2020年6月ふつか、岡崎は六ツ美(むつみ)地区中島(なかじま)にある悠紀のさと(ゆきのさと)を見学してきた。2016年9月22日にはじめておとずれてから、こんかいでなんかいめかの見学になる。悠紀のさとは、大正天皇即位大嘗祭(だいじょうさい)の悠紀斎田(ゆきさいでん)に中島がえらばれたことをほまれとして、ほのときの記憶をいまにつたえる資料館だ。地域のひとたちのふれあいのばとしてもつかえるようになっとる。ちなみに、六ツ美地区は碧海郡(へっかいぐん)に属し、中島が悠紀斎田にえらばれたことは、碧海郡のほまれでもあった。碧海郡の範囲は、「あんじょう、刈谷、知立、碧南、高浜のそれぞれ全域と、岡崎の矢作地区と六ツ美地区、豊田の高岡地区と上郷地区、西尾の米津地区」で、悠紀斎田が決定した1914年に郡役所が知立からあんじょうにうつっとる。以下、こんかいの見学のようすを紹介する。
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名鉄東部交通バスの藤田医大岡崎医療センターいきバスとすれちがって、中島のまちにはいる。バスは、西尾と岡崎をむすぶバスだ。
きれいに区画された住宅街をにしにぬけて、県道幸田石井線ぞいの永楽にはいって、ひるごはん。たのんだのはえびチャーハンと冷麺のセット。ごちそうさまでした。
悠紀斎田
はらごしらえができたとこで、悠紀のさとにとうちゃく。さいしょに、悠紀斎田をかくにん。まあはいたうえがおわっとる。ことしはしんがたコロナウイルスさわぎでおたうえまつりが中止になっちゃっただけど、ちゃんとたうえがしてあることに安心。
供納
展示室にはいって、大正天皇即位大嘗祭のときの供納(きょうのう)の資料をよんでみる。
供納(きょうのう)
供納米をおさめるための行列は、1915年10月15日に八幡社をしゅっぱつしました。行列はあんじょう警察署長を先導とし、万歳旗、供納米きふだ、大田主唐櫃(おおたぬしからびつ)、斎田委員長、そのほか各委員らとつづき、陸路であんじょうへむかいました。翌日、あんじょうえき発の列車には、特注の車両が準備され、供納車として外部周囲にはしめなわがめぐらされ、内部の一室はしらきづくりとし、かべ、ゆかにしろぬのをはりめぐらせたうえに台がもうけられ唐櫃を安置しました。
〔写真:美矢井橋(みやいばし)をわたる行列〕
いや、おもしろい。からびつにはいった供納米は、おみこし行列で、はるばる矢作川をこえて郡役所のあるあんじょうまではこばれてから、列車にのってっただ。
おみこし行列が矢作川をわたったのが美矢井橋。まんだきばしのころのことだ。このはしが、六ツ美地区とあんじょうとのさかいになる。おみこし行列を先導したのがあんじょう警察署長だったってのもおもしろい。ちなみに、わが幼少のころもこのはしはきばしだったおぼえがある。
まあ1枚供納の資料があって、よんでみる。
供納(きょうのう)
1915年10月16日の午前6時8分にあんじょうえきをしゅっぱつした列車は午后0時16分に京都駅にとうちゃくし、京都府警察官を先導に京都御所清所(きよどころ)から所定のばしょにとうちゃくしました。斎庫(さいこ)まえにて供納式がおこなわれ、供納米の点検后、斎庫におさめられたことにより無事、供納が完了しました。
〔写真:京都御所への供納〕
列車ではこばれたのは翌日のことになるだけど、あんじょうから京都まで6時間もかかったとは。まあ、だいじなもんをはこんどるだで、通常にもまして安全運転でいったのかもしれんだけどね。
三河一向一揆
悠紀斎田とは直接の関係はないけど、三河一向一揆の資料もあって、よんでみる。
西三河全域でくりひろげられた一向一揆(いっこういっき)です。この一揆の発端は、不入特権(ふにゅうとっけん)を主張する矢作川周辺に所在する土呂本宗寺(とろほんしゅうじ)や三河三か寺〔あんじょうの本証寺(ほんしょうじ)、岡崎の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)〕と教団の利権(寺内町の建設や流通機構の掌握)を解体して三河国統一をめざす松平元康(のちの徳川家康)との対立がふかまり、守護使(しゅごし)不入の権が侵害されたことに端を発して、本証寺第10代空誓(くうせい)(蓮如のまご)が檄(げき)をとばし、門徒を招集して菅沼氏のとりでをしゅうげきしたことにはじまります。
うん、守護不入の権をめぐって、三河三か寺と家康があらそったって、歴史の教科書でもならったよね。文章のとなりに地図もあって、この地域にいくつかあるおてらのそれぞれが、一揆がただったのか家康がただったのかが、いろわけしてしめしてある。また、おてらめぐりをするときには、このことをあたまにいれてみてみるのもおもしろいだらあな。ほいから、地図にはおとしてないけど、一揆のはじまりとなるたたかいがあったっていう、菅沼氏のとりでにもいってみたいな。
たうえ
悠紀斎田のはなしにもどって、おたうえおどりの映像をみてみる。大正天皇即位大嘗祭のときのたうえ式以来、まいとし、六ツ美地区のさおとめがおたうえおどりをおどって、たうえをしとるだ。昭和前期のおたうえおどりをみてみる。
2015年のおたうえおどりもみてみる。悠紀斎田100周年のときのおたうえおどりだ。
ほか、おたうえおどりとはべつにおたおうぎまつりってのも、この六ツ美地区を中心とした地域ではおこなわれとるそうで、ほの映像もみてみる。館内に、おたおうぎまつりのまいひめを募集するちらしがはりだしてあることもかくにん。あんまり一般公開しとるまつりじゃないみたいだけど、機会があったらいっかいみてみたい。
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見学をおえて、名鉄東部交通バスの西尾いきバスとすれちがって、中島のまちをあとにする。
(さんこう)
- すれちがいにみた名鉄東部交通バスのバス - 2020年6月ふつか、かようび、平日
- 悠紀斎田と西尾鉄道 - あきひこゆめてつどう|2016/09/22
- 1900年、全国で耕地整理法が施行され、中島村(なかじまむら)ではいちはやくこれを実施。1911年、西尾と岡崎をむすぶ西尾鉄道が開通し、中島村にもえきができる。1915年、大正天皇即位にともなう大嘗祭(だいじょうさい)につかう新米を生産する悠紀斎田(ゆきさいでん)にえらばれた中島村のたんぼで、おたうえ式がおこなわれる。全国からあつまってくるおたうえ式参観者の輸送に西尾鉄道はだいかつやく。
- 以上がきょう2016年9月22日にかくにんできたことがらなだけど、資料のある岡崎市悠紀の里(おかざきしゆきのさと)や西尾鉄道廃線あとに案内してくださった、中島村、いまは岡崎市中島町におすまいのわがフェースブックともだち甲さんには感謝もうしあげたい。
- 岡崎市地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里
- 碧海郡 - Wikipedia