まえまえからいっかいのってみたいなっておもっとった川向(かわむき)いきバスにのってきた。東岡崎始発で1日2本しかないバスだ。いったさきで天空の神社こと御桑神社(おくわじんじゃ)をみて、かえりに奥殿陣屋(おくとのじんや)や大樹寺(だいじゅうじ)にたちよってきた。
◇ ◇
東岡崎は4番バスのりばにはいってきた川向(かわむき)いきバスにのりこむ。
8時40分、しゅっぱつ。乗客は5人。
えきまえどおりをにしにいく。
明大寺本町(みょうだいじほんまち)交差点を右折。電車どおりをきたにいく。
菅生川(すごうがわ)にかかる殿橋(とのばし)をわたる。
はしのうえ、ひだり45度に松平の本拠岡崎城をみる。
はしをわたってとおりのなまえが本町どおりにかわってすぐに殿橋(とのばし)バス停に停車。ひとりのってきて、乗客は6人に。
岡崎のめぬきどおり康生どおりをよこぎって、康生町(こうせいちょう)バス停に停車。いっきに4人おりて、乗客はふたりに。
能見通1丁目南(のみどおりいっちょうめみなみ)交差点をすぎてみちのひだりわきに信濃門いしぶみ。ここが岡崎城信濃門があったとこで、こっからとおりのなまえも足助街道にかわる。足助から飯田につながる街道だ。
神明社前(しんめいしゃまえ)バス停を通過。
伊賀橋(いがばし)をわたる。はしのきたづめからちょこっとにしにいったとこに松平のうじがみ伊賀八幡宮がある。
伊賀町交差点をすぎて伊賀町(いがちょう)バス停に停車。ひとりおりて、乗客はひとりに。いや、まんだ岡崎市内線バスとの重複区間なのにこんなに乗客がすくないのかっておもうけど、まあ、あさの時間帯の郊外方面へのバスだでこんなもんかともおもう。
井田(いだ)バス停を通過。
鴨田町所屋敷(かもだちょうところやしき)交差点で西三河南部環状道路をよこぎる。
大樹寺(だいじゅうじ)バス停を通過。こっからひだりにはいってったとこに松平の菩提寺大樹寺(だいじゅうじ)がある。
東岡崎いきバスとすれちがって岩津百々(いわづどうど)バス停に停車。ひとりのってきて、乗客はふたりに。いや、こんなとこからのってくるとはおもわんかった。
JR岡崎駅いきバスとすれちがって東蔵前(ひがしくらまえ)バス停を通過。
岩津(いわづ)バス停を通過。
岩津天神口(いわづてんじんぐち)バス停に停車。岩津百々でのったひとがおりて、また乗客はひとりに。
ふたまたをみぎにはいって、足助街道からはなれる。岩津団地(いわづだんち)バス停を通過。ななし信号交差点を左折。市営岩津住宅(しえいいわづじゅうたく)バス停を通過。足助街道をよこぎって、おごそみなみ交差点を右折。国道248号線をきたにいく。
すぐにおごそバス停を通過。
すぐに足助街道と合流。いわづおごそ交差点でまた足助街道からはなれる。この交差点を足助街道右折、わが川向いきバスは直進。
仁木(にっき)交差点を右折してすぐに三菱自動車EV技術センターバス停を通過。
岩脇(いわわき)バス停を通過して、みぎからきた足助街道と合流。
北斗台口交差点を右折。足助街道からはなれる。
すぐに北斗台口(ほくとだいぐち)バス停を通過。
北斗台団地にはいっていって、3号公園前バス停を通過。
北斗台会館前バス停も通過。わざわざよりみちして北斗台団地にはいってきただけど、ほのかいがなかった。
もどっていって北斗台口交差点を右折。また足助街道をきたにいく。
すぐに北斗台口バス停を通過。2回めの北斗台口バス停を通過。
細川(ほそかわ)バス停に停車。ひとりのってきて、乗客はふたりに。いや、ここでのってきたか。
巴川(ともえがわ)にむかってくだっていって、門立(もだち)バス停を通過。岡崎電気軌道の終着駅門立駅のあったとこだ。このさき足助までの鉄道布設免許をもっとったけど、ついに実現せんかった。
細川町上屋敷(ほそかわちょうかみやしき)交差点をとおってJR岡崎駅いきバスとすれちがい。まんだ岡崎市内線バスとの重複区間だ。
ひだりに巴川をそっていく。たけやぶにさえぎられてかわもはみえん。
桑原町門立(くわばらちょうもだち)交差点を右折して、足助街道からはなれる。
すぐに桑原(くわばら)バス停を通過。ここまでが岡崎市内線バスとの重複区間になる。
奥殿陣屋(おくとのじんや)交差点を左折。こっから川向いきバス単独区間になる。
奥殿(おくとの)バス停を通過。大給の里道(おぎゅうのさとみち)ってなまえのついたみちをいく。大給ってまあちょっときたになるだけど、なんで大給でもないとこをとおるこのみちが大給の里道なのかふしぎだ。
下宮石(しもみやいし)バス停に停車。細川でのったひとがおりて、またまた乗客はひとりに。いや、でも川向いきバス単独区間でも乗車があることがかくにんできた。
ひだりに郡界川(ぐんかいがわ)がそってきて、上流にむかっていく。郡界川のこっちが額田郡(ぬかたぐん)で、むこうが加茂郡(かもぐん)。
桂野(かつらの)バス停を通過。
中宮石(なかみやいし)バス停を通過。
宮石公民館前バス停を通過。
宮石郵便局前バス停を通過。
上宮石(かみみやいし)バス停を通過。だいぶやまんなかにはいってきた。
伊勢木(いせぎ)バス停を通過。
大給の里道が郡界川につきあたるかたちで川向バス停にとうちゃく。9時30分の定刻どおり。
のってきたバスが郡界川にかかる川向橋(かわむきばし)をわたっていくのをみおくり。ここが終点のはずなのにどこにいっちゃうのか。かわむこうのほうがにぎやかだ。
バス停のみぎうえに天空の神社こと御鍬神社(おくわじんじゃ)。
いちのとりいをくぐってのぼっていく。いままでみあげたり対岸からながめたりするだけだったこの御鍬神社にのぼってみることにした。
てっぺんにのぼって、にのとりいのおくに3連の社殿。どれも神明づくりひらいり銅板ぶき、水平ちぎかつおぎつきの社殿だ。
したにおりて、川向橋をわたっていってみる。
さっきみおくったバスが転回場におるのを発見。どこにいっちゃったわけでもなかった。ここで転回してかえりのバスになるだ。
とおりをすすんで、みぎに川床商店。むかしながらのざっかやだ。
ひだり、斜面のうえに法興寺(ほうこうじ)。まえはこの境内から御鍬神社をみた。
さて、川向バス停にもどってかえりのバス。しゅっぱつ時刻は9時50分。かえりのバスも1日2本しかなくて、こいつをにがすとつぎは14時10分になっちゃって、ほれはつらい。転回場からでてきた東岡崎いきバスにのる。乗客はおれひとり。あさの時間帯の都心方面へのバスだでなんにんかのるのかっておもっとっただけど、おれだけだった。
宮石郵便局前バス停を通過。
宮石公民館前バス停を通過。
下宮石バス停に停車。ひとりのってきて、乗客はふたりに。いや、川向いきバス単独区間で乗車があった。
9時55分、奥殿バス停にとうちゃく。バスをおりる。奥殿陣屋にたちよってみることにした。岡崎市内線バスの終点が奥殿陣屋バス停で、ほこまでいきゃあなんぼんかバスがある。
みなみにあるいて奥殿陣屋にとうちゃく。陣屋のたてもんを見物。
資料展示室にはいって、おおっ! 大給と奥殿のつながりがわかった。18松平のひとつ大給松平(おぎゅうまつだいら)の分家のひとつが奥殿藩になるだ。家康の関東移封(いほう)にしたがってもとの地をさった大給松平だけど、5代真乗(さねのり)の二男真次(さねつぐ)がもとの地にちかいここ奥殿に知行地をえて、奥殿藩がはじまっただ。いや、これまでなんかいもきとる奥殿陣屋だけど、大給松平からつづくもんだったとはきょうのきょうはじめてしった。さっきバスでとおった大給の里道も、ここ奥殿が大給松平からつづく歴史があることをしめすためになづけたもんであるにちがいない。
奥殿陣屋バス停10時17分のJR岡崎駅いきバスにのる。乗客はおれひとり。
細川バス停でひとりのってきて、乗客はふたりに。岩脇バス停でまたひとりのってきて、乗客は3人に。
三菱自動車EV技術センターバス停ではなんと3人ものってきて、乗客は6人に。
市営岩津住宅バス停でひとりのってきて、乗客は7人に。ここで調整停車。
岩津団地バス停でひとりのってきて、乗客は8人に。
足助いきバスとすれちがって岩津バス停に停車。ひとりおりて、乗客は7人に。
東蔵前バス停でひとりのってきて、乗客は8人に。青木橋バス停でひとりのってきて、乗客は9人に。岩津百々バス停でひとりおりて、ひとりのってくる。百々住宅バス停でひとりのってきて、乗客は10人に。午前中の都心方面へのバスらしく、ちょこっとづつ乗客がふえていく。
10時37分の定刻から3分おくれで大樹寺(だいじゅうじ)バス停にとうちゃく。ここでバスをおりる。さいしょっからの予定じゃなかったけど、松平の菩提寺大樹寺(だいじゅうじ)をみにいくことにする。
とりあえずひとやすみしたくて足助街道をみなみにあるいて喫茶店をさがす。
みつけれんままに鴨田町所屋敷交差点を右折。西三河南部環状道路をにしにさかをくだっていって、鴨田町深田交差点の東南かどにみつけたファミリーマート岡崎鴨田東店でひとやすみ。ついに喫茶店はみつけれんくてコンビニでひとやすみすることにした。
さて、鴨田町深田交差点からきたに生活道路にはいっていく。このさきに大樹寺があるはずだ。
さかをのぼっていくとちゅう、左右に常夜灯。
すすんで、ひだりに慈光寺。
- すすんで、ひだりに真如寺(しんにょじ)。山門てまえに薬師如来座像の説明がきがあるだけど、ほれがおもしろい。寺伝によるとあんじょうの薬師堂からきたもんだってかいてある。さらに、真如寺が桑子にあったときには本尊だって、真如寺が大樹寺に吸収されて客仏になっただらあってかいてある。ほいで、像のなかに梵字の音をかりてこんな文章がかいてあるっていう。
- 「da yi jhi yu jhi|ma tu jhi|cam ci u|ku ba(va) go mu ta|cin ni yo jhi|pon jhom」
「ダイジユジ|マツジ|サンシウ|クワゴムラ|シンニヨジ|ポンジョン」
「大樹寺|末寺|三州|桑子村|真如寺|本尊」
みぎに殿神八幡社。やしろはあるだけど、はりがみに「鴨田天満宮に合祀された」ってかいてある。
みちのつきあたりにとりいがみえてくる。
つきあたりは鴨田天満宮のいちのとりいだった。大樹寺はこのちょっとにしにあることをかくにん。
いちのとりいからおくにあるいて生活道路をよこぎったとこに、銅板ぶきやねしゅぬりばしらのにのとりい。
すすんで本社殿。
鴨田天満宮いちのとりいからにしに大樹寺山門に移動。こっからみなみに総門のなかに岡崎城がみえるっていうだけど、ほんとかどうかたしかめてみる。
あーっ! みえたーっ! ほんとに総門のなかに岡崎城がみえる。大樹寺小学校の校庭をへだてて、いまは大樹寺小学校のみなみもんになっとる大樹寺総門のなかに岡崎城がみえる。いままでなんかいもきとる大樹寺だけど、はじめてみるこの光景のすばらしいこと。いや、ほれにしても、大樹寺はあんじょう松平の時代に菩提寺としてできたもんで、当時は岡崎城のおの字もなかったはずなのになんでこんな位置関係にあるのかふしぎなことだ。
ふりかえって山門。いや、おどろくべき巨大な山門だ。徳川3代家光がたてたもんで、2階へは、1階左右にある階段室からあがっていくかたちになっとる。圧倒される威圧感のなか、2階のきしたのしゅがきの社額にはしたしみもかんじる。
山門をくぐって境内にはいったとこで売店にたちより。かんとに3本とごへいもちのひるめし。かんとにって関東煮のことだ。ほういやあ、こどものころおでんってことばはなくてかんとにっていっとった。大樹寺はこんな平日でもおおぜいの観光客でにぎわっとって、おれがひるめしをくっとるあいだも、なんにんかがごへいもちをかいにくる。みせのおんな主人ともはなしをするなか、「大樹寺にも松潤がきたんですよ~」ってうれしそうにおしえてくれる。いや、岡崎はどうする家康でおおもりあがりだ。ほいで、松潤がみれたかきくと、「おおぜいのとりまきにかこまれてみれんかったけどオーラがつたわってきただけで大満足です」とのこたえ。
- さて、本堂てまえにあった由緒がきで大樹寺の歴史のべんきょう。
- 1475年、松平4代親忠が勢誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)を開基(かいき)として建立。
- 松平7代清康の建立した多宝塔はくにの重要文化財に指定されとる。
- 今川義元が桶狭間のたたかいにやぶれたことで、大高城から大樹寺ににげかえった松平9代家康は先祖のはかのまえで自害せえってしただけど、大樹寺住職登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)がこれをとどめ「厭離穢土欣求浄土」のおしえをといた。このあと家康をおう野武士の一隊が大樹寺をかこんだだけど、「厭離穢土欣求浄土」のはたをたてて、大力無双の祖洞和尚(そどうおしょう)が門のかんぬきをひきぬいて奮戦して、敵を退散させた。家康はこのかんぬきを「開運のかんぬき」としてとうとんで、いまもこの大樹寺に安置されとる。
- 松平8代のはかはにしがわ墓地のきたがわにある。
- 本堂と大方丈(おおほうじょう)は1855年に焼失。1857年、13代将軍家定のときに再建。大方丈の障壁画は、土佐派の画家冷泉為恭(れいぜいためちか)がえがいた。
- 山門と鐘楼は徳川3代将軍家光が建立。山門楼上の「大樹寺」の社額は后奈良天皇の宸筆(しんぴつ)。
- 岡崎城天守閣と大樹寺の総門、山門、本堂が南北一直線上にある。
うん、どこにもあんじょうとはかいてないけど、あんじょう松平の初代城主になった松平4代親忠が菩提寺として大樹寺をつくっただ。松平が本拠をあんじょうから岡崎にうつすのは松平7代清康のとき。
本堂にあがるのをあとにして、にしがわ墓地のみなみがわに1535年に清康がたてた多宝塔を発見。かやぶきで、したが角づつ、うえがまるづつのしぶい二重の塔だ。
墓地をいちばんきたがわまであるいて松平8代のはかを発見。みぎから氏親(うじちか)以下松平8代のはかがあって、さいごに家康のはかがある。
いよいよ本堂にあがる。一角がみやげもんうりばになっとって、うりこのおねえさんに、由緒がきにかいてあったかんぬきはどこに展示してあるのかきくと、よくぞきいてくれたってかんじで、拝観料をはらったさきの大方丈にあるっておしえてくれる。おまけに、どうする家康で大樹寺のたたかいのばめんがあったときには岡崎市民はおおいにもりあがったっておしえてくれる。
拝観料をはらって本堂からおくにはいって大方丈を見学。たの字にむっつのまがあって、おくのみっつのまのうちまんなかのまが将軍がやすむ上段のま。にしのまが将軍に接見するためのひかえのまである下段のま。てまえのみっつのまが大名がはいるまで、それぞれの大名のかくづけのたかいひくいによって、にしから順にあるつるのま、ぼたんのま、てっせんのまのいずれかにはいる。
大方丈のさいごにおくのひがしにあるかんぬきのまをみたあと、わたりろうかをとおって本堂ひがしの位牌堂に移動。松平8代のうちおもな人物の生涯についてべんきょう。
- 4代親忠(ちかただ)
- 初代あんじょう城主。1475年、大樹寺を創建。1501年、63才でなくなる。
- 7代清康(きよやす)
- 13才で家督相続。あんじょうから岡崎に移転。1535年、森山くずれによりなくなる。
いや、徳川初代将軍家康は松平9代にあたるだけど、ちち広忠の代には今川の家来になっとっただ。ほれがよくぞもりかえして徳川初代将軍にまでのぼりつめたもんだ。
総門からきたに山門と本堂をみとおして、こっちも一直線上にあることをかくにん。
〔2023年2月28日、かようび、平日〕