あんじょうのまちをつくったおとこ岡田菊次郎が晩年をすごしたうちが、岡菊苑っていうなまえの施設になって市民交流のばとして活用されてきた。ところでこの2023年3月15日でみせじまいすることになったってきいて、わかれをおしんできた。
みせのまえ、歩道にめんして説明がき。
安城町長岡田菊次郎本宅・店舗
- 岡田菊次郎(おかだきくじろう/1867~1962)は、安城村戸崎(現安城市安城町)に、覚兵衛の長男として生まれました。父は穀屋(こくや)「安覚(あんかく)」を営み、1891年に東海道線安城駅ができると駅前に移転します。蒸気機関による精米所を持つなど碧海郡(へっかいぐん)きっての穀屋となり、1917にこの建物を建てました。
- 菊次郎は、10代から自由民権運動家内藤魯一(ないとうろいち)に傾倒するなど、政治に目覚めていきます。1892年に26才で村議会議員となり、以后、助役、町長、県議会議員、明治用水普通水利組合の役員、戦后は明治用水土地改良区初代理事長として、地域の発展のために奔走しました。大正時代には政友会に加わり、県政、国政ともつながって活動しております。
- 彼の業績は、愛知県立農林学校(現県立安城農林高等学校)と愛知県立農事試験場の誘致、碧海郡役所や警察署、明治用水普通水利組合事務所の移転に成功し、安城を碧海郡の中心にしたことです。そして碧海郡農会と安城町農会を作ることで農業を育て、町立高等女学校(后に県立となり現県立安城高等学校)や安城農業図書館を設立し、丸碧(碧海郡購買販売利用組合連合会・JA系統組織の前身)による更生病院(現安城更生病院)開院時には土地を無償貸与するなど、「日本デンマ ーク」と呼ばれた総合的地域振興活動を行政面から支えました。さらに安城町商工会を作り、銀行や製糸工場、ガス会社を誘致し、安城駅を中心に道路を放射状に整備するなど、産業発展と現在の市街地の産みの親ともなりました。
- また、明治用水の運営では、用悪水路を整備して水田での水の再利用を図り、「水を使う者は自ら水をつくれ」と造林事業も進めました。
- 彼の頌徳碑(しょうとくひ)には、「功名を求めず、郷土を愛する」(明治用水土地改良区前の銅像)、「岡菊水聖(おかきくみずのひじり)」(豊田市水源公園の石碑)と刻まれ、今日にその功績を伝えております。
- 写真
- 1946年10月21日、昭和天皇(左)の全国巡幸の際、石川喜平が使用したとされる測量具を説明する岡田菊次郎(右)
いりぐちからみせにはいったどまのかべにくわしい説明がき。
あんじょうのまちをつくったおとこ岡田菊次郎
- 岡田菊次郎は、1867年に、安城村(あんじょうむら)戸崎(とさき)に、米穀商を営んどった覚兵衛の長男として生まれました。
- 東海道線用地の測量への従事がきっかけで、1888年から役場の仕事をするようになり、翌年には役場の書記となりました。安城駅の駅名が「知立」駅になりそうになった時には、「安城」駅という名前にする為に奔走したということです。
- 帝国議会開設前后から、立憲自由党に属し、「三河の板垣退助」といわれた内藤魯一の政治活動を応援し、板垣退助らとも交流をもっておりました。
- 1892年には村会議員になり、以后町会議員・郡会議員・県会議員を長年にわたって務めました。
- 1900年には、当時の村長らが反対するなか、愛知県立農林学校の安城への誘致を強力に推進し、成功させました。この 一件で村長が辞職し、菊次郎が村長に就任しました。
- 1906年、安城村は安城町になりますが、菊次郎は1946年までに、安城町長を6回も務めております。
- 菊次郎の功績は、農林学校の例のように、施設の誘致や道路整備などを次々と成し遂げたことです。警察署や碧海郡役所の移転は、生涯でもっとも骨が折れたと菊次郎は后年話しておりました。町長時代に手がけた町道は100路線近くにもなり、県道は10数本もありました。当時、安城の道路網は、ずばぬけて充実しておりました。
- ほかにも、明治用水関係では、1914年に知立より明治用水事務所を移転させ、矢作川から用水へ水を取り入れる頭首エの完成に尽力し、矢作川上流域の水源確保する為、山林経営を推進しました。「水を使う者は自ら水をつくれ」という菊次郎の言葉は現代にも生きる先見性のあるものでした。1926年には、明治用水と枝下用水の合併を実現し、戦后の1952年には、明治用水土地改良区理事長となり、新しい頭首工の完成に尽力しました。
- この他、追田悪水等の改修工事をおこない治水につとめました。
- 農業関係団体の安城農会会長等の要職もかねとったことから愛知県立種鶏場の設立等にも尽力しております。
- このような菊次郎の取り組みは、安城発展の原動力となりました。
- 「日本のデンマーク」と呼ばれたころの安城の繁栄は、このようなインフラ整備に支えられておりました。
- また、農業の発展ばかりではなく、工業の発展にもつとめ、紡績業の内外綿や愛三製糸など多数の工場を安城に誘致しました。
- 1939年には、内外綿工場敷地を埋め立てる際に必要な土砂を採取した跡地を池とし、その周囲に弘法八十八体を建立し、1941年には、この池の端に太平寺を建立しました。
- 社会事業にも力を入れ、1926年に方面事業助成会が出来ると、その会長を務め、1928年から十数年にわたって、毎年、農繁期に託児所を開設しました。
- この農繁期託児所は、方面委員のみならず、寺院をはじめ、町内各団体、安城女学校(現在の安城高等学校)、職業女学校(現在の安城学園高等学校)の生徒達の協力のもとに運営され、県下でもとりわけ素晴らしいと評価されるものでした。
- 1936年には、町民の要望に応え、常設の安城保育園を開設し、初代園長となりました。
- このように、安城のまちを創るために活躍してきた岡田菊次郎が晩年を過ごしたのが、長男の政一の家、今回公開される「岡菊苑」です。この家は、政一が結婚した折りに菊次郎の父の覚兵衛が孫の為に二反の土地を与え、建てたものです。政一は覚兵衛からのれん分けしてもらい米穀商を営んでおりましたが、戦時中に米が統制になると農機具の商いをはじめました。いろいろな農機具を販売しておりましたが、なかでも縄をなう機械は大ヒット商品だったそうです。
- この家の二階と茶室、庭は、東本願寺の「御門跡様」が安城を訪れた際の宿舎とするために建て増しされたもので、地位ある僧侶を迎えるにふさわしい調度を備えたものとなっております。
- 安城のまちの人々に『岡菊さん』と親しみをこめて呼ばれとった菊次郎は、1962年9月3日、数え96才の長寿を全うし、「岡菊苑」の離れで亡くなりました。
- その前年には、長寿を祝う大相撲興行が、石原一郎、石原勝一氏を勧進元として安城公園にて開催され、2日間で3万5千人もの人々で賑わったということです。当時の番付表が「岡菊苑」に残されております。
- 顧みれば愛知県の中央部に位置する安城は、その昔は安城ケ原とよばれた何もない荒野で、恵まれん所でありました。そこに明治用水の開さくと東海道線開通というまたとない時代に菊次郎は生を受けました。ここ安城を碧海郡一のまちとしようと大志を抱いて、たくさんの仕事を成し遂げた生涯でした。安城駅、警察署、農林学校、郡役所、農事試験場、道路網の整備、各種産業の育成、そして明治用水の基盤など9割は菊次郎の仕事であり、慶応、明治、大正、昭和と日本の激動の時代に活躍し、今の安城のまちを築いたと言われております。
- 誰にも愛された『岡菊さん』は1962年数え96才で死去。今は銅像(明治用水正門前)とともに、隣の太平寺の墓地で静かにこの先の安城を見守っております。
- 【参考資料】
- 広報あんじょう 2014.6.15 「安城の偉人 (2) 岡田菊次郎 安城町長」
- 吉地昌一編『岡田菊次郎伝』(1954年)
- 吉地昌一『日本一農村建設物語 - 岡田菊次郎の生涯』(1956年)
- 【協力・監修】
- 安城市歴史博物館
- 岡田誠一郎
おくのざしきに岡田菊次郎の肖像画。
わたりろうかをわたったとこに茶室。
みせばんのおねえさんとあれこれはなしをして岡菊苑をあとにする。
〔2023年3月ふつか訪問〕