矢作三区のだしをみてきた - 2019年10月いつか

2019.10.5 (14) 矢作三区 - だし 1380-1980

2019年10月いつか、矢作三区のだしをみてきた。このふつかまえに弥五騰神社(やごとじんじゃ)のとなりに矢作三区のだしぐらを発見して、矢作にだしがあることをしってふつかあとのことだ。だしの展示があることは、発見ののあとひるごはんにはいったとんかつのツヅキできいてしった。

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2019.10.5 (10) 矢作三区 - だし 1200-1600

矢作橋駅から東海道をひがしにあるいて、矢作三区のだしぐらにとうちゃく。おー!でとる、でとる! いや、でっかい。はっぴをきたじもとのおとこのひとたちが、かわるがわるだしにのぼったり、となりの弥五騰神社ではなしをしたりしとる。おんなのひとたちは、弥五騰神社のおくの矢作三区公民館のそとにうけつけをおいて、だしをみにきたこどもたちにおさがりをあげるやくめだ。

だしのよこの説明がきのかんばんに岡崎市指定文化財ってかいてある。価値のあるもんなだ。

2019.10.5 (12) 矢作三区 - だし(西中乃切) 1790-1470

ところで、だしをおおう幕に西中乃切ってかいてある。三区のまえのいいかただ。東西にながい矢作はもともとよっつの地区にわけられとって、さいしょは、東海道のにしのほうかから「上の切」、「上中の切」、「下中の切」、みなみに桜井道のほうにいって「下の切」っていうふうになっとった。ほれが明治になって「西の切」、「西中の切」、「東中の切」、「東の切」にかわった。さらに戦后になって、いまの「四区」、「三区」、「二区」、「一区」にかわった。この三区はひとつまえの時代には西中の切だっただ。

はなしもきいてみたいな。おとこのひとたちにこえをかけると、いろいろおしえてくれる。
「このだしができたのが1839年天保10年。一区から四区までそれぞれがだしをもっとっただけど、一区と四区はうっちゃった。一区のだしは名鉄名古屋本線ができて、ほのガードをくぐることができんくなっちゃってうっちゃって、いまは知立の宝町にある。知立にいくつかあるだしのうち、ひとつだけかたちがちがうのが、この矢作からいったやつだ。四区は財政難が原因でうっちゃって、いまは知多半島は師崎(もろざき)のさき山海(やまみ)ってとこにある。二区と三区はいまもだしがあるだけど、二区のだしは2代めのだしで、三区のだしは初代のもんだ」。

2019.10.5 (13) 矢作三区 - だし(楠木正成ものがたり) 2000-1500

「三区のだしは装飾のほりもんがりっぱだ。とりわけ、したの唐破風のうえにのっとる楠木正成のものがたりのほりもんはみごとだ。各地のだしといっしょに万博に出展したことがあるだけど、この三区のだしのほりもんは最高だっていわれた」。
ちかよってみてみる。なるほどりっぱだ。

さらにおしえてくれる。
岡崎市の区域では、この矢作の2台のほかに能見(のみ)に8台あるだけど、みんなちいさい。路面電車がはしるようになって、ほの架線がだしにひっかかるようになって、うえ半分をきっちゃっただ」。
「矢作のだしは2年に1回ひきまわしをやっとる。ことしはなかって、らいねん2020年10月第1どようびにひきまわしをやる。三区だけじゃなくて二区もいっしょ。ぜひ、みにきてほしい」。

2019.10.5 (14) 矢作三区 - だし 1380-1980

時間がきて、おとこのひとたちがそうででしまいにかかる。みなさんにお礼をいって、会場をあとにする。もちろん、らいねん2020年10月第1どようびにはひきまわしをみにくるよ。


(さんこう)

  • 矢作の山車…|いわせあきひこ|フェースブック|2019年10月5日14:54
    • 矢作の山車、でかっ!
      2019.10.5 矢作三区 - だし 1150-1600
  • だしのよこにある説明がきのかんばん
    • 岡崎市指定文化財
      2019.10.5 (11) 矢作三区 - だし説明がき 1480-1200
      矢作三区/有形民俗文化財、祭礼だし、1台
      だしの歴史は、京都祇園の山鉾がはじめてであり、室町時代末期にいまのだしの基礎ができたといわれる。このだしは、江戸時代末期の作で、正面は唐破風やねを二重につくり、これにもろもろの彫刻をはめ、かつ金銀の箔をおしており、絢爛荘厳なできである。矢作町には過去4台のだしがあったが、現在この西中の切と東中の切の2台が保存されている。だしのたかさ6.37メートル。
      1968年2月8日指定/岡崎市教育委員会
  • 矢作宿をあるく - 2019年10月みっか - あきひこゆめてつどう|2019/10/05
    • ひだり、岡崎市立矢作東小学校の標柱のしたに東海道のみちしるべ。しきちは弥五騰神社(やごとじんじゃ)の境内で、おくにすすんで拝殿におまいり。拝殿のみぎに矢作三区公民館。ほー、このへんを三区っていうのか。境内のひだりわきのみちのつきあたりに矢作東小学校があるだけど、つきあたるてまえのひだりに岡崎市指定文化財三区山車蔵のたてもんを発見。いや、矢作ってだしがあるだ。矢作の属する岡崎市のとなりのあんじょうしになんじゅうねんもすんどりながら、しらんかった。
    • となりにモリヤ鈴木酒店。みせばんにおばあさんがおる。ちょうどのどもかわいてきたとこで、ここでペットボトルのジュースとついでにたばこをかう。「矢作にだしがあるだねえ」ってみずをむけると、「きのうおまつりででたとこだよ」っておしえてくれる。みせのかべにかけてあった写真もみせてくれる。「矢作に五区あるうちに、だしがあるのは三区と二区で、三区のやつのがおおきい。まいとし10月ふつかのおまつりにだしがでる」ともおしえてくれる。いやいや、きのうくやだしがみれたのか。
    • ずーっともどって、とんかつのツヅキでひるごはん。いま三区のだしぐらをみてきたとこだっていうと、あさって10月いつかにだしの展示があるよっておしえてくれる。みにいかにゃ。ほいから四区にもだしがあっただけど、うっちゃったってこともおしえてくれる。ほや、だしを維持するってたいへんなことなだよな。さらに、名古屋本線のみなみに、あたらしい時代に五区ができたこともおしえてくれる。
  • 矢作町の山車|矢作町界隈記
    • 岡崎市矢作町の山車は矢作神社の祭礼の時に曳き回されていたもので、明治維新前までは旧東海道沿いの家並みを東側から下之切組(しものきれぐみ)、下中之切組(しもなかのきれぐみ)、上中之切組(かみなかのきれぐみ)及び上之切組に分けて祭り組とし、各祭り組は神社(かみやしろ)及び山車を保有していました。
    • 明治維新により旧江戸城の西の丸を天皇の居所に定めて宮城と命名されました。これにより上(かみ)及び下(しも)の方向が変わったことから矢作町の祭り組は、東之切組、東中之切組、西中之切組及び西之切組に改められました。
    • 1953年4月11日に矢作町四区の南側を分けて矢作町五区が誕生しました。