2018年4月26日、上野のまちをまちあるきしたようすを紹介する。8時27分に伊賀鉄道の電車で上野市のえきにとうちゃくしてから、14時4分にかえりの電車にのるまでのあいだの見聞になる。
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電車をおりてまっさきにめにはいったのが新天地商店街。上野市のえきはみなみがわがえきまえになるだけど、ちょうどまみなみにこの商店街のアーケードのいりぐちがある。いや、ほれにしてもせのたかいアーケードだ。あとで上野のまちが忍者のまちっていうだけじゃなくて、だんじりのまちでもあるってことをしるだけど、ほのだんじりをとおすためにたかくしてあるにしてもたかすぎるじゃんか。はいっていってみると、期待をうらぎるしずけさだ。かろうじてみつけた喫茶店でいっぷく。みせにはいったときにおったひとりのおきゃくさんがさきにでていって、じぶんがでるときにべつのおきゃくさんがひとりはいってきた。ほれぐらいのひそやかな喫茶店で、モーニングサービスもあるのかないのかわからんくて、ただコーヒーをのんだだけでみせをでる。あさ5時おきして電車をのりついでここまできとって、上野市のえきについたらまずあさめしをくわあっておもっとっただけど、このみせじゃあかなわんかった。
(49) 百五銀行交差点〔本町すじ東の立町どおり〕からみなみ、(48) 百五銀行交差点〔本町すじ東の立町どおり〕からひがし
新天地商店街をみなみにつきあたって、ひがしにちょこっとすすんで、南北のおおどおりにでる。えきのひがしのふみきりからつづく銀座どおりだ。歩道はきれいに整備されとって、これに面するたてもんも三角やねになっとったりして景観にはいりょしてある。うつくしい。クルマもいっぱいはしっとって、バスもはしっとる。地方都市にありがちなシャッター街になっとるようすはなくて、活気もかんじる。交差点からひがしにのびる商店街からも元気がつたわってくる。あとでしることになるだけど、むかしながらのとおりのなまえでいうと、新天地商店街のみなみのはしからこの交差点までと、さらにひがしにのびる商店街のとおりが「本町すじ」で、銀座どおりが「東の立町どおり」になる。
(50) キノセ醸造場〔二の町すじ〕(むこうに伊賀上野シティーホテルのたてもん)
銀座どおりをみなみにあるいて、さいしょのかどをにしにはいっていく。伊賀上野シティーホテルならあさめしがくえるかっておもって、ほこをめざしていっただ。とおりにはふるい商家もある。まあじき伊賀上野シティーホテルってとこで、ひだりに休憩所みたいなとこを発見。休憩所は伊賀市シルバー人材センターのたてもんだって「いこいのやかた」っていうなまえがついとっただけど、なかにはいってみると忍者の装束がいっぱいかかっとる。みせばんのおばさんによると、観光客かしだし用のもんでここできつけをてつだうとのこと。きょうは平日だけど、やすみのひなんかはかりるひとがいっぱいおるらしい。いや、シルバーがほんなことやっとるのか。さて、おばさんにどっかあさごはんをたべるとこはないかってきくと、伊賀上野シティーホテルはあさごはんはやってないとのことで、ほかにこころあたりもなさそうだ。ほじゃどっかにぎやかなとこはないかってきくと、こっからにしにいった交差点をひだりにまがったへんにみせがようけあるとのことで、いってみることにする。
(52)、(51) かぎやもち店交差点〔二の町すじ中の立町どおり〕
いこいのやかたからにしにすすんで交差点まできた。かどにかぎやもち店とかいうみせもあって、なんだかにぎやかだ。はんたいのかどのうどんやさんのみせさきをみると、うばぐるまに忍者がのっとる。おちゃめなことをするもんだ。あとでしることになるだけど、むかしながらのとおりのなまえでいうと、銀座どおりこと「東の立町どおり」をまがってから、ずーっとにしむきにこの交差点まであるいてきたとおりが「二の町すじ」で、この交差点から南北にのびるとおりが「中の立町どおり」になる。
(53) むらい万香園、(54) 伊賀まちかど博物館、(55) 茶々、(56)、(57) 記念さつえい
かぎやもち店交差点をひだりにまがってみなみにすすむ。っていうか、まがってすぐだっただけど、みぎがわににぎやかなみせがある。みせさきにいろんなもんがならんどるなかに、「伊賀まちなか博物館」っていう看板を発見。いや、博物館っていうみせがまえじゃないじゃんかっていぶかしがりながらもみせにはいって、でてきたおじさんに「みせさきに博物館ってかいてあったですけど」ってきくと、おくに案内してくれる。いや、おじさんっていったけど、忍者の装束をみにまとったおじさんだ。ますますいぶかしい。おくに博物館はあった。みせの一隅にある、ひきどのガラスとだなが博物館のすべてだ。忍者おじさんはさいしょにおちゃをだしてくれて、つづいてうれしそうにはなしをしてくれる。展示品は忍者おじさんのおじいさんの所蔵品がほとんどらしいだけど、なんとほのおじいさんは「さいごの忍者」だったっていう。ラストサムライっていう映画もあったな。おじいさんはねるときもよこたわることなく、あぐらをかいた姿勢でほのままねたっていう。こいで、いついかなるときに敵がおそいかかってきても対応できる。ほれから、武術の師範をしとっただかなんだかのときに、2、30人をあいてにたたかうことになっただけど、おじいさんのはなつ「気」におされておそいかかることもできんかったっていう。忍者おそるべし。さらに、さいごの忍者は写真の趣味もあったみたいで、いくつかのふるめかしいカメラの説明もしてくれる。カメラであいてのたましいをすいとっとったのか。ほのカメラでとったやつだっておもうけど、旧三重県庁の写真もあった。いま明治村に展示されとるあの旧三重県庁だ。
あと、忍者は胃腸がかんじんってことで、なかにいぐすりだかをいれた印篭みたいなもんもみせてくれる。伊賀だったか伊勢だったかがそもそものくすりの産地で、伊勢から伊賀、近江ととおって北陸は富山にいたる街道をへて、くすりもはこばれたとのこと。のちの富山のくすりうりも元祖はこっちだとのこと。
ところでおたくはどっからきたのかっていうはなしになって、愛知県はあんじょうからきたっていうと、「ああ、新幹線が名古屋にちかづいたとこで『ただいまみかわあんじょうを通過しました』っていう、あのあんじょうね」っていうことでわかってくれた。
さて、ひとしきりはなしをきいたとこで、おねえさんがふたりではいってくる。忍者おじさんにたのみごとがあるらしい。想像するにまちづくりのもよおしかなんかの相談か。こっちが退散するとこで、茶々っていうなまえのねこが登場。アッハッハ! ねこまで忍者だ^^ おねえさんたちといっしょにさつえいかい。みせはむらい万香園(むらいばんこうえん)っていうなまえのおちゃやさんだっただけど、みやげにちゃがしをかって、そとで記念の写真をとってもらって、ここをあとにする。
忍者おじさんのみせからみなみにすすんだとこで、みちしるべを発見。「三之町筋中之立町通りの辻」ってかいてある。うん、むかしながらのとおりだ。あとでしることになるだけど、むかしながらのとおりのなまえでいうと、ここまであるいてきたとおりが「中の立町どおり」で、この交差点から東西にのびるとおりが「三の町すじ」になる。
ここまで上野市のえきのみなみがわの、むかしのまちなみを中心にまちあるきをしてきただけど、いっかいえきのきたがわにいってみることにする。忍者おじさんのはなしはいまきいたとこだけど、伊賀流忍者博物館にいって忍者の実演をみるためと、まんだのぼったことのない上野城にのぼるためだ。あさごはんはとりやめ。
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みちしるべのとこからひがしにずーっとあるいて銀座どおりにでる。ほっからきたにずーっとすすんでふみきりをわたったとこで東西のおおきな道路と交差するだけど、ほの交差点の西北に伊賀市役所があって、なかにはいってみる。上野市役所じゃなくて伊賀市役所だ。旧国名を市のなまえにしちゃった。たてもんは3階だてぐらいなだけど、1階の玄関をはいったとこから中2階や半地下階がみえるだけど、なんだかかくれがみたいだ。伊賀忍者のまちだでか。半地下階におりた売店でジュースをかって、売店のおばさんにきいた職員用の喫煙所でいっぷく。いや、喫煙所っていっても、たてもんからうらにでたとこにおいてあるイナバ物置のなかだ。職員のひともいれかわりでいっぷくしとっただけど、はなしをするきっかけはつかめんかった。らいねん2019年1月に市役所が郊外に移転しちゃうだけど、移転についてどうおもっとるのか、移転の準備でどんなにたいへんか、きいてみたかったな。
伊賀市役所をうらがわ、にしがわにぬけたとこで、南北のみちをきたに上野公園のほうにあがっていくだけど、伊賀市役所からこのみちをはさんだにしがわに木造校舎のりっぱな小学校がある。上野西小学校っていう。伊賀地域の中心都市上野の風格か。ちなみに上野西小学校からまたにしどなりに上野高校がある。
上野公園にあがって伊賀流忍者博物館にとうちゃく。どんでんがえしやぬけみち、かくしどなんかのからくりについて、忍者のおにいさんから実演をまじえながらの説明をうける。いや、忍者のおにいさんのみのこなしのあざやかなこと。説明のなかで印象にのこったこととしては正座のしかたと、あぐらのかきかた。正座もあしのさきをかさねるしかたとかさねんしかたがあって、かさねるしかたのほうがらくなだけど、これだとうえにでとるあしのうら1か所をふまれるだけでみうごきがとれんくなっちゃうで、正座はあしのさきをかさねんですることとのこと。ほいから、あぐらもしりをゆかにつけるかきかたとあしをしりのしたにするかきかたがあるだけど、しりをゆかにつけるかきかただとすばやい行動がとれんで、あしをしたにしてあぐらはかくべきとのこと。なるほど、所作ってのはだいじなもんだ。ほかに、てさぐりするうでが忍者とさむらいではちがうっていうはなしもおもしろかった。忍者はふところにしのばせたしかけをいつでもとりだせるようにみぎうでがいつもふところにはいっとるで、くらやみなんかでてさぐりするのはひだりうでになる。ところがさむらいはひだりてをかたなのつかにかけとるで、てさぐりするのはみぎうでになるとのこと。この特性をいかして、かくしどなんかはさむらいにさぐりあてられにくいように、みぎうでじゃあ死角になるようなとこにとってなんかがとりつけてあるとのこと。いやー、ほこまでかんがえて忍者屋敷ってつくってあるだ。
七方出(しちほうで)
忍者は敵地に潜入するとき、正体と目的をかくすために変装した。変装は、「虚無僧(こむそう)」、「出家(しゅっけ)」、「山伏(やまぶし)」、「商人」、「放下師(ほうかし)(曲芸人)」、「猿楽師(さるがくし)」、「常の形(つねのかたち)(農民や武士)」のななつとされ、忍術伝書では「七方出で立ちの事(しちほういでたちのこと)」または「七化(ななばけ)」ってよばれた。
(64) 伊賀流忍者博物館 - 七方出(しちほうで)
展示物も見学。忍者は敵地に潜入するときは、おぼうさんだとか曲芸人だとかいろんなもんにみをかえていったとのこと。ふむ、江戸時代、一般のひとにはわからんくても忍者っていっぱいおったのかもしれんな。
(65) 伊賀流忍者博物館 - 阿修羅ショー
(※ ショー自体はさつえい禁止で、この写真はショーのまえにとったもん)
さあ、見学がおわって忍者ショー。ざんねんながらさつえい禁止だったけど、手裏剣やくさりがまっていう忍者ならではの武器をつかっての格闘、迫力満点だったよ。くのいちの宙がえりもすてきだった。
上野公園のなかをにしに移動。上野城にとうちゃく。
おしろにはいってすぐ、やっぱり忍者がしのんどる。
(69)、(70) 上野城 - まどからのながめ、(71) 階段(2階から3階え)、(72) 上野盆地の地形図(3階)
1階から2階、2階から3階へと急な階段をあがっていく。最上階となる3階には上野盆地の地形図が展示してあったけど、こういうのは貴重なもんだ。
(75) 上野城 - 3階格天井、(73) 3階、(74) まどからのながめ
天井は格天井(ごうてんじょう)っていうりっぱなやつで、ますめごとに有名な書画がはめこんである。みなみに上野のまちをのぞむ。上野のまちは上野市のえきをさかいに、きたがおしろや市役所、学校なんかがある官公庁街、みなみが商業地や住宅地のひろがる生活のばっていうふうにわかれとる。
川崎克(かわさきかつ)氏による天守閣復興
天守閣復興の計画は、1931年1月じゅうよっか、帰省中の代議士川崎克氏が、伊賀2郡の町村長をまねき、名所旧跡の保存について意見をもとめたのにはじまる。正式に天守閣再建のもうしでをうけた上野町(うえのちょう)では、1931年9月13日に町会協議会をひらいて審議、満場一致で建設に賛成をえて、1932年9月29日、天守基台の使用許可を名古屋税務監督局長に提出した。行政上のてつづきが完了した1932年10月じゅうよっか、川崎克氏は天守基台において地鎮祭を執行し本格的な構築の工程にはいった。
鉄筋コンクリート様式にって進言するものがあったけど、川崎克氏は「耐震耐火の近代建築を要求しとる時代に、古代の桃山式建築を復興せえっていうくわだてが超時代的であるばかりでなく、きわめてものずきの感なきをえんのであるけど、わたしは、滔々(とうとう)たる西洋建築の陶酔時代にあって、にほん精神のためににほん建築の美を賛美することが国民精神高揚のうえにきわめて意義ぶかいことであるって信ずる」って手記しとる。また「攻防作戦のしろはほろぶるときあるも、産業のしろは人類生活のあらんかぎり不滅である」って建設の根本的信念としし、伊賀の産業陳列館として「伊賀文化産業城」ってなづけられた。
再建の資金は、伊賀東北7か村ならびに滋賀県湖南地域6か村のひとたちがかんがい事業の尽力された記念に、川崎克氏の銅像建設のはなしがあり、この資金と川崎克氏が数年にわたり収集した古書画、古陶器などの所蔵品の売却、三重県南牟婁郡(みなみむろぐん)木本町(きのもとちょう)の山林家奥川吉三郎氏より天守木材の提供をうけた。設計は、渡辺虎一設計事務所において作成され、工事の総監督に片山亀太郎が、工事設計者渡辺虎一、大江新太郎、田中兼太郎、島田仙之助の4人はげんば監督をかねておこなった。工匠長は宮本亀太郎があたった。
1933年6月むいか、心柱と大柱の木曳式が、1933年11月19日、上棟式(ねりあげ)がおこなわれ、1935年10月18日に竣成式(落成式)をむかえた。この天守閣は、別名白鳳城(はくほうじょう)ともよばれとる。
(76) 上野城 - 天守閣復興ものがたり、(77) 天守閣復興のようす
1階までおりて、再建当時の事情をしるしたパネルをかくにん。上野城は江戸時代をつうじて天守閣がなかったらしいだけど、伊賀地域選出の代議士川崎克(かわさきかつ)によって1935年に木造で再建されただ。
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(78) 本町筋 - はんこうやさん、(79) 本町筋西之立町通りの辻
また、みなみにもどる。上野公園のおかをおりて、上野西小学校と上野高校のあいだをとおって東西のクルマどおりにでて、ほのままこれをみなみよこぎって、すぐに伊賀鉄道の線路をふみきりでみなみにわたって、ちょっといって東西のとおりにつきあたる。つきあたりのはんこうやさんの2階にはくのいちがおる。あらかじめここでひるめしをくうってきめといたにほん料理のみせをめざして、東西のとおりをにしにすすむ。しばらくいって、また、みちしるべを発見。「本町筋西之立町通りの辻」ってかいてある。やっぱりこれもむかしながらのとおりだ。このあとすぐしることになるだけど、むかしながらのとおりのなまえでいうと、はんこうやさんのとこからここまであるいてきたとおりが「本町すじ」で、この交差点から南北にのびるとおりが「西の立町どおり」になる。
みちしるべからまたちょこっとにしにすすんだとこで、「三筋町通り(みすじまちどおり)」っていう看板を発見。よんでみて、すべてがわかった。「上野のまちは藤堂高虎の碁目地割法(ごもくじわりほう)によってつくられた。東西に3すじのとおりと、これと交差する南北に3本のとおりを骨格としてまちを形成した。東西の3すじがきたから『本町すじ』、『二の町すじ』、『三の町すじ』で、南北の3本がひがしから『東の立町どおり』、『中の立町どおり』、『西の立町どおり』だ。この3すじ、3本のとおりの一帯を三筋町(みすじまち)っていって、特権的な政商がみとめられたことで富裕な商人を輩出して領国経済の中枢的なやくわりをつとめた」ってかいてある。いやいや、いままであるいてきたみち、ぜんぶこの三筋町のとおりじゃんか。たったいまみたみちしるべは、本町すじと西の立町どおりの交差点、つじであることをしめしとっただ。あの忍者おじさんのみせは二の町すじと中の立町どおりの交差点のちょっとみなみだ。
看板にはさらに「商家は京風の構造が基本でぬりごめ格子のまどをもつひらやだて二階(つし)づくりとなっとる。さらにまちかどの商家は軍備の目的もあって、ほんがわらぶきの堅固な土蔵づくりとなっとる」ってかいてある。いや~、じつにわかりやすい説明がきだ。
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(81) 西町集議所 - 室内、(82) まど、(83) けむりぬき、(84) くら
(85) けむりぬき、(86) 玄関、(87) 外観
感心しとったとこで、看板のうしろのたてもんのぬしがかえってきて、なかを案内してくれるっていう。もとはこめやさんで、いまは集議所(しゅうぎじょ)になっとるっていう。集議所ってききなれんなっておもったら、集会所のことだった。玄関からおくにつづくどまのみぎの書院づくりのへやが集議をするとこ。どまをおくにいったひだりて、かまがあったとこの天井にはすきまがあいとるだけど、これはけむりぬきでつくってあるとのこと。なかにわにでてみてみると、ほこだけやねもうきあがらせてつくってある。なかにわのおくにくらがあって、ほんなかにこの西町のだんじりがはいっとるっていう。まちまちがそれぞれにだんじりをもっとるみたいだ。だんじりにまく幕が1千万円もするともおしえてくれた。いや~、各戸の負担もどんなにおおきいことか。いや、ほんなことを負担におもうより、だんじりをもっとるっていうほこりをもつきもちのほうがおおきいだ。玄関にはうえからスライド式におろす防火戸っていうか防犯戸があることもおしえてくれた。礼をいってこの西町集議所をあとにする。
まあじき1時。西町集議所からにほん料理のみせにいくだけど、ばしょがようわからんままみなみのほうにいく。とちゅう、いぬ2匹の散歩をしとったおんなのひとにみちをきいて、やっとたどりつく。みせのなまえは伊勢之家(いせのや)っていうみせで、三の町すじを西の立町どおりよりまっとにしにいった、まちはずれにあった。みせにはいって注文したのは伊賀牛まぶし重の松。いや~、満足、満足。
(89) 三之町筋西之立町通りの辻、(90) 三之町筋 - 景観形成指定建築物
はらがふくれたとこで、えきにむかう。三の町すじをひがしにずーっとあるいていく。「三之町筋西之立町通りの辻」のみちしるべがある。交差する南北のとおりが西の立町どおりだ。まあちょっといったみぎに、あたらしいけど伝統的なつくりのたてもんを発見。とくべつな史跡でもなくみせでもない。ふつうの民家みたいだけど、玄関のうえのとこに「景観形成指定建築物」っていう銘板がはってある。市役所もふるいまちなみの維持に努力しとるだ。
さらにひがしにあるいたとこで、また、みちしるべ。こいつは忍者おじさんのみせのあとにみたやつで、三の町すじと中の立町どおりの交差点だ。また、ずーっとひがしにあるいていって、まあじき銀座どおりこと東の立町どおりにでるってとこで、ひだりに紺屋町(こんやまち)集議所を発見。やっぱり集議所ってのが町内町内にあるだな。
東の立町どおりをきたにあるいて上野市のえきにとうちゃく。みやげをかってかえりの電車にのる。
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(さんこう)
- 伊賀鉄道で上野のまちまで - 2018年4月26日 - あきひこゆめてつどう|2018/04/28
- 古井(ふるい)から伊賀神戸(いがかんべ)まで - 2018年4月26日 - あきひこゆめてつどう|2018/04/27
- 忍者おじさんとおはなし。…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年4月26日11:31
- 忍者おじさんとおはなし。このひとのおじいさん、ほんもんの忍者だったげな。ねるときもきをゆるさずあぐらをかいたままねて、おおにんずうにおそわれても「気」のすさまじさにあいてはてだしができんかったげな。ほー。あ、ねこも忍者になっとるし(^-^)
- 上野まちあるき図 - おぼえがき|2018/05/02 〔ついか〕