2021年1月じゅうよっか、豊田市近代の産業とくらし発見館で開催中の挙母駅開業100年展をみてきた。挙母駅(ころもえき)は、いまの名鉄三河線豊田市駅。
(とうちゃく)
〔挙母駅の開業〕
〔三河鉄道の創立〕
〔神谷伝兵衛と挙母、越戸への延伸〕
(きゅうけい)
〔三河線(山線)各駅〕
〔産品、きっぷ、地図、足助〕
(かえり)
[さんこう]
◇ ◇
とうちゃく
あさ9時すぎ、豊田市近代の産業とくらし発見館にとうちゃく。愛知県蚕業とりしまりじょ第9支所としてつかわれとったすてきなたてもんだ。
なかにはいって、いちばんおくの第1展示室からみていく。
挙母駅の開業
さいしょに「挙母駅の開業」。この展覧会で紹介するのは、三河線のうち知立駅をさかいに、猿投方面の山地へむかうきたがわの山線。豊田市域に鉄道がとおったのが、三河線の前身三河鉄道が、三河知立から挙母まで開通した1920年のこと。
挙母駅の開業は、1920年11月ついたち。前日には祝賀会。えきまえにはまんだくわばたけがひろがっとるっていう状態だった。
祝賀会の案内状。祝賀会の会長をつとめたのは挙母町長寺内悠磨で、文面に「当地方ニ於ケル産業発達ニ資スルコト多大ナリ」ってかいてある。
用地買収にあたっての集金簿。一区のとりまとめをした鈴木弥太郎は、むすこが岡崎中学まで徒歩通学しとったこともあって、鉄道の必要性をつよくかんじとったっていう。
1926年の挙母駅。倉庫に磨砂(みがきずな)のたわらがつみあげられとる。ホームのおくに若宮八幡社のくすのきがみえる。
挙母駅利用状況。1日平均乗降客数で1920年に106人だったもんが、1940年には3,033人にまでのびとる。貨物は発送貨物で1920年に739トンだったもんが、1940年には20,209トンにまでのびとる。
1955年ごろの挙母駅。かわらやねの駅舎に、やまおれやねのくるまよせがついとるのがしぶいな。
2020年の豊田市駅。挙母駅からなまえをかえて、高架になったいまのえきだ。
三河鉄道の創立
つぎに「三河鉄道の創立」。1910年、知立町から大浜町にいたる碧海軽便鉄道(へっかいけいべんてつどう)を鉄道院へ出願。1912年、創立総会をひらいて、社名を三河鉄道にあらため、軌間を1067ミリで建設することをきめる。さらに1912年、知立町から挙母町にいたる鉄道布設を計画した知挙軽便鉄道(ちきょけいべんてつどう)の免許権をゆずりうける。
1914年から1915年にかけて、三河知立から大浜まで開業。大浜はいまの碧南。第1弾として、碧南方面のうみにちかいみなみがわの海線が開業、蒸気機関車が客車や貨車をけんいんした。
三河鉄道『第3回~第10回報告』。第4回。1914年2月いつか、刈谷新大浜港間運輸営業開始。第6回。知立挙母間は着々工事。挙母越戸間は工事施工認可申請。第7回。刈谷駅以北知立間は院線こせんきょう架設のごとき一大難工事。知立大浜間竣工。第8回。ヨーロッパ戦乱。第9回。1916年8月31日、知立挙母間竣工期限延期および挙母越戸間着工期限延期。第10回。所有車両36両。
神谷伝兵衛と挙母、越戸への延伸
みっつめに「神谷伝兵衛と挙母、越戸への延伸」。1916年、初代神谷伝兵衛(かみやでんべえ)が、3代め社長に就任。会社発展のためには知立から挙母をへて越戸にいたる鉄道延長が急務ってかんがえて、1916年の臨時かぶぬし総会で125万円に増資する決議をえる。
信参鉄道(しんさんてつどう)が挫折した経験から、沿線町村が消極的だったなか、伝兵衛は熱心にかぶしきのひきうけを勧誘。若林、竹村両村民のはたらきかけにより、現在の経路に決定したとのこと。
1920年7月いつか、三河知立から土橋(つちはし)まで開通。同年8月31日、上挙母(うわごろも)まで開通。同年11月ついたちに挙母まで開通。さらに1922年1月、越戸まで開通。こいで伝兵衛が計画した全路線が完成。伝兵衛はこの3か月后になくなる。越戸延伸のねらいは、越戸鉱山の珪砂(けいしゃ)や木節粘土(きぶしねんど)などの輸送。珪砂はガラスの原料で、木節粘土は耐火レンガの原料。
初代神谷伝兵衛。幡豆郡(はずぐん)松木島村(まつきじまむら)、いまの西尾市一色町出身の実業家。浅草の神谷バーやワイン醸造所牛久シャトーの創設者。三河鉄道には、鉄道布設申請からとりしまりやくとしてたずさわり、1916年、三河鉄道の3代め社長に就任。みずからばくだいな資金を投じて経営再建をはたす。
1922年、篭川(かごがわ)鉄橋をいく汽車。梅坪から越戸にいく試運転列車で、B1号蒸気機関車が貨車と客車をけんいんしとる。
1923年、三河鉄道『第22回報告』。知立挙母間の建設費は78万円。車両保有台数は88両。1日平均旅客人員は2,621人。総会では、越戸から大浜まで電化することを決定。
豊田市域における明治期の私設鉄道布設計画路線略図。1889年の東海道線全線開業をきっかけとして全国的に私鉄建設のいごきが活発になる。豊田市域でも岡崎鉄道、濃三鉄道、三美鉄道、信尾鉄道、飯田電気鉄道、尾三鉄道、信参鉄道などおおくの計画がだされたけど、ほとんどの申請が不許可となる。ゆいつ信参鉄道だけが工事着手までこぎつけたけど、1916年に解散。
1925年、三河鉄道社債うりだしちらし。猿投大浜間から、きたは足助まで、みなみは蒲郡までの路線延長と、既存路線の電化のため、社債を発行。
1926年1月、猿投~大浜間の1500ボルト電化工事が完成した記念のえはがき。
「電化の三河鉄道」、「革命的発展」のことばにほこらしさがあらわれとる。また、あたらしく導入したクロスシートの電車を「夫婦式電車」ってなづけて、宣伝。このときの開業区間は猿投から大浜までだったけど、計画をみこして足助から蒲郡まで路線図にしるしてある。ただし、足助まではついに到達せずじまいにおわった。
ちなみに西三河の区域において、この1926年1月時点で電化をはたしとったのは、岡崎電気軌道と愛知電気鉄道の2社。1898年に開業した岡崎電気軌道は、1912年に岡崎市内線の岡崎~康生町間を電化。1923年に岡崎市内線を井田まで延伸。さらに1924年には郊外線として門立(もだち)まで延伸。岡崎~門立間が電化路線としてあった。愛知電気鉄道ははなから電車。神宮前から有松まできとった路線を、1923年に東岡崎まで延伸。富士松~東岡崎間が電化路線としてあった。1911年、都市間鉄道としていちはやく、岡崎~西尾間で開業した西尾鉄道は、まんだ非電化の軽便鉄道だった。
西中金(にしなかがね)開業と、足助(あすけ)延長中止。1924年10月、猿投まで開業。1925年、足助延長の起工式がおこなわれ、1927年8月に枝下(しだれ)まで開業。おんなじ1927年9月に三河広瀬まで開業。1928年1月に西中金まで開業。西中金から足助までは、とちゅうまで路盤も完成しとったけど、用地買収の難航や世界恐慌のえいきょうで工事は中断。
1930年、三河鉄道『第35回報告』。きたは西中金から、みなみは三河鳥羽まで開通したけど、乗客は期待したほど増加せんかった。「本期間ハ不況愈々(いよいよ)深刻化シ遂ニ前段ノ不成績ヲ見ルニ至リタルハ甚ダ遺憾トスル所ナリ」。
1932年当時の豊田市域鉄道網。鉄道の開通で、ひとびとの移動もべんりになった。三河線につづいて開通した岡崎線、のちの名鉄挙母線の存在はトヨタ自動車工場立地の要因にもなった。
三河鉄道は、岡崎電気軌道を合併。自社の三河線と岡崎電気軌道の郊外線をむすぶ新線を、上挙母から三河岩脇のあいだに建設。新線と岡崎電気軌道の郊外線をあわせて、岡崎線とする。これがのちの挙母線だ。いっぽう、競争あいての愛知電気鉄道は、こがいしゃの碧海電気鉄道により今村、いまのしんあんじょうからみなみに分岐して西尾にいたる新線を建設。また、西尾鉄道を合併。
電車駅ごとの1日平均乗降客数。1970年、1995年、2003年、2018年の各年でひろってある。全駅合計で1970年の40,025人から2018年の75,082人って、おおきくのびとる。とりわけ豊田市駅は、1979年に豊田線が開業したこともあって、1970年の14,172人から2018年の36,114人って、2.5倍にもなっとる。
きゅうけい
いったんきゅうけい。そとにでて、豊田市えきまえどおりをにしにあるく。きれいなとおりだ。ぽっぽ園があるのをかくにん。名鉄が保育所も運営しとるだ。きたらのまえをいく。にぎわいづくりのため豊田市がつくった、複合映画館を核とする商業施設だ。
豊田コモスクエア1階のプロントできゅうけい。えきまえまでいって、飛躍のめがみ像をみる。はだかのおんなのひとが人魚みたいにからだをかたげて、みぎてに、さきっぽにおおきなしろい電球のついたたいまつをかかげて、ひだりわきにたてごとをかかえとる。豊田市近代の産業とくらし発見館でもらった「ぶらコロモ」の地図にのっとってみにきただ。1960年からえきまえをみまもっとるだげなだけど、まわりにおおきなもんがいっぱいできてきちゃって、めだたんのがきのどく。ぶらコロモはまたの機会にぜひやってみたいな。
三河線(山線)各駅
豊田市近代の産業とくらし発見館にもどって、よっつめの「三河線山線各駅」から見学を再開。
2020年の三河知立駅。三河線創業当初の起点、ゼロキロポストがこのえきにある。ここを起点に碧南まで鉄道を布設し、豊田市方面もここを起点に布設した。
1991年の三河八橋駅。駅名の由来になった「八橋」は知立市にあるけど、所在地は豊田市花園町(はなぞのちょう)になる。当初、八橋地内にえきができる予定だったけど、利便線をこうりょして現在地になった。八橋は在原業平が「からころも」の和歌をよんだ地。1991年5月当時、土日だけはしる特急があった。
2020年の若林駅。現在は住宅地がひろがるえき周辺だけど、かつては農業がさかんな地域だった。こめやだいこんが出荷されて、肥料やまめかすが入荷した。1933年、えきまえに映画演劇興行場「若林座」ができたけど、1959年に閉館。
2020年の竹村駅。竹村はもともと「武士のひらいたむら」っていう意味で武郷っていわれとっただけど、ほの武が竹にかわって竹村になったっていう。若林駅から竹村駅をとおって土橋駅のてまえまで、田園風景のなかを逢妻男川(あいづまおがわ)にそって電車ははしる。昭和なかごろまでこめ、むぎ、だいこんが出荷され、肥料や飼料が入荷された。
1986年ごろの土橋駅。土橋駅には6本の線路があって、このえきが貨物駅だった歴史をつたえとる。磨砂、粘土、レンガ、かわら、だいこん、むぎ、鉄、、、って時代によってはこぶにもつはかわって、貨物とりあつかい廃止までおおくのひきこみ線が使用された。これらは現在、豊田線車両の留置線になっとる。
1955年ごろの上挙母駅。三河線のなかで、開業当時の駅舎がほのままつかわれとるゆいつのえきで、挙母線の分岐駅だった。1920年8月、上挙母駅開業直前に祝賀会が開催され、三河鉄道社長神谷伝兵衛の祝辞があった。
1959年11月の豊田市駅。挙母は、矢作川の水運を利用し、しろと挙母神社を拠点に形成された城下町だった。挙母駅の開業により、矢作川にかわってえきがまちの「げんかんぐち」になっていった。えきの開業とともに、挙母の繁華街はひがしからにしへのびはじめ、現在のえきまえどおりになった。
挙母駅から豊田市駅ってなまえがかわったのは1959年10月ついたちのこと。
1961年トヨビル竣工。1階にバスターミナル、地下にえきのかいさつがあった。竣工当初、愛知県下でもめずらしい、ショッピングセンターをかねそなえたえきとして注目された。
1986年ごろの梅坪駅。開業からしばらくは、篭川の砂利、貞宝の磨砂、藤岡の珪砂が出荷された。1967年、えき近隣で旭硝子、いまのAGCが操業を開始すると、入荷の主流はガラスの材料、素板になった。1977年に貨物営業は廃止。現在は、豊田線の分岐駅。
大正から昭和初期の越戸駅。昭和初期ごろまでは矢作川の砂利、昭和のおわりごろまで珪砂や木節粘土が出荷された。また、関東大震災后には、復興用の材木が大量にえきへあつめられて、東京へはこばれた。のづみされた材木のかわをはいで、炊事やふろのたきもんにもちかえるのが、こどもの日課だった時期もあっただげな。矢作川で採取した砂利はトロッコで越戸駅へはこび、貨物列車につみこんだ。
1935年の平戸橋駅。えき近郊の「平戸橋勘八峡」は、開業当初、ハイキングの好適地としてしられとった。昭和のはじめにえきまえどおりにうえたさくらが、戦后、みごろをむかえると、平戸橋駅におりる観光客で2両の電車は超満員になって、越戸駅からのさかをのぼりかねるほどだったっていう。
2代めの猿投駅。1932年、井上徳三郎が私財を投じて駅舎を改築。えきの設置は、井上農場を開墾した井上徳三郎の尽力による。徳三郎は三河鉄道のかぶぬしになるとともに、えきの用地を提供。開発を記念してえきの付近にすむひとや商売を希望するひとに、3年間地代無料で土地をかした。レンガ、珪砂、木節粘土、農産品などが出荷され、肥料、鉱石が入荷された。
1993年の駅舎改築のさいに発見された、2代め猿投駅のむなふだ。1932年11月むいか、井上徳三郎の寄贈により猿投駅舎がたてられたことをしめしとる。 開業時の駅舎は廃車になった客車を使用しとっただげな。
井上徳三郎。1867年から1936年。名古屋市うまれ。日露戦争后の好景気にきずいた資金を社会のためにつかいたいってかんがえて、「農業は、これこそくにのもと、これをそだてるべし」っていう信念のもと、明治すえ、猿投山麓の原野130町歩をかって、1912年から「井上農場」の建設に着手。井上農場は1936年には開墾面積100町歩、60戸300余人のあたらしい集落になった。
徳三郎は、猿投農学校、いまの猿投農林高校を建設するさいにおよそ2万3千平方メートルの土地を寄付するなど、三河鉄道の誘致とともにおおくの貢献をおこなって、現在の「井上町」発展のいしずえをきずいた。
1924年10月、猿投駅開通の祝辞。猿投駅のある「井上町」は、この地域を開墾した井上徳三郎のなまえに由来する。徳三郎は祝辞をつぎのようにむすんどる。
「鉄道の開通により、駅頭の乗客やにもつのいきかいがひいちにちとにぎやかになり、人家がふえ、地方産物の一大市場ができることは想像にかたくない。えきの開業は、交通の利便と農村振興の一助となることをしんじてうたがわん」
1987年ごろの三河御船駅。えきのちかくにある豊田市運動公園陸上競技場で高校野球の愛知県予選や豊田市のもよおしなどが開催されるとレールバスの通常運行では旅客輸送しきれんかった。ほこで、かかりいんを添乗させて3両運転にしたり、臨時列車を運転したりして対処したこともあっただげな。
猿投から西中金までの廃止区間は、晩年レールバスがはしっとった。がらがらおとをたてて、くろくてくっさいけむりをだしながらレールバスがはしる光景は、なみだなくしてはみとれんかった。
1966年の枝下駅。枝下駅は、木節粘土や珪砂のつみだしのためにつくられたえきで、山線でいちばん乗降客のすくないえきだった。ちかくにはこれらの資源の鉱脈があって、むかしっから農家が副業として採掘しとっただけど、三河鉄道が開業して、ますますさかんになった。ちかくの矢作川右岸には枝下用水旧頭首工がある。
写真ひだりの線路は、木節粘土のつみだしにつかわれたひきこみ線。
2020年の三河広瀬駅。矢作川がめのまえにひろがって、清流には広瀬やながある。やなが解禁される時期にはおおくの観光客がおとずれる。おもに珪砂、木節粘土を輸送するための貨物駅として利用された。駅舎、ホームは2007年登録有形文化財。
2019年2月の西中金駅。このえきが三河線の終着駅だっただけど、当初は終着駅として計画されとらんかって、ちいさな駅舎になっとる。駅舎、ホームは2007年登録有形文化財。現在、土日の午前中にはカフェが開店するなど、旧三河広瀬駅とともに、地域のひとびとのいこいのばになっとる。
産品、きっぷ、地図、足助
産品
みがきずなと亜炭。写真ひだりは、昭和期の粉石鹸入みがき粉。宮口町(みやぐちちょう)で採掘された磨砂(みがきずな)でつくられた製品。写真みぎは亜炭。
「三州産/天然珪砂/みがき砂」は、挙母の磨砂を出荷するための商標で、ひだりうえに「三州産」ってかいてある。卸用(おろしよう)の18キロいりかみぶくろにはりつけられた。
磨砂は、天然の研磨剤として清掃などに利用された。挙母の磨砂は、粒子がこまかいって評判がよくて、明治から昭和期にかけて全国に出荷された。亜炭は、石炭の代用品としてつかわれた。磨砂、亜炭ともに、およそ3万年まえのおんたけさんの噴火によって生成された。
いや、みかきずなも亜炭もおんたけさんのたまもんだってのがおもしろい。わが西三河はおんたけさんのすそのにあるだ。
珪砂(けいしゃ)と木節粘土(きぶしねんど)。ひだりに展示してあるのが、板ガラス用、茶ビン用、白ビン用の珪砂(けいしゃ)。梅坪から広瀬にかけて採掘された。花崗岩(かこうがん)のなかの石英(せきえい)が風化分解されて1か所にたまったできたもん。ガラスの原料として、梅坪駅、越戸駅、猿投駅、三河広瀬駅から全国に出荷された。
みぎに展示してあるのが木節粘土(きぶしねんど)。枝下町(しだれちょう)で採掘された原鉱(げんこう)をみずでかきまぜて精製して、比重のおもたい珪砂(けいしゃ)をとりのぞいて、ひぼしによって乾燥させた粘土。耐火物の原料として利用された。越戸駅、猿投駅、枝下駅、三河広瀬駅から出荷され、九州の八幡製鉄所へもはこばれた。
きっぷ
1930年、知立から平戸橋までの団体わりびき券。さくらの季節に、小学校の遠足で平戸橋にいったみたい。
玉津浦海水浴わりびきまえうりけん。三河広瀬から玉津浦まで海水浴にいくのに、わりびきまえうりけんがあっただ。三河広瀬も玉津浦もいまはない。
挙母から土橋までの定期券。鳥居美代子さん、22才。有効期間は、1944年11月じゅうよっかから1945年2月13日まで。
土橋から新名古屋までの定期券。丹羽八十さん、18才。有効期間は、1965年3月23日から1965年5月よっかまで。トヨタ自動車前駅発行。
全駅路線図つき乗車券と全駅名つき乗車券。車内精算用のきっぷで、知立乗務区の全駅路線図つき乗車券と、鳴海乗務区の全駅名つき乗車券。
地図
矢作川遊覧地案内図。猿投駅開業翌年の1925年8月発行。平戸橋駅と猿投駅を中心にえがかれた地図には、勘八峡(かんぱちきょう)や平戸橋のうかい、馬場瀬(まばせ)のやななど観光名所がのっとる。井上農場事業案内のほか、いまは名鉄バスになった尾三自働車の定期路線図、料理旅館安城館や酒造業浦野合資会社の広告などがめをひく。
いや~、勘八峡って一大観光地だっただ。いや、ほれにしても、矢作川にうかいがあったってしらんかったわ。あと、わがあんじょうのなまえをつけた料理旅館があるってのにもびっくり。
1924年、三河鉄道名勝図絵。三河鉄道の蒲郡(がまごおり)から足助追分(あすけおいわけ)までの路線がえがかれとる。三河鉄道は、翌1925年2月に蒲郡線、10月に足助延長線を起工した。うらめんの三河名所案内には、足助香積寺(こうじゃくじ)の紅葉、平戸橋のうかい、信長公の像、海水浴場、蒲郡竹島などのみどころが紹介されとる。
足助
香嵐渓(こうらんけい)観楓期(かんぷうき)の時刻表。昭和初期。紅葉の季節には、省線と三河鉄道とのわりびききっぷを発売した。
大垣から、四日市から、浜松から、足助のもみじがりにいくわりびききっぷがあっただ。東海道線を刈谷でおりて、三河線にのりかえ。終点の西中金からバスにのりかえて足助までいく。ほんなわりびききっぷがあっただ。当時、東海道線は鉄道省の、三河線は三河鉄道の運営だっただけど、ほんな公共交通の連携があったってのがすごい。かなしいのは、線路がついに足助につながらんじゃったこと。
『足助鉄道誘致運動小史』。1984年発行。1958年、名鉄は西中金足助間の鉄道布設免許を返納。1980年、足助町で三河線延長促進会が結成され、翌年には6,175人の署名をあつめて、三河線延伸を陳情。
かえり
見学をおえて、豊田市えきまえどおりにあるアットインホテル豊田市駅店1階のカフェドクリエでひるごはん。たのんだのは、ボロネーゼスパゲッティーとオレンジジュース。ごちそうさまでした。
食后、豊田市えきまえのストリートコーヒーアンドブックスで、のんちゃんのいれてくれたブラジルコーヒーをのんで、うちにかえる。
(さんこう)
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- 1926年の挙母駅 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/22
- 電車駅ごとの1日平均乗降客数 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/21
- 西中金開通、足助延長中止 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/21
- 三河鉄道電化記念えはがき - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/21
- 三河鉄道社債うりだしちらし兼注文証 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/20
- 三河鉄道株式会社『第35回報告』 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/20
- 三河鉄道挙母駅利用状況 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/18
- 三河鉄道株式会社『第3回~第10回報告』 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/18
- 明治期の私設鉄道布設計画路線略図(豊田市域関係分) - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/18
- 神谷伝兵衛(初代) - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/18
- 神谷伝兵衛と挙母、越戸への延伸 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/18
- 三河鉄道の総会報告 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 猿投駅と汽車 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 篭川鉄橋をいく汽車 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 三河鉄道の創立 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 三河鉄道停車場敷地買収代金寄付協議費 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 開通式祝賀会当日案内状 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 2020年の豊田市駅 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 1955年ごろの挙母駅 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 開通式祝賀会当日の三河鉄道挙母駅 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- 挙母駅の開業 - 挙母駅開業100年展 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/17
- ふるいから豊田市近代の産業とくらし発見館まで - 2021年1月じゅうよっか - おぼえ (あきひこ ゆめてつどう)|2021/01/17 〔※限定公開〕
- 廊下。…|iwase.akihiko|インスタグラム|2021年1月17日
- コーヒーを…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年1月16日23:43
- ふるいがない!…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年1月16日17:55
- 夫婦式電車?…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年1月14日23:56
- 挙母駅の…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年1月14日11:08
- 90年まえの三河線の時刻表 - あきひこゆめてつどう|2017/07/29
- めいてつ保育ステーションぽっぽ園とよたし - 2021年1月じゅうよっか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/01/31 〔ついか〕
- 豊田市の地区名図 - 2021年1月じゅうよっか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/02/01 〔ついか〕