挙母線の記憶

名鉄挙母線(ころもせん)っていう線があった。挙母っていうのは豊田(とよだ)のむかしの地名で、岡崎から豊田にいく線が挙母線だった。路面電車である岡崎市内線の終点、岡崎井田(おかざきいだ)を起点として、こっからきたに矢作川(やはぎがわ)をこえて、三河線につながる上挙母(うわごろも)を終点とする。全長11.0キロのこの主線のほか、1.5キロの門立支線(もだちしせん)と、岡崎市内線なのに挙母線の一部とされる0.5キロの軌道区間がある。

路線

挙母線路線図 (2) 640-580
△ 挙母線路線図〔かくだい〕

歴史

  • 1924年12月27日、岡崎電気軌道により岡崎井田駅 - 大樹寺駅 - 門立駅間開業。
  • 1927年4月16日、岡崎電気軌道が三河鉄道に吸収合併される。
  • 1929年12月18日、三河鉄道により三河岩脇駅 - 上挙母駅間開業。
  • 1939年10月3日、門立支線廃止。
  • 1941年6月1日、三河鉄道が名古屋鉄道に吸収合併される。
  • 1962年6月17日、岡崎市内線とともに岡崎井田駅 - 大樹寺駅間廃止。
  • 1972年7月13日 - 8月9日、7月豪雨・台風6号により矢作川きょうりょうの橋脚が破損しトヨタ自動車前 - 大樹寺間が不通。復旧後も時速15キロの速度制限。
  • 1973年3月4日、全線廃止。

◇            ◇

うん、歴史を要約すると、こうなる。1924年に岡崎電気軌道っていう会社が岡崎がわの半分をつくった。三河鉄道になったあとの1929年にのこる豊田がわの半分をつくって全線開業。1941年に名鉄の路線になる。1962年に岡崎市内線が廃止。1972年の豪雨被害をへて、1973年に全線廃止となる。

記憶

おれもいっかいだけ挙母線にのりにいったことがある。なんねんのことだったかはっきりおぼえとらんだけど、岡崎市内線が廃止になってだいぶたってからのことにちがいない。1957年うまれの筆者は、岡崎の路面電車がはしっとるのをみたことがないだ。挙母線は岡崎から豊田にむかってのっただけど、起点の大樹寺(だいじゅうじ)までいくのに苦労した記憶がある。市の中心の東岡崎や康生からけっこうなきょりがあるだ。電車はどんな電車だったかおぼえとらん。速度ははやくなかったきがする。名鉄のなかでも、三河部の名古屋本線やわが西尾線ははやいだけど、三河線蒲郡線はおそい。おんなじ三河鉄道を前身とする挙母線が三河線とおんなじようにおそかってもおかしくない。まあ、おぼえてないことだらけなだけど、終点の上挙母はおもしろかった。ついた電車のりょうがわがホームで、りょうがわのとびらがあいて、豊田市方面の電車にもはんたいの知立方面の電車にもほのままのりかえれるようになっとっただ。当時中学生か高校生だったおれは、こんな形式のホームをみるのははじめてで、ほの便利さに感心したもんだ。

さいごに

記憶っていってもこんなことぐらいで、さいごに周辺路線をふくめて、むかしの西三河の路線をみてみる。いまは鉄道の結節点っていうと知立、しんあんじょう、豊田市だけど、むかしは東岡崎も鉄道の結節点だって、それぞれ岡崎市内線を介して、きたは挙母線で豊田に、みなみは西尾鉄道を前身とする旧西尾線で西尾につながっとっただ。あと、三河線の南北りょうほうの末端区間廃線がかなしい。みなみは碧南からさらに一色をとおって吉良吉田までいっとって、西尾線蒲郡線とつながっとっただよ。ほいから、きたは猿投(さなげ)からさらにやまがにはいった西中金(にしなかがね)までいっとっただよ。未成線におわったけど、西中金からほのさき、もみじの名所香嵐渓のある足助(あすけ)まで線路をのばす計画もあった。うーん、鉄道の黄金時代はさった。

挙母線路線図 (1) 1000-1070
周辺路線をふくめた挙母線路線図〔かくだい〕


(さんこう)