こないだいった碧南駅のたてものがいつできたのかをしらべてみたことから、三河線がことし2014年2月いつかで100周年をむかえたことをしった。碧南駅の開業も三河線の開業も、おんなじ1914年2月いつかだっただ。
ついでに、三河線の歴史をヰキペディアでみてみた。
三河線をひいたのが三河鉄道だってことはしっとったけど、さいしょの開業は刈谷から碧南までだっただ。三河線ってのは、刈谷で国鉄につながって名古屋にでる線だっただ。
- 1915年10月28日
- 1920年7月5日
- 知立-土橋間が開業。
- 1920年8月31日
- 土橋-上挙母間が開業。
- 1920年11月1日
- 1922年1月17日
- 挙母-越戸間が開業。
- 1924年10月31日
- 越戸-猿投間が開業。
みなみが開通したあとは、刈谷からちょっとづつきたにのばしていったわけか。知立、土橋、上挙母、豊田市、越戸とちょこっとづつすすんで、開業10年后の1924年には猿投までいっただ。
- 1926年 2月 5日
- 大浜港-猿投間が電化。
おおっ! 1926年になって電化したのか。てっきりさいしょから電車がはしっとったのかとおもっとったけど、ちがっただ。さいしょは蒸気機関車だっただね。ちなみに、わが西尾線はさいしょから電車がはしっとっただけど、開業はこの三河鉄道が電化したのとおんなじ1926年のことだ。
- 1926年9月1日
- 大浜港-神谷(のちの松木島)間が開業。
こんどは、みなみがわをのばしとる。松木島のむこうは、まあはい西尾線とつながる吉良吉田だ。神谷っていうなまえにしたのは、1922年になくなった三河鉄道の社長のなまえ神谷伝兵衛からとったものだ。神谷伝兵衛のうまれが松木島なだ。はっきりと記憶しとるだけど、めちゃめちゃりっぱな駅舎だったよ。
きたがわはまた開業区間をのばして、ついに西中金まで開業。
みなみがわも吉良吉田まで開業区間をのばして、これで盛時の三河線全線が開通。 1928年のことだ。
うん、名鉄にかわったのは太平洋戦争直前か。このへんから名古屋本線と三河線の接続にちからがはいっていくだ。
- 1941年8月1日
- 1943年2月1日
- 1948年5月16日
- 1950年
- 1958年 6月 27日
- 西中金-足助間の免許失効、延伸計画を断念。
これで足助までのばすゆめがたたれただね。足助までいっとや、紅葉の季節の香嵐渓見物も渋滞しらずでいけたのにな。ちなみに、筆者のうまれた1年あとのできごとだ。
このときになって、はじめていまの知立駅ができた。いまの知立駅から南北に分岐するっていう三河線の形態がこのとき完成したわけだ。
当時は三河線が一部複線化したってきいてショックをうけたもんさ。わが西尾線のほうがとっくのむかしから複線化用地があるってのに、ねっから複線化する気配もないのに、あとからはなしがもちあがった三河線のほうが一部とはいえ、複線化が実現しちゃっただもんね。ただ、まっとあたらしい時期のことかとおもっとただけど、1976年、1980年っていうと、まあ完成からだいぶたつのか。
きたがわの猿投-西中金間が1985年に、みなみがわの碧南-吉良吉田間が1990年に、それぞれレールバスになっちゃっただ。電車じゃなくなったこの時点でしんだともいえる。2004年の廃止直前のときにりょうほうとものりにいったけど、かなしいっていうよりおこれるってかんじだったよ。
かなしい話題ばっかじゃなかった。1時間に3本から1時間に4本へと、列車本数をふやしとっただ。刈谷と豊田っていう、ふたつのおおきな工業都市を沿線にもっとるつよみだね。ついさいきんみたちゅうにちの記事でも、名鉄のなかで三河線だけが乗客数のばしとるって、かいてあったよ。
- 1998年11月
- 2000年12月
- 越戸駅周辺が高架化。
- 2002年
- 前川河川改修工事により小垣江駅北300メートルを複線化。
- 2004年 4月 1日
- 西中金-猿投間と碧南-吉良吉田間が廃止。
南北のりょうはしの区間を廃止ってどういうことだ。かなしすぎて、いうことばもない。