よみがえる浄瑠璃姫ものがたり - 岡崎むかし館

きのうのブログ記事にかいたとおり、きのうはりぶらに矢作の歴史のべんきょうをしにいって、浄瑠璃姫(じょうるりひめ)に関する展示をみてきただけど、りぶらんなかの岡崎むかし館のいりぐちのへんに展示されとった内容はつぎのとおり。

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2019.9.30 よみがえる浄瑠璃姫伝承 - 岡崎むかし館 1360-2000
よみがえる浄瑠璃姫ものがたり
矢作宿(やはぎじゅく)のあるじ、兼高長者(かねたかちょうじゃ)のもとに奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたずねるとちゅうの源義経がたちよりました。長者のむすめ浄瑠璃のことのねにひかれ、名笛「うすずみ」であわせたのがきっかけで愛がめばえました。しかし、たびだったあと、義経をおもい、いくすえをなげきかなしんだひめは、菅生川にみをなげてしまいました。これが、悲恋の浄瑠璃姫ものがたりです。
このものがたりは芸能の浄瑠璃の原型っていわれ、座頭(ざとう)たちによってふしをつけられ世間にひろまっていきました。ほのふしまわしでかたるべつのものがたりも浄瑠璃あるいは浄瑠璃節っていわれ、文禄(1593~1596)、慶長(1596~1615)のころには、人形浄瑠璃と合体したことでさらに流行したってつたえられております。
徳川家康もこのものがたりの主人公の浄瑠璃姫同様に鳳来寺薬師如来(峰薬師)のもうしごっていわれ、家康の出生にあたって十二神将(じゅうにしんしょう)の一体がすがたをけし、死后ほの一体があらわれたとの伝説があります。ほのためか、徳川家光鳳来寺を重視し、東照宮を造営しとるのもこの伝説をうらづけとるってかんがえれます。
浄瑠璃姫ものがたりが、后世までかたりつがれた背景としては、矢作宿の繁栄、兼高長者の存在がおおきくえいきょうしとるってかんがえれます。
矢作宿繁栄の要素としては、東海道矢作川のわたしばの権益があったようです。渡船の管理やにもつの運搬にあたり、わたしばには宿泊の施設がもうけられ、いちがたち、おおくのひとがいききしとったようすが想像されます。鎌倉時代にも文人、武将たちが矢作川をわたって往来しました。この往来が浄瑠璃姫伝説を現代までかたりつたえる要素であり、背景になったってかんがえれます。

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う~ん、平家を壇ノ浦にほろぼしたあの義経だ。ほの義経がまんだおとなになってまもないころ、京から平泉にくだるとちゅうで矢作宿にしばらくとどまって、現地のむすめ浄瑠璃姫とこいなかになっただ。義経は16才。浄瑠璃姫は14才。ふたりはわかい。義経もまんだおんなをしったばっかりのころだったか。もえあがったこいもみのることはなくて、はかなんだ浄瑠璃姫はさいご菅生川にみをなげる。

まあこんなものがたりだけど、ものがたりの舞台が岡崎じゃなくて矢作だってとこに注目だ。ものがたりは1174年のことで、まんだ岡崎はかげもかたちもなくて、矢作こそが矢作川流域の代表的なまちだっただ。矢作川のわたしばがあって、宿泊施設があって、いちばがあって、文人や武将もふくめておおくのひとがいきかっとったっていう。当時のにぎわいをみてみたいもんだ。

ほいから、このものがたりが芸能としての浄瑠璃の原型になったってのもおもしろい。矢作って古典芸能のふるさとだっただ。

展示には、矢作をふくむ岡崎市内にある浄瑠璃姫ゆかりのおてらなんかもしめされとった。また順番にたずねていくよ。

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岡崎市域に存在する浄瑠璃姫ゆかりのおもな旧跡を紹介します。

  • 誓願寺
    兼高長者が浄瑠璃姫の遺体を埋葬し、十王堂を建立しました。ひめの菩提寺
  • 成就院
    瑠璃山って号す。浄瑠璃姫入水の遺跡。
  • 浄瑠璃
    成就院のうらてで、ひめがみをなげたふち。
  • 安心院
    わきぼとけとして安置されとる十一面観音座像は、はじめ義経公念持仏(ねんじぶつ)でしたけど、浄瑠璃姫にゆずられ、ひめの死后、このてらにおさめられたってつたえられます。
  • 六本榎光明院浄瑠璃寺
    たからもんとして、義経ならびに浄瑠璃姫画像二幅があります。
  • 滝山寺
    たからもんとして、浄瑠璃姫のこと(琴)って称するもんがあります。
    2019.9.30 浄瑠璃姫ゆかりの旧跡 - 岡崎むかし館 1600-1350

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(さんこう)