水間鉄道(みずまてつどう)

水間鉄道の 起点 貝塚駅は、南海電鉄の ターミナル 難波駅から 南海本線で 28.6キロの 地点に あり、ここから 東南方向に 終点の 水間駅まで 5.5キロの 路線を 有する。名鉄名古屋本線名鉄名古屋駅から 新安城駅までが 29.7キロ、さらに 名鉄西尾線で 新安城駅から 碧海古井駅までが 5.7キロなので、都心との 関係で いうと 水間駅と 碧海古井駅は おなじ ような 位置関係に あると いえる。




























水間鉄道の 概要
運行頻度 1日 54本、1時間 3本
路線延長 5.5km
所要時間 14分
表定速度 23.6km/h
料金 280円
路線図 水間鉄道 路線図


それは鉄道員だから|水間鉄道|2008年12月20日|朝日新聞より


貝塚駅を 出発した 2両編成の 電車は、住宅の のきさきを かすめる ように して ゆっくり すすんだ。「カチカチカチ……」。くろい かばんを さげた 車掌さんが 改札ばさみの おとを ひびかせながら 車内を まわる。「こんな レトロな 電車が 大阪にも あったんやね」。大阪市内から きたと いう 大学生の 女性 2人が ほほえんだ。


大阪府 貝塚市 北部の 5.5キロを はしる 水間鉄道は 1926年、やくよけ観音で しられる 水間寺(みずまでら)の 参拝客を はこぶ ために 全線開業。1970年代の ピーク時には 年間 約 400万人が 利用した。クルマで てらへ むかう ひとが おおく なった いま、年間 約 220万人の 通勤・通学客らが のる 都市型路線に すがたを かえた。


そんな 鉄道が 存続の 危機に さらされたのは 数年 まえ。バブル期の 過剰な 不動産投資で 経営が 悪化した。2005年に 約 258億円の 負債を かかえて 会社更生法の 適用を 申請した とき、従業員の 給料 約 3カ月分が 未ばらいに なっとった。


「つまと こどもに たいへんな おもいを させたが、鉄道に かかわる ものと して 1本の 運休も ゆるされんと いう 使命感で はたらいた」。沿線で うまれそだち、18才で 入社した 副運輸長の 中塚康宏さん(40才)は ふりかえる。


支援に のりだしたのは、うどん店を チェーン展開する グルメ杵屋(きねや、本社=大阪市)。当時 会長の 椋本彦之(むくもと ひこゆき)さん(2008年 6月に 72才で 死去)は 貝塚に 疎開した 縁が あった。かれから 再建の 実務を 託されたのは、ひとりの もと鉄道マンだった。




■ちちの せを おい、むすめは はしる

無人駅には くもの すが はっとった。士気が 低下しとるのか、管理が いきとどいとらん。水間鉄道の 再生を たのまれた もと南海電鉄社員の 関西美津治(せきにし みつじ)さん(80才)は 「これは むずかしいかも」と おもった。だが、有人駅の 改札ぐちでは ていねいに 客に 対応する わかても めに した。「まじめな 社員が おる 現場なら 希望は ある」。なによりも もと鉄道マンと して、客の あしが うばわれるのは みすごせんと 決意した。



1953年に 南海に 入社した 関西さんは、駅の トイレ掃除から はじまり、運転士、車掌、駅員、関連会社の 役員などを 歴任。複数の フェリー会社の たてなおしにも てを かした。


そんな 経験と 手腕が、水間鉄道の かぶを かいとった グルメ杵屋(きねや)に 評価された。「水間鉄道は 整理するしか ない」と 主張する 債権者を 説得。借金の ほぼ 全額を 帳けしに して もらい、会社更生法に よる 一からの でなおしに 成功した。2005年、事業管財人補佐に なり、翌年に 社長就任を 無報酬で ひきうけた。


経営効率化の ためには ふるい システムを みなおす 開発部門の 強化が 重要だった。だが、外部から 専門家を まねくと 人件費が たかく つく。関西さんは、長女で エンジニアの 佳子さん(45才)を さそった。


2005年に 入社した 佳子さんは 「スルッとKANSAIネットワーク」への 参加を きめた 実績などが みとめられ、ちちの あとを ついで ことし 5月、社長に 就任した。自動列車停止装置の 導入、クリスマス列車や おおみそかの 深夜運行を 発案。職員と いっしょに 駅まえの 放置自転車の 撤去作業にも あせを ながす。


当初は 鉄道経営に 興味が なく、2年間だけ てつだう つもりだった。だが、いつの まにか 夢中に なっとった。「まよったり よわきに なったり すると、『経営を 安定させ、利益追求だけで なく 沿線の 文化を つたえ そだてる 鉄道に しよう』と いう ちちの ことばを 自分に いいきかせる。まだ 経営安定化が 優先だけど、地域の よさを 発信できる 鉄道に して いくのが わたしの ゆめです」




水間駅から あるいて 約 15分。渓流に かかる はしを わたると、水間寺が あった。708年、高僧 行基(ぎょうき)が ちかくの たきで 金の 観音像を さずかったのが 起源と つたえられる。


水間地区には、行基が 奈良の みやこから つれて きた 僧たちの 子孫と される ひとたちが おる。「座中(ざなか)」と よばれ、この いえいえの 男性は かぞえ 60才に なると 得度して 寺僧とな り、水間寺を 管理して きた。住職への 権力集中を ふせぎ、地域で てらを ささえる 全国でも めずらしい 制度。いま、108才を 筆頭に 58人の 寺僧が おる。


かつて 水間鉄道で 通勤しとった もと高校教諭の 山本昌さん(62才)も 寺僧の ひとり。最近、鉄道再建の 苦労ばなしを ひとづてに きいた。「鉄道も てらも きびしい 時代に なったけれど、この 土地の よさは、寺僧制度を 維持して きた ひとびとの むすびつきの つよさ。その 財産を もう 一度 みつめ、みんなで ちからを あわせて いきたいですね」


(文・山内深紗子)




鉄っちゃんの ききかじり〈最初期がたの 自動改札機〉

水間鉄道貝塚駅と 水間駅では、磁気乗車券に 対応した 最初期がたの 自動改札機が いまも つかわれとる。


この 自動改札機は 近鉄と 立石電機(現オムロン)が 共同開発し、1966年に 近鉄大阪阿部野橋駅で 試験導入。翌年 3月に 阪急 北千里駅で 営業運用が はじまり、近畿の 私鉄へ 一気に ひろまった。関東で 本格的に 普及したのは 1990年代だ。


なぜ 関西で 導入が はやかったのか? 「あたらしものずきと 商魂たくましい ところが 研究に ちからを そそいだ 理由なのかも しれません」と オムロンの 担当者。水間鉄道に ある 自動改札機は、1980年ごろに 南海電鉄が 導入した ものを 1989年に ゆずりうけた。オムロンに よると、オムロン社製の 最初期がたが 現役で 活躍しとるのは 全国で ここだけ。性能は 現在の ものと かわらんが、ICカード対応の 「PiTaPa(ピタパ)」導入に ともない、来年 なつごろまでに 撤去される 予定と いう。




探索コース

三ケ山口(みかやまぐち)駅 ちかくには、貝塚出身の 江戸時代の 天文学者、岩橋善兵衛 ゆかりの しなを 展示する 善兵衛ランドが あり、高性能の 望遠鏡で 天体観測も たのしめる。水間寺では 1月 2、3日、得度する まえの 座中の 男性が もちを つく 「水間千本搗(せんぼんづき)餅つき」が ある。日曜には 水間鉄道の 車内に 自転車を もちこむ ことが できる。電話(072−433−4709)で 予約が 必要。




(さんこう)