河から東三河にはいるわけでもあるだけど、このへんが矢作川(やはぎがわ)水系から音羽川(おとわがわ)水系への分水界だ。電車もひがしにすすむけど、音羽川もひがしにながれる。
名電長沢(めいでんながさわ)に停車。まんだくさぶかい。
ちょこっと地形がひらけてきたとこで、新鵜沼(しんうぬま)いき快速特急とすれちがい。まえは2200系こおろぎだけど、うしろは1700系貴婦人。
みぎ曲線のとちゅうで名電赤坂(めいでんあかさか)に停車。ここも御油におなじく東海道の宿場町(しゅくばまち)で、「赤坂、御油」っていっしょくたにいわれることがおおい。
一宮いき急行のあっかい電車とすれちがい。
だいぶ地形もひらけてきて、13時44分、御油(ごゆ)にとうちゃく。下車。
東林寺にある遊女のはか
御油(ごゆ)のえきからは、うみがわに名古屋本線と垂直方向にあるく。すぐに国道1号線をこえて、すすんでいく。
しばらくすすんで変則的な交差点のとこで、旧東海道にあたる。交差点のすぐみぎに、音羽川(おとわがわ)にかかる新御油橋(しんごゆばし)。このはしをわたったむこうがわが御油宿(ごゆじゅく)みたいだ。
はしのよすみにうつくしい石標(せきひょう)。てまえりょうがわには、はしのなまえのよみかたと完成時期がしるしてある。2000年11月完成だ。
むこうりょうがわには、かわのなまえとはしのなまえがしるしてある。
それぞれの石標のまんなかには東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)のうきよえをうつした銅板がうめこまれとって、おとずれるひとの旅情をかきたてる。
まつなみき資料館や本陣あとをすぎたとこでひだりにまがって、すぐに東林寺(とうりんじ)の山門についた。まったくみちもしらべんできただけど、かんばんがでとったおかげでまよわんでこれた。有名なおてらなだ。
境内にはいったとこで、ゆいしょがきがある。
東林寺
東林寺は、室町時代のなかごろの永享(えいきょう)年間(1429年~1441年)に竜月日蔵(りゅうげつにちぞう)和尚によって創建され、当初「洞元庵(どうげんあん)」とよばれておりました。
本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されております。いいつたえによれば、この如来像は奥州(おうしゅう)にくだる牛若丸(うしわかまる)(義経(よしつね))とちぎりをむすんだ三河矢作の浄瑠璃姫(じょうるりひめ)の念持仏(ねんじぶつ)*1で、竜月日蔵和尚が当寺にうつし、本尊としてまつったとされております。
また、当時にある毘沙門天(びしゃもんてん)立像、青面金剛(しょうめんこんごう)立像および阿弥陀三尊(あみださんぞん)画像、来迎阿弥陀三尊(らいごうあみださんぞん)画像も豊川市の文化財として指定されております。
当寺には、徳川家康が二度もたちよっております。
また、芝増上寺(しばぞうじょうじ)の管長(かんちょう)祐天大僧正(ゆうてんだいそうじょう)がたびたびおとずれておることからも、当時の隆盛ぶりをうかがいしることができます。
豊川市教育委員会
おー、このおてらの本尊が、浄瑠璃姫(じょうるりひめ)がたずさえとった仏像だったとは。浄瑠璃姫は、わが西三河は矢作(やはぎ)のひとで源義経とちぎりをかわしたっていうひとだ。なんだかつやっぽいゆいしょだ。ちなみに豊臣秀吉も、少年時代に矢作橋のたもとで矢作の遊女とまじわって童貞をうしなっとる。いまも矢作橋(やはぎばし)のえきには美人がたくさんのりおりする。矢作は美人の産地だ。
塀をへだてた墓地にはいって遊女のはかをさがす。あった! ほかにもにたようなはかがあってちょっとまよっただけど、新聞の記事に「はかには『傾』や『城』の文字がはいっとる」っていうのをおぼえとって、特定することができた。ただ、よっつのはかってかいてあったのにいつつのはかがある。まあいいか。
いちばんみぎのはかから順番におまいり。ふたつめの「傾岸淵城信女」は新聞の記事にあった。まあひとつ新聞の記事にあった「傾室池城信女」はどれだかわからん。むかし、「御油や赤坂、吉田がなけりゃなんのよしみで江戸がよい」ってうたわれるほど、それぞれのしゅくばまちの遊女らはおとこどもにとってあこがれだったわけだけど、このんで性労働についたわけじゃない遊女らにはかなしいものがたりもいっぱいあった。あらためて、ほんなことにおもいをいたした。
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ねむる遊女におもいはせ - よりそうよっつのはか - はっくつ新三河遺産(ちゅうにち 2019年1月21日)
まるで少女たちがかたをよせあうかのように、よっつのちいさなならんどる。旧東海道の御油宿(ごゆじゅく)(いまの豊川市御油町(ごゆちょう))にたたずむ東林寺(とうりんじ)の一角。「はたごや」(やどや)で奉公しとっためしもりおんな、つまり遊女たちのはかだ。
豊川市や東林寺などによると、かつて御油宿は「御油や赤坂、吉田がなけりゃなんのよしみで江戸がよい」ってうたわれ、おおくのめしもりおんながおった。まずしいうまれのかのじょたちは、実家への給金とひきかえにはたごやへ年季奉公にだされとった。1848年9月、伊勢出身の「とよ」らおんなじはたごやのよにんが、かさんだ借金を苦にしてちかくのいけで入水自殺(じゅすいじさつ)。まんだ10代、20代だった。
はたごやの主人は、ひとりづつはかいしをたててとむらった。いしのはかなど裕福なひとしかつくれん時代。ましてや遊女に個人のはかをたてるなど異例だった。住職斎藤隆明さん、63才は「むげにできんっておもっただらあ」ってはなす。
「傾岸淵城信女」、「傾室池城信女」。はかにほられたよにんの戒名には「傾」、「城」の文字がひそむ。これは、君主が遊女のいろかにおぼれてくにをほろぼしたっていう漢詩の一節から、高級遊女が「傾城(けいせい)」ってよばれとったことに由来する。
斎藤隆明さんは「いっつもあったかいもんがたべれたりさぶさをしのげたり、あたりまえのことがあたりまえでない時代があった。いまの生活をみなおすきっかけに、おまいりしてほしい」ってはなす。はかのまえでめをつぶっててをあわせると、東三河(ひがしみかわ)のつよいきたかぜがふきぬけた。
写真=鵜飼一徳さん/文=高橋雪花さん
(さんこう)
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*1:個人が身辺において私的に礼拝するための仏像