2019年10月いつか、矢作の宝塔さまをみてきた。東海道に面してみちのきたがわにたっとる、巨大な石塔だ。弥五騰神社(やごとじんじゃ)の境内の東南の一角になる。これにさきだつ2019年10月みっかに矢作宿をあるいたときに、この巨大な石塔の存在にもきづいとっただけど、どんな意義のあるもんかがわからんくてしっかりみんじゃった。ところでうちにかえって、かりとった星野美『矢作橋のたもと』っていうほんをよんでみると、じもとで宝塔さまってよばれとって、矢作川の大洪水による死者をとむらうためにたてられたもんだってかいてある。このひは弥五騰神社のとなりで矢作三区のだし展示があって、ほれをみるのとあわせて矢作の宝塔さまをみてきた。
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矢作三区のだしをみおえて、宝塔さまのとこに移動。
正面
正面をよんでみる。いや、ちかづいてみてみると、たかさ5.4メートルっていう巨大さがようわかる。
「南無妙法蓮華経 - 賜紫身延 - 五十八代 - 日環 - 溺死菩提」
南無妙法蓮華経は日蓮宗のお経だ。本山である身延山の第58代管長の日環がこれをたてとる。賜紫ってのは、むらさきのころもをたまわったえらいおぼうさんっていう意味にちがいない。いちばんしたにみぎよこがきしてある溺死菩提は、矢作川の大洪水におぼれ死んだことをとむらうってことだ。
いや、これ、身延山がたてたもんなだ。大洪水がおこったのは、1828年7月ついたちのこと。矢作橋より上流のおおまがりで堤防の決壊がおきて、ほっからみずが弥五騰神社のほうへおしよせてきて、流失家屋75軒、溺死者17人っていう被害をもたらした。ちょうどこの最中に日蓮宗の行者がとおりがかったことから身延山のしるとことなって、身延山が全国各地の信者から志納をあつめて、この地に菩提の石塔をたてるにいたっただ。
みぎ側面
みぎ側面をよんでみる。
「一天四海皆帰妙法后五百歳中広宣流布 - 天下泰平圀土安穏五穀豊饒万民快楽」
前段はむずかしくて意味がわからんけど、后段は文字どおり天下泰平、国土安穏、五穀豊穣、万民快楽な状態をねがっての文言か。
ひだり側面
ひだり側面をよんでみる。
「南無日蓮大菩薩 - 五百五十 - 御遠忌」
南無日蓮大菩薩は、大菩薩になった日蓮上人に帰依するっていうことだ。五百五十御遠忌は、大洪水がおこったとき、あるいは石塔をたてたときが日蓮上人の550回忌にあたるとしだって、ほいでこうやってかいてあるのかなって推測する。
うら面
さいごに、うら面をよんでみる。
「題目一万部 - 去文政子初秋水難溺死為追善宝塔一基棒造立宗祖報恩 - 文政十三庚寅季八月吉祥日」
題目一万部は意味がわからん。つぎのとこは、文政年間の初秋の水難溺死者を追善法要するために宝塔1基をたてたっていうぐらいの意味か。宗祖報恩は、宗祖日蓮上人が恩にむくいるってことかなっておもうけど、だれの恩にむくいるのかようわからん。文政以下は、この宝塔さまをたてたとしで、1830年のことだ。大洪水から2年あとにこの宝塔さまがたてられただ。
(さんこう)
- 矢作三区のだしをみてきた - 2019年10月いつか - あきひこゆめてつどう|2019/10/07
- 2019年10月いつか、矢作三区のだしをみてきた。このふつかまえに弥五騰神社(やごとじんじゃ)のとなりに矢作三区のだしぐらを発見して、矢作にだしがあることをしってふつかあとのことだ。だしの展示があることは、発見ののあとひるごはんにはいったとんかつのツヅキできいてしった。
- 矢作宿をあるく - 2019年10月みっか - あきひこゆめてつどう|2019/10/05
- 溺死菩提宝塔|矢作町界隈記
- 弥五騰社の境内に「南無妙法蓮華経 - 賜紫身延五十八代日環」と刻された宝塔が建立されています。文政十一年七月一日(1828.8.11)に大洪水のために堤防が切れて家や人畜が流されて十四人が溺死しました。この時の亡霊追善のために文政十三年十月十六日(1830.11.30)に「溺死菩提」として建立されたのがこの宝塔です。
- 矢作川堤防の決潰と宝塔さま|星野美『矢作橋のたもと』(1986年、ブラザー印刷かぶしき会社)
- 岡崎市立矢作東小学校へのいりぐち、むかってみぎがわ、旧東海道のみちぞいに、だいいしのしきち10尺四方(9平方メートル)、総高18尺(5.4メートル)いしづみ4段で8尺(2.4メートル)のうえにながさ10尺(3メートル)はば2尺5寸(75センチ)の穂石に、南無妙法蓮華経とほりこんだ宝塔があります。にほん各地にかずおおくの宝塔がありますがこの宝塔が最大のものとおもいます。ここ矢作のひとびとはむかしから、これを「宝塔さま」とよび、いまも献花のたえたことがありません。
- いまから150余年まえの1828年7月ついたち午后4時ごろに矢作川の堤防がおおまがりの付近で決壊し、大洪水になり、流失家屋75軒、溺死者17人そのほか、ひとときながされましたがあやうくたすけあげられたもの30余名という大惨事がおこりました。このときの死者の霊を供養するためにたてられたのがこの塔です。
- 1828年7月ついたちの前日にあたる6月30日は伊勢神宮の〇太夫から「百万度御祓」をうじがみの牛頭天王宮へおさめるため、まちは一日中やすみにし、上の切、上中の切、上中の切、下の切はそうででおふだおさめにでていました。
- あめはあさがたからふりはじめ、よどおしやむまもなくふりつづき、よあけとともにますますはげしくなり、午前10時ごろ、水量は12尺(4メートル)になりました。岡崎城から警戒のため役人が派遣され、はしふせぎをし、むらびとも堤防にあつまり、土俵800個を用意しました。1時ごろになるとおおまがりから50間(25メートル)ほどしもで15間(7.5メートル)ほどのみずもれがはじまり、さらにかわおもてのほうが14、5間(8メートル)ほどかけこみ、みるみるうちに堤防が3尺(1メートル)ほどさがり、かわみずがのりこえはじめたので、いまはいかんともなしがたし、それぞれかえって家財道具をまとめ、じぶんのいえをまもるよういいわたされました。
- 一方、堤防の決壊かしょはますますおおきくなり、洪水は弥五騰神社のほうへむかってはやせのように、しろいあわをたてて奔流となり、うずをまいてひろがっていきました。おおまがり堤防から弥五騰神社の方向へななめにながれ、水路にあたる75戸のいえはそうなめになり、17人もの死者がでました。
- ところで、この大洪水がいまだひきおわらないうちにふしぎなことがおこりました。ともうしますのは、洪水の最中を、白衣、しろてこう、しろ脚絆をつけくちにお題目をとなえながら、円扇太鼓をうちならし、巡礼行脚をする法華経の行者(肥后のくに、宇土新町の伝治、69才といわれる)がこのむらをとおりすぎました。翌年、日蓮宗の本山の身延山から、岡崎にある円頓寺へ、「諸国巡礼行脚の法華経の行者がきました。この行者がもうすのに、昨年(1828年7月)三河のくに矢作というところで堤防の決壊にであった死者多数である。同情の念たえがたく、そのときから各国の信者から志納をあつめ、きょうまでこれだけあつまりました。不足分は貴寺でまかない、供養塔の建立につとめていただきたい」という通知があり、円頓寺の住職のおほねおりと有縁のひとびとの志納寄進と身延山管長さまに塔の文字のご揮毫をえて、1830年塔は建立、除幕され入魂式がおごそかにおこなわれました。
(矢作町三区総代、大久保健三氏氏談1978年) - この塔をめにするとき、みずと人生、人生と自然、そして安定した現代社会がたんじょうするまでのプロセスにおもいをいたし、わがこころの成長のかてにしたいものとつよくかんじました。