浄瑠璃姫をみたあと両町と伝馬どおりをあるく - 2019年10月ここのか

2019.10.9 (24) 「に」のとなり「両町より伝馬町角」 2000-1500

2019年10月ここのか、岡崎市美術博物館浄瑠璃姫と義経のえをみにいって、かえりのバスをとちゅうでおりて、東海道岡崎城下は両町と伝馬どおりをあるいてきた。

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さいしょは電車。ふるい8時17分のしんあんじょういきふつうにのる。車両は6011編成2両6000系かんつうがた。いつもみかけるかおもあって、ふるいからのったのは30人。あんじょう平野をきたにすすんで、みなみあんじょうで3526編成4両3500系きんぎょばちの吉良吉田いき急行といきちがい。ぐいーんってひだりにまがってにしむきにかわって、8時26分、しんあんじょうは2番のりばにとうちゃく。1番のりばにまっとった吉良吉田いきふつうがすぐにでていく。

2019.10.9 (1) しんあんじょう - 豊橋いき特急 2000-1500 *1

ホームにしはしの地下通路をとおって5番のりばに移動。しんあんじょう8時28分の豊橋いき特急にのる。車両は、まえが2208編成6両2200系こおろぎ、うしろが3103編成2両3100系きんぎょばちの連結で、しんがりの3203号にのっていく。

2019.10.9 (2) 豊橋いき特急 - 岡崎城 1600-1150

西三河平野をひがしにすすんで、矢作川をわたる。岡崎公園前を通過。菅生川をわたるとこで、ひだりに岡崎城をみる。岡崎城徳川家康のうまれたしろとしてなだかいけど、東海道27まがりをふくめて岡崎城下の整備は田中吉政によってなされた。豊臣がわの武将だった田中吉政岡崎城主をつとめた、1590年から1600年までのことだ。8時34分、東岡崎にとうちゃく。下車。

2019.10.9 (4) 東岡崎 - 中央総合公園いきバス 1390-1050

バスにのりかえ。東岡崎8時40分の中央総合公園いきバスにのるだけど、始発が東岡崎じゃなくて美合駅なだけになかなかやってこん。まちにまってやっときて、しゅっぱつできたのはじつに12分おくれ。いや、基幹路線なのにこれはまずいな。市街地南部方面のひとたちをのりかえなしで、市街地北部からさらに東郊をこえたやまんなかにある市民病院や美術博物館、総合運動公園までいけるようにしてあるってことはわかるだけど、東岡崎周辺にすむひとたちや東岡崎で電車からのりかえるひとたちにはたいへん不都合だ。

東岡崎からのった12人とのりつづけとった6人の、あわせて18人の乗客をのせてバスはすすむ。明大寺町(みょうだいじちょう)バス停を通過。

2019.10.9 (5) 中央総合公園いきバス - 殿橋をわたる 1800-1350

殿橋で菅生川をきたにわたって、岡崎城下にはいる。みぎにみえるのは建設中の桜城橋(さくらのしろばし)。はしをわたってすぐの殿橋バス停で3人おりて、乗客は15人に。ひがしに康生どおりにはいってすぐの、康生町バス停でひとりおりて、乗客は14人に。篭田公園前バス停を通過。こっから伝馬どおりになる。

2019.10.9 (6) 中央総合公園いきバス - 伝馬通1丁目交差点(みぎ) 1600-1200

伝馬町1丁目交差点のとこで、岡崎城下27まがり「ほ」のみちしるべをみぎにみる。この交差点のみなみからきた東海道がここでひがしにまがって、江戸方面につながる。つぎの伝馬交差点のとこの中伝馬バス停でひとりおりて、ひとりのってくる。市役所口バス停でひとりおりて、乗客は13人に。徳王神社前バス停を通過するとこで、みぎに岡崎城下27まがり「に」のみちしるべを発見。さっきの「ほ」のみちしるべの、まあひとつ江戸よりにあるみちしるべだ。中町バス停を通過。

2019.10.9 (7) 中央総合公園いきバス - 岡崎げんき館前バス停 1590-1200

岡崎げんき館前バス停で4人おりて、乗客は9人に。保健施設だ。

岡崎城下をぬけて郊外にはいったとこで、西欠町(にしかけまち)バス停を通過。なんだいものバスとすれちがってすすむ。

2019.10.9 (8) 中央総合公園いきバス - 欠町交差点 1600-1200

欠町(かけまち)交差点を左折。

2019.10.9 (9) 中央総合公園いきバス - 東公園口バス停 1600-1200

きたにすすんで、東公園口バス停でふたりおりて、乗客は7人に。このバス停のとこからみぎに旧本多忠次邸がみえる。

根石小学校南東交差点を右折。ひがしにすすんでいく。すぐにあった東公園北バス停を通過。

2019.10.9 (10) 中央総合公園いきバス - 福祉の村バス停 1600-1200

福祉の村バス停で3人おりて、乗客は4人に。バスは東公園のきたがわのやまんなかをひがしにすすんどる。岡崎市民病院北交差点を右折。みなみにすすんですぐの市民病院口バス停を通過。いや、こんなまわりに人家もないやまんなかのバス停でのりおりするひとなんかおるわけないだ。

2019.10.9 (11) 中央総合公園いきバス - 岡崎市民病院 2000-1500

岡崎市民病院西交差点を左折して岡崎市民病院にはいっていく。市民病院バス停で3人おりて、乗客はおれひとりに。いや、ほれにしてもこんなやまんなかに市民病院をつくるって、まったく感心せんわ。

2019.10.9 (12) 中央総合公園いきバス - バス停間 1600-1200

岡崎市民病院北交差点までもどって、右折。また、やまんなかをひがしにすすむ。弓道場前バス停を通過。

2019.10.9 (13) 中央総合公園いきバス - 美術博物館バス停 1600-1200

美術博物館バス停を通過して、すぐに右折。

2019.10.9 (14) 中央総合公園いきバス - バス停間 1600-1200

みなみにすすんだとこで、はんたいバスとすれちがい。

2019.10.9 (15) 中央総合公園いきバス - 中央総合公園バス停 1710-1350

すぐに右折。中央総合公園のしきちにはいって、岡崎市民球場の東北にある中央総合公園バス停にとうちゃく。下車。定刻の9時9分より9分おくれ。ここまでのってきたバスは、バス停となりのバス駐車場に移動して、おりかえししゅっぱつの時刻をまつ。

さて、岡崎美術博物館だ。さっきの美術博物館バス停でなんでおりんかったっておもうかもしれんけど、こっからいってもあんまりちがわんだ。

きたむきにある岡崎市民球場の正面からきたに、はしにつながっていく。はしのうえからにしに岡崎のまちがみえる。あるいはまっとひろい範囲がみえとるのか。すぐひだりてまえは体育館と武道館。りょうほうともしかくいよせむねのたてもんだ。はしのむこうでT字に東西のみちにあたる。はばのひろい歩行者専用のみちだ。おんなのひとがいぬをつれて、にしのほうにあるいていく。にしのほうはくだりざかだ。また、おとこのひとがいぬをつれて、ひがしのほうにあるいていく。こんなやまんなかだけど、ぱらぱらさんぽするひとがおる。

2019.10.9 (17) 中央総合公園 - ふれあい橋 2000-1500

おれも東西のみちをひがしにいく。すぐにふれあい橋があって、ほのむこうが岡崎市美術博物館のしきちなだ。このはしが、さっきはんたいバスとすれちがったとこでくぐったはしだ。ふれあい橋をわたったすぐのとこは、おくにながい長方形の公園になっとる。みぎがやま、ひだりがたにっていうとこで、この部分だけたいらかにして公園にしてあるだ。中央みぎよりにポプラなみきがのびていく。ひだりよりは、てまえのほうにちゃいろいレンガの煙突風の異形鉄柱がなんぼんかたっとって、おくのほうにたかい支柱にのった風車が1列にのびていっとる。みぎ斜面にしろい物体がひとつ。

長方形の公園をすぎて、みぎおくに美術博物館のいりぐち部分がすがたをあらわす。てまえに人工のしかくいいけがふたつあって、ほのまんなかをとおっていりぐちにいけるようになっとる。美術博物館のたてもんはどこにあるのか。いりぐち部分からみなみがわがくだり斜面になっとって、ほの斜面にそってたてもんがあるだ。斜面のしたには恩賜池っていういけがある。むかってひだりがわにはしがかかっとって、おじいさんがむこうぎしからわたってくる。つづいて、おばあさんがふたりわたってくる。むこうぎしはきのしげったこやまになっとって、中腹とうえのほうにあずまやがある。はしのてまえのほうに地図かんばんがたっとって、みてみると、このあたりからひがし一帯は「健康のもり散策路」になっとって、みずべのこみちとかいろんなこみちがある。このへんはほういうとこなだ。ただ、やじるしかんばんにあった、いしの野外ミュージアム恩賜苑が地図かんばんになかったのは不親切だ。

10時になるのをまって、みなみ斜面の中腹にあるいりぐちから美術博物館にはいる。みぎがわにうけつけがあって、制服をきたおねえさんがふたりおる。いや、豪勢なもんだ。ちなみに、うえのいりぐち部分からは、エスカレーターでおりてここにこれるようになっとる。おねえさんに「浄瑠璃姫と義経のえののった、『再発見!岡崎の文化財』っていう図録がここにあるってきいて、きた」っていうと、「うしろになんさつかほんがならんでたってますけど、ほんなかにありますよ」っておしえてくれる。

2019.10.9 (21) 源義経画像と浄瑠璃姫画像(浄瑠璃寺) 1390-1240

あった。岡崎城下の浄瑠璃寺がもっとった浄瑠璃姫と義経のえが図録にのっとる。ふたりの悲恋ものがたりは1100年代のこと。時代をくだって1600年代にかかれたっておもわれる、このふたりのえが浄瑠璃寺につたわっとって、1782年に浄瑠璃姫600回忌をやったときに表装しなおされたのがこれだっていう。いや、600回忌までやったってことにびっくり。あと、この図録に、岡崎は宗徧流(そうへんりゅう)茶道がさかんだってかいてあっただけど、ほういやあ矢作宿をあるいたときに矢作一区に茶道といけばなをおしえる松声庵ってのがあっただけど、ほこの茶道がこの流派だったことをおもいだした。

すぐにかえりのバス。中央総合公園バス停10時47分の東岡崎経由美合駅いきバスにのる。乗客はおれひとり。市民病院バス停で7人のってきて、乗客は8人に。欠町交差点を右折してすぐのとこの東公園口バス停で、ひとりおりて6人のってきて、乗客は13人に。6人のうち4人はスーツすがたのわかいおんなだ。西欠町(にしかけまち)で、ひとりおりてふたりのってきて、乗客は14人に。岡崎城下にはいって、岡崎げんき館前バス停で3人のってきて、乗客は17人に。午前中の時間帯の都心方向のバスで、のるひとはおおい。中町バス停でふたりおりて、乗客は15人に。

2019.10.9 (22) 徳王神社前バス停 - 美合駅いきバス 2000-1500

11時2分の定刻より4分おくれて徳王神社前バス停にとうちゃく。下車。ここでおりたのはおれひとり。いきに、このバス停のとこに岡崎城下27まがり「に」のみちしるべがあるのをバスの車窓にみとって、おりてみることにしただ。みちしるべはひがしから「いろは」の順番にあるだけど、これまでみてきたのは「ほ」から「を」までのやっつだけだって、こんかい新規開拓になる。

「に」のみちしるべの位置は、ひがし蓬莱町1丁目交差点とにし伝馬通5丁目交差点の中間、みなみT字交差点の西南かど。バス停は東南かどだった。こっからにしに「ほ」のみちしるべにつながって、さらに篭田総門につながる。みなみに「は」のみちしるべにつながる。

2019.10.9 (24) 「に」のとなり「両町より伝馬町角」 2000-1500

となりに石柱のいしぶみもある。おもてに「岡崎城下二十七曲、両町より伝馬町角」ってかいてあって、うらに「1590年岡崎城田中吉政は城下の東海道を27まがりにし、防備堅固をはかった。ここに標識をたて郷土再見の一翼とする。1981年3月、岡崎中央ライオンズクラブ建之、葵水書」ってかいてある。うん、田中吉政こそが、いまにつながる岡崎のまちをつくった人物なだ。

2019.10.9 (27) 両町常夜灯(みなみから) 1510-1890 2019.10.9 (30) 両町常夜灯 - むかしの写真 1020-1760

「は」のみちしるべにいくべくみなみにあるきかけたとこで、ひだりに両町の常夜灯を発見。両町公民館のしきちの西北かどだ。いや、常夜灯っていっても、うえにいしのたまねぎがのっとるだけの石塔で、ちいさなお堂にはいっとる。ちょうど両町公民館にやってきた和服美女があって、つかまえてきいてみる。もともとはまっとずーっとおおきかったもんを、うえのほうだけのこしてお堂にいれただっていう。ほういうことか。由緒がきをよんでみると、「火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜灯として1790年にたてられたもで、1945年7月はつか未明のくうしゅうで災禍にあったあといたみもひどくなって、1972年10月22日に、宝珠(ほうじゅ)の部分をのこしてとりこわした。岡崎ではもっともふるい由緒ある常夜灯だ」ってかいてある。いしのたまねぎは宝珠だっただ。お堂のなかをようのぞいてみると、宝珠のうしろにとりこわしまえの常夜灯の写真がなんまいかある。いや、公民館のたてもんよりせのたかいりっぱなもんだ。まえに、篭田総門かど常夜灯もみただけど、むかしはこういう常夜灯がよるの岡崎城下をてらしとっただ。

和服美女には、ほかにもはなしをきいた。両町ってのはちいさなまちであること。伝馬どおりからきたに岡崎天満宮にいくみちのりょうがわみみせがたちならんどって、ほいで両町っていうなまえになったこと。かたがわだけにみせがあるとこもあって、ほれは片町っていうだげな。岡崎天満宮のおまつりが先月2019年9月23日、にじゅうよっかにあったこと。

2019.10.9 (32) 岡崎城下27まがりのみちしるべ - 「は」 2000-1500

和服美女にお礼をいって、みなみにちょこっといったとこの十字路に「は」のみちしるべを発見。「に」のみちしるべにおなじくとなりに石柱のいしぶみもあって、おんなじ文言がかいてある。

2019.10.9 (34) 両町2丁目交差点からひがしをみる 2000-1500

「は」のみちしるべからひがしに650メートルのとこに、つぎの「ろ」のみちしるべがあるってことで、ちょこっとひがしの両町2丁目交差点までいって、むこうをみてみる。いや、なんか、よりむかしのふぜいのあるとおりだな。こっからひがしは、あらためて「ろ」と「い」のみちしるべをみにいくときのたのしみにとっとくことにする。

「に」のみちしるべまでもどって、こんどははんたいに伝馬どおりをにしにすすむ。

2019.10.9 (35) 岡崎信用金庫伝馬支店と市役所口バス停 1970-1500

伝馬通5丁目交差点をすぎて、伝馬通4丁目交差点をすぎて、市役所口バス停のとこをとおっていく。おんなじとこにまちバスのバス停もあるだけど、十王公園北バス停っていうなまえになっとる。はんたいがわの市役所口バス停のとこに岡崎信用金庫天馬支店。ほのみぎどなりにガールズバーっていうみせ。きになるな。

2019.10.9 (36) 乙川屋 - うなぎどんぶり(なみ) 1200-800

伝馬4丁目西交差点をすぎたとこで、ひだりに乙川屋(おとがわや)っていううなぎやさんを発見。はいる。うなぎふたきれ半のうなぎどんぶりなみを注文。いや~、ばりっとしてうまい。からめのたれもいい。これこそがうなぎだ。みせんなかののぼりばたに一色産うなぎってかいてある。みせの駐車場にプレジデントもとまっとる人気のみせだった。

2019.10.9 (37) 伝馬町 - 備前屋のまえのふたつのいしぶみ 2000-1500

また、にしにすすんで、伝馬交差点。てまえに中伝馬バス停。交差点を名鉄バスやまちバスがいっぱいいきかう。むこうがわの交差点西南かどに創業天明2年をうたう備前屋藤右衛門。あわゆきで有名なあの備前屋だ。みせのまえの歩道にふたつのいしぶみを発見。ひだりが「お茶つぼ道中」のいしぶみで、みぎが「岡崎宿伝馬歴史プロムナード」のいしぶみ。「お茶つぼ道中」のいしぶみのほうには説明がきもあって、よんでみる。
「1632年に宇治茶を将軍家に献上することにはじまったお茶つぼ道中。家光は将軍の権威をしめすため、まいとし江戸京都間を往復する一行の茶つぼに、はなはだしく権威をもたせた。しゅくばでは100人の人足をだすさだめがあり、おおいときにはお茶つぼ奉行をはじめ100人以上の行列をもてなさにゃいかんくて負担もおおきく、この茶つぼは各しゅくばからおおいにおそれられとった。行程のつごうで岡崎伝馬宿ではこの一行はごちそうやしきでやすんだ。ごちそうやしきには岡崎藩の家老がでむき、丁重にもてなしたとの記録がのこっとる」。
なるほど、お茶つぼ道中ってほういうことだったのか。このはなしからしゅくばまちの苦労がわかる。「岡崎宿伝馬歴史プロムナード」ってのは、この伝馬交差点からにしに伝馬通1丁目交差点までのかんをこういうふうに指定したもんで、りょうがわ歩道に「お茶つぼ道中」のいしぶみをはじめとしていろんなものがたりのいしぶみをおいて、まちあるきをするひとたちをたのしませるようにしてあるだ。

2019.10.9 (41) 備前屋 - 三河葵 970-1380
2019.10.9 (44) 三河葵 640-650 2019.10.9 (42) 備前屋 - 古代葵餅 720-700

いしぶみをかくにんしたとこで、備前屋のみせにはいる。おんなの店員さんがひとりおって、あの「びぜんや~の~あわゆき~♪」の宣伝で有名な備前屋ですよねっていうと、よろこんでくれる。創業天明2年ってかいてあるけど西暦なんなんかってきくと、すぐに1782年ですってこたえてくれる。ほういやあ、午前中にみた浄瑠璃姫のえも、表装しなおされたのが1782年だった。両町の常夜灯ができたのも1790年だでちかい。みせんなかはひろくて、いっぱいわがしがある。なかで、葵武将隊のえのはいった三河葵と、わらびもち風の古代葵餅をみやげにかう。おまけに手風琴のしらべを1個もらって、ほかに岡崎宿伝馬歴史プロムナードイラストマップと伝馬町家順間口書をもらう。

また、にしにすすんで、ひだりに永田屋精肉問屋。ふるいつくりの商家なだけど、かんばんがおもしろい。みどりのしたじに金文字でおおきく屋号がかいてあって、ほの下段にちいさなしかくいわくがむっつならんどって、ほこにやっぱり金文字で「電」「話」「七」「七」「壹」「番」ってかいてある。いまもこの771の電話番号をつかっとるのか。いや、いましらべてみたら0564-21-0771だった。あっぱれ。

岡崎宿伝馬歴史プロムナードの終点である、伝馬町1丁目交差点のとこまでいって、岡崎城下27まがり「ほ」のみちしるべをみて、このひのたびのおわりとする。


(さんこう)

*1:2208編成6両2200系こおろぎ+3103編成2両3100系きんぎょばち