「愛電と碧海電鉄」 - 『あんじょう西尾の歴史』から

『あんじょう西尾の歴史』 - 表紙 1190-900

わが名鉄西尾線のしんあんじょう西尾間を開業したのが愛知電鉄のこがいしゃ碧海電鉄になるだけど、しらべてみてもなかなか情報がないなあっておもっとったところ、あんじょうし西尾町内会が発行した『あんじょう西尾の歴史』って本に記述があるのを発見した。貴重な資料でありここに紹介する。

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あんじょう西尾の歴史

あんじょうし西尾町内会

愛電と碧海電鉄

その后、1923年4月、愛知電気鉄道株式会社が、有松裏から知立まで電車をとおした。同年6月には西岡崎(現岡崎公園前/菅生川の手前)まで延長し、このときに今村の駅が開設された。今村駅は現在の名鉄新安城駅である。同じ年の8月には東岡崎駅まで開通し、神宮前・東岡崎間が全通した。「愛電」の名で親しまれたこの電車は、三河鉄道より后に開設されたために、知立においては線路敷きを高くして三河線の上をとおすこととなった。そのなごりは今も残っておって、名鉄本線は知立のところで急な坂を上って降りることになっておる。

愛知電気鉄道株式会社はこれより先、愛電から幡豆郡西尾町への鉄道を計画しておった。1922年10月、愛電の社長藍川清成は矢作町大字宇頭の民家にこの地方の有力者を集めて、新しい鉄道会社設立の計画を発表し、協力を要請した。当初の計画は宇頭から安城・桜井・米津を経て西尾に至るものだったが、株式の出資者が思うように集まらず、延び延びになっておったときに関東大震災(1923年9月)が起こり、計画は進まんかった。この地方の地主など有力者が鉄道建設に消極的だったのは、幻に終わった信三鉄道株式会社の前例があったからだった。資本金は75万円とし、1株50円の株を1万5,000株発行を予定しておって、6割を愛電がもつから4割を沿線の住民が買って欲しいというのだった。桜井村は村内で2,000株の出資者を集めることとなっておったが、すすま ず、1株につき6円を村役場が補助することをきめた、と知られておる。

この会社は「碧海電気鉄道株式会社」という名で、1925年5月15日に設立された。計画路線を当初の企画と変えて、今村駅を起点とし、明治村大字米津(西尾市)まで11.6キロを翌1926年7月1日に開業した。途中の停留所は北安城・南安城・碧海古井・碧海堀内・碧海桜井・碧海米津とした。

安城駅は上下線がすれ違いできるもっとも大きい駅として、西洋館風の建築物を何人かの出資者の住む西尾・東尾の集落側に建築した。

開通すると、幡豆郡方面の人びとからの要求が強くて、西尾まで早急に建設する必要がでてきて、資本金を80万円に増資して、矢作川をわたる長くて立ちの高い鉄橋を設置、1928年8月5日、西尾・米津間2.5キロを開通させた。これによって、西尾鉄道とも連絡できて、西三河地方の物資と旅客を輸送する鉄道網ができあがった。米津・西尾間には停留所を二つ置き、その名は、中学校前と西尾口とした。

安城駅

『あんじょう西尾の歴史』=巻頭くちえ - 名鉄みなみあんじょうえき 1550-1190
△ 巻頭くちえのみなみあんじょうえきの写真

巻頭口絵におさめた南安城駅の写真は、踏切から駅を望むモノクロームの1955年8月に撮影されたものである。踏切は県道安城・幸田線、かつては安城幸田停車場線とよばれた幹線道路の踏切である。当時の地名でいうと栄町から朝日町をとおって、この踏切を渡り、西尾・東尾の集落のなかをとおり、矢作町大字河野から矢作川の美矢井橋を渡り、六ツ美村大字上青野から額田郡福岡町大字高須へ出て、額田郡幸田町に至る道である。現在この地点の鉄道(名鉄西尾線)は高架になっておる。

口絵写真には、プラットホームが2本みえる。右端にみえる電車は国鉄(現在のJR)安城駅まで行くもので、旧式小型の車が1両で往復しておった。乗り入れ駅の駅名は「新安城」とされておった。この路線は1944年の記録では貨物専用線となっておるが、撮影当時は旅客を満載して往復しておった。この線路敷は現在も一部は道路になってのこっておる。サンテラスの北辺りから北明治稲荷社の踏切にかけてカーブする道が現存するが、これがこの鉄道の線路が通っておった名残である。

口絵写真の左の洋館風の木造2階建が駅舎である(前頁の写真では右手)。2階には早朝一番電車の乗務員が宿泊できる施設だったのであろう。

その左端に駅の売店がみえる。郵便ポスト・乳母車「氷」の旗がみえる。新聞・タバコ『週刊朝日』『サンデー毎日』などの週刊誌のほか、駄菓子も売っておって、駅の利用者だけでなく、西尾や東尾の人々も利用しておった(口絵参照)。

『あんじょう西尾の歴史』 (250-251) みなみあんじょうえき構内 690-435
△ 当該ページ(251ページ)のみなみあんじょうえきの写真

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この資料からかくにんできたこと

  • しんあんじょうから分岐する西尾線だけど、当初の計画は宇頭から分岐する予定だった。
  • まぼろしにおわった信参鉄道のわるい前例があったり、開業すこしまえの1923年に関東大震災がおこったりして、沿線住民から出資者をつのるのに苦労した。
  • 中間駅のなかでみなみあんじょうがいきちがいのできるいちばんおおきなえきだった。
  • いまはにしがわがおもてになるみなみあんじょうだけど、さいしょの駅舎はひがしがわにつくられた。ほの駅舎は木造2階だての洋館だった。駅舎のとなりには売店があって、じもと西尾、東尾のひとたちもつかっとった。(※ ここにいう「西尾、東尾」の西尾は西尾市の西尾とはべつのあんじょうしあんじょうちょうのなかの西尾)

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『あんじょう西尾の歴史』原文
『あんじょう西尾の歴史』 (248-249) 1930-1460
249ページ、248ページ
『あんじょう西尾の歴史』 (250-251) 1945-1445
251ページ、250ページ
『あんじょう西尾の歴史』 (252-253) 1990-1460
253ページ、252ページ