早川竜介 - 中島発展のいしづえをきずいたひと

こないだ羽角山でいしぶみを発見した。中島出身ではなびずきの代議士早川竜介が、となりむら羽角のはなび師加藤小兵がなくなったことをいたんで、いしぶみにほの業績をきざんだもんだった。ところで、この早川竜介のことをしらべてみて、おどろいた。なんと、視察団の一員としてわたったアメリカで耕地整理の必要性を痛感して、代議士になって耕地整理法の制定に尽力して、法律が成立するや、いちはやくみずからのじもと中島で耕地整理を実施したひとだった。耕地整理ってのは、たんぼだけじゃなくて宅地をふくむ区画整理だ。都市計画っていってもいい。

中島耕地整理【確定図】 1040-730

以前に悠紀の里をおとずれて、全国にさきがげて中島で耕地整理が実施されたことをしった。碧海郡のかたすみにありながら、いまも岡崎市のかたすみにありながら中島のまちがにぎわっとるのも、耕地整理のおかげだっておもった。中島の先進性におどろいた。

ほうおもっとったとこでしった早川竜介だ。このひとこそが中島発展のいしづえをきずいたひとだ。

早川竜介(ヰキペディア) 1118-1124

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以下、早川竜介や中島の耕地整理についてインターネットにのっとる記述を紹介。

〔岡崎まちものがたり - 六ツ美南部をきりひらいたひとびと〕
〔愛知県耕地整理事業報告第一集より碧海郡六ッ美村大字下中島耕地整理成績をよむ〕
〔斎田紀念中島案内〕
〔六ツ美南部の風土と歴史〕
〔岡崎まちものがたり - 耕地整理の碑〕

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岡崎市制100周年記念事業『岡崎まちものがたり』(六ッ美南部を切り拓いた人々)の記述から

六ッ美南部を切り拓いた人々
早川竜介(1853~1933)

早川家は旗本小笠原伊勢守の代官であった。早川竜介(はやかわりゅうすけ)は士族の家に生まれ、16才の時、明治維新になり、静岡の藩儒、宮原寺三郎の塾に入り、静岡大学校に通学した。27歳で県会議員となり県議会副議長を務めた。1885年に農商業視察員として渡米し、耕地整理の必要を感じたようである。その后、1890年、37歳で第1回帝国議会の選挙で衆議院議員に当選した。そして、1920年までに10回の当選を果たした。このように長期に渡り、県・国政を務めた人物は、明治・大正期の愛知県ではこの竜介を於いて他にはおらん。それだけ国や県、そして六ツ美のために尽力し、多くの人々から信頼されとったと思われる。また、国政にかかわる中で、いくつかの文献から総理大臣を務めた伊藤博文山県有朋、農商務大臣(現在の農林水産大臣経済産業大臣)を務めた金子堅太郎や曽祢荒助(そねあらすけ)などと精通しとったことが推察される。

竜介の業績として、まず中島の「耕地整理」をあげることができる。「耕地整理」は鶴田勝蔵が中心的に活動した。しかし、なぜ1900年に耕地整理法が発布されると、翌年すぐに中島で取り組めたかというと、この竜介が当時の伊藤博文内閣の金子堅太郎農商務大臣と協力して耕地整理の奨励に取り組んどったことがその要因であった。これは竜介がアメリカで見た農業事情に大きく影響されたと考えられる。それを、中央政府とのつながりの中で、地元の中島の農業振興へと生かしたと考えられる。この耕地整理については、八幡社にある記念碑が竜介の業績の詳細を物語っとる。

次に、「高橋用水の改修」に尽力したこともその業績としてあげられる。1883年に中島が灌漑区域に編入され、1908年から1911年にかけて、矢作川の取水口が大改修され、潅漑面積が広がった。これらの事にも竜介がかかわっとったと考えられる。このような竜介の先進的な「耕地整理」、「高橋用水の改修」は、悠紀斎田として中島が選定される要件を備えることとなった。また、中央の農商務省と密接に関係しとったと考えられるので、悠紀斎田を選定する上で自分の地元である中島を、農業先進地区として強く推薦できたのではないかと思われる。このような、地元を大切にする竜介の働き等により、悠紀斎田に中島が選定されたと考えられ、その偉大さを知ることができる。1915年の悠紀斎田お田植え祭りのときは、竜介は衆議院議員でありながら、村人の希望で六ッ美村長を兼務しとった。彼は八幡社境内に斎田事務所を寄付して、率先して指導監督に当たり、見事、献穀供納の大任を果たした。お田植え唄2番の作詞者であり多方面から六ツ美のために尽力しとったことが分かる。六ッ美村誌にその記載がある。

早川竜介(岡崎まちものがたり) 420-210

【岡崎市制100周年記念事業『岡崎まちものがたり』 - 六ッ美南部を切り拓いた人々】

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『愛知県耕地整理事業報告第一集より碧海郡六ッ美村大字下中島耕地整理成績をよむ』の記述から

【旧形図】 ↓
中島耕地整理【旧形図】 1060-580

【確定図】 ↓
中島耕地整理【確定図】 1040-730

3.発起の由来
・土地所有者の意向:土地改良が最急務、耕地整理法発布が好機
・整理の目的:畑 → 田転換、用排水路設置、耕作道設置、区画拡大
・発起:1900年12月12日(早川竜介はじめ発起人15名)
・認可:1900年12月22日発起認可、翌1901年3月29日施行認可
・整理委員:委員長早川竜介はじめ23名

(※ 1924年発行の整理委員会編集の最終報告書によれば、整理委員は、さらに本田九郎治、鶴田勝助の2名を加えて25名となっとる。また、記念碑も25名となっとる)

5.工事完了
・竣工式挙行:1904年5月8日11時~

於明生池地内乾田会場
青竹矢来、幔幕、大アーチ、祭壇、神饌、花火、式典

・来賓祝辞:農商務次官和田彦次郎氏、愛知県知事深野一三氏、碧海郡長脇屋義純氏
・告辞:副整理委員長鍋田恒雄氏
・答辞:副整理委員長 鶴田勝蔵氏

中島村整理米 240-260

【愛知県耕地整理事業報告第一集より碧海郡六ッ美村大字下中島耕地整理成績をよむ】

【なお、上記文献は国会図書館近代デジタルライブラリー に収録・公開されております】

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『斎田紀念中島案内』の記述から

この小冊子「斎田紀念中島案内」は1915年(今から凡そ100年前)に、当時の、愛知県碧海郡六ッ美村大字中島(現、岡崎市中島町)で行われた悠紀齋田の行事を記念して当地中島を広く世に知ってもらうために作られました。因みに、時代は第一次世界大戦(1914~1918)の最中でした。

【この本から見えてくること】

◇当時の人口は中島全体で約1,500人。今日の一町内の規模とほとんど同じでした。
◇全国から注目される齋田という国家事業の指定を受けたことを光栄に思い、その中心となって、これをを成し遂げようとする人々の、やる気と盛り上がりがひしひしと伝わってきます。
◇この盛り上がりには、当時すでに世間に先駆け、苦労して完遂した耕地整理という農業改革、農業近代化、これに伴う生産性向上の成果、これらの成功体験からくる自信がベースとなっています。
◇当時は皇室尊崇と村落共同体の意識が強かった様子が分かります。青年会、在郷軍人会など当時あった組織も有効に機能しております。それと、なによりもみんな元気がよかったという感じがします。
◇神社が4つ、寺院が3つ(今も同じ)あり当時の人口(1,500人)で、これらを運営できとったことから、生活と宗教の結びつきが今より強かったことが窺われます。なお、当時、小園神社は鬱蒼とした森でした。
◇消防が42人もおりました。軍人は36人おりました。頼りになる人たちだったでしょう。
◇当時すでに西尾鉄道がありました。運転ダイヤは約1時間1本で、今のバスダイヤの間隔と似ておりました。(太平洋戦争中に廃線になりました。今も線路跡地が残っております)
◇劇場がありました。俳優(役者)さんも住んでおりました。また、あの有名な斎田の画帖は中島に住んどった画家が描いたものです。

中島の起源

太古中島は海中の島地にして葦島の一なりき麻井山と高住山との中間にあるを以て中島といへり高住山は今の万灯山一帯の古の名なり 日久良志の高住山に雲はれてひれふる峯に出る月影 と云ふ古歌もあり葦島梢開くるに及びて日久良志の里とも称へ碧海郡なり昔の里うたにも 小島中島岡島なども 昔ゃ碧海(あをみ)の浪の中 という歌もあり
1906年年5月我が川東六ヶ村合併して六ッ美村となり中島はその大字となる

中島の位置

三河国碧海郡矢作川の東六美村の南端にして北は安藤正名東は幡豆郡三和村大字羽角貝吹を広田川を以て界し南西は永良尾花米野浅井と耕地を以て接す県道土呂街道東西に貫通し西尾鉄道之に添ふ

区画

中島を大別して 上町 新町 本町 堺 後屋敷 小園 高畑となす

土地の沿革

太古は入海の島にして付近の水面漸次埋まり開発となりしも矢作川の流域近くにあり排水宜しからす用悪水路完全ならさりし1883年に至り隣村と協定し広田安藤二川を改修し高橋用水を開き1890年年県道の一部を改め1901年率先して大耕地整理にかヽり1904年に竣る又1914年県道の一部新町央より上町に至るの改修をなし大に便益を計る1914年9月高畑合併す

耕地整理

施工認可1900年12月にして1904年4月竣工せり
前の土地162町余
あとの土地170町余
総費額2万余円
委員長=早川竜介
副長=鍋田恒雄
副長=鶴田勝蔵
事務長=早川治三郎
委員=21人なり

中島駅

西尾鉄道は平坂より岡崎に至り本線に連絡す中島停車場は上町にあり昼夜上下とも11回朝7時7分を始め夜9時余に終り凡1時間毎に発車す岡崎へ4哩余3等11銭なり

当5月現今中島発車時間

上り岡崎行=7:07、8:02、9:06、9:50、10:56、12:33、1:30、2:48、4:19、6:57、8:19
下り西尾平坂行=8:03、9:35、10:41、11:42、12:34、1:31、2:33、4:04、5:53、8:17、9:48

【斎田紀念中島案内】

【また国立国会図書館デジタル化資料にも収蔵、公開されております】

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『六ツ美南部の風土と歴史』の記述から

C.農業・用水

髙橋水路は1882年に計画され、翌1883年2月に工事が始まり5月に完成した。1908年から1911年にかけて矢作川の取水口が大改修された。明治・大正期に高橋用水の完成・改修に尽力したのは衆議院議員早川竜介と六ツ美村の初代村長であった鍋田恒雄の2人である。髙橋町の取水口にある記念碑(1919年)には鍋田恒雄の名前が発起人の一番初めに刻まれとる。

耕地整理は明治期の農村の進歩性を代表するものの一つである。1899年に耕地整理法が発布され、愛知県においては翌1900年国庫補助金を、主として耕地整理奨励にあて、各郡、1個所ずつ模範耕地整理地区を設置する計画をした。それを受け、1900年11月六ッ美の中島が愛知県下に先駆けて施行をした。なぜ中島かと言うと、その背后には郷土の偉人であり衆議院議員であった早川竜介の存在があった。彼は1885年農事視察研究で北米に渡航し耕地整理の必要性を痛感しておった。その后、国会での金子農商務大臣の耕地整理法案通過に最大の努力を払い、全国に率先して自らの郷土中島の耕地整理を計画した。 これらの努力が認められ、1915年、大正天皇即位の大嘗祭を行うにあたり、儀式に用いる新米を収穫するために京都より東日本を悠紀(ゆき)、西日本を主基(すき)として2つの斎田を選定した。六ツ美がこの悠紀斎田に選定され、六ツ美発展の礎になった。

悠紀斎田(六ツ美南部の風土と歴史) 510-370

【C.農業・用水 - mutsumi-nanbu】

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岡崎市制100周年記念事業『岡崎まちものがたり』(耕地整理の碑)の記述から

耕地整理の碑

八幡社の境内に中島耕地整理の碑(1900年(※ 1901年のまちがい)4月起工、1904年5月竣工)がある。当時、全国に率先してこの事業を計画し、石川・静岡の両県の先進地を視察して発起し事業に取り組んだ。それを記念して建立された石碑は、初めは中島町薬師(現在の碧海信用金庫駐車場)に建てられたが、1964年頃、石碑の前面道路(県道)拡幅のため、また同時に側道も拡幅されたため、現在の位置(八幡社境内)に移転され現在に至っとる。

耕地整理の碑(口語訳)

我が邦は農業を以て生産の本源と為す。是瑞穂の国の称を有する所以なり。然るに古来、田畝の制は畦区狭小、溝経迂回、各圃略域の犬牙錯綜して生産の発達を害す。寔(まこと)鮮(あざやか)にならず。是に於いて、官夙(つと)に内外の慣例に規り、新たに耕地整理法を発布し、以て之が実施に力む。然るに、農家概して旧慣を墨守して革新は概ね喜ばざるなり。愛知県三河国碧海郡中島村民諸子発奮して之を践行し、以て他府県耕地の模範と為すに足る。その功は偉と謂うべきか。蓋(けだ)し、下中島は水旱(すいかん)相継ぎ、連歳登(みのら)ず。地主農夫の葛藤は纒糾(てんきゅう)して、志有る者は苦慮百端す。遂に、官、先ず溝渠髙橋用水を開鑿、又、広田、安藤二川を疎通する。これに於いて、害を除き利を興し収穫焉(これ)を増し、葛藤焉を釈(とく)る。邦民諸子同心協力して、人を石川・静岡県に派し、耕地整理の実況を検し、以て1901年5月起工、1904年4月其所の整理を告成す。耕地面積150町5反8畝19歩、参加土地所有者320人、工費約2万円、労役に服すること4年。其の畦畔区の狭小は広大を為し、溝経の迂回は縄直を為し、犬牙錯綜は井然(せいぜん)として条を有し、生産の発達は以て期すべき成り。此れ偉業を成すは実に委員長早川竜介其の他委員諸氏、斡旋の功多きに居す。告成の月8日、竣工式をその郊に挙ぐ。余は深野愛知県知事、脇屋碧海郡長、郡中各町村長、耕地整理委員其の他地主等と興(とも)に式場に同臨し、祝意を述べしは此の日なり。會(たまたま)、我が征露第一軍は鴨緑江に進渡し、九連城を抜き、更に鳳凰城を陥す。第二軍も亦、塩大澳に上りて普蘭店を侵略の捷報に接す。而して下中島村民諸氏耕地革新の偉功を奏す。彼此(かれこれ)、記念忘るべからざるの吉日なり。頃、有志諸子相謀り、碑を建て以て之を不朽に伝うに予に文を請う。誼(ぎ)辞すべからず。因って其の梗概を記し之を系(つな)ぎ以て銘とす。銘に曰う。

【岡崎市制100周年記念事業『岡崎まちものがたり』 - 耕地整理の碑】

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(さんこう)

  • 最明寺と羽角山 - あきひこゆめてつどう|2020/05/02
    • ひといきのぼったとこで、いしぶみを発見。このときはなんだかわからんかっただけど、あとで、「中島出身ではなびずきの代議士早川竜介が、となりむら羽角のはなび師加藤小兵がなくなったことをいたんで、いしぶみにほの業績をきざんだもんだ」ってことがわかった。
      〔2020年4月26日訪問〕
  • 羽角山のいしぶみ - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/02
    • 「1901年3月8日代議士早川竜介撰文篆額」
    • 中島出身ではなびずきの代議士早川竜介が、となりむら羽角のはなび師加藤小兵がなくなったことをいたんで、いしぶみにほの業績をきざんだもんだった。
  • 2018年10月30日:神社とおいちゃん - 岡崎市と神社『中島八幡社』~六ッ美~
    • 公民館の裏手の碑石。「農商務大臣従二位勲一等男爵清浦奎吾篆額」。「1905年農商務次官従四位和田彦次郎撰幣并書」。
    • 我が邦(くに)は、農業を以て生産の本源と為(な)す、是れ瑞穂の国の称有る所以也り。・・・こんな感じの書き下しでしょうか。。。間違えている箇所がありましたらお知らせくださいませ。
  • 耕地整理 - Wikipedia
    • 耕地整理(こうちせいり)とは、在来の農地を区画整理して、用排水の利便性を向上させたり、通路を整備して目的の水田等に他の水田等を通らずに作業にいけるようにすること。牛馬耕や農業機械による作業が能率的に行えるようになる。
    • 耕地整理法は1899年制定され、1900年に施行された。当初、耕地整理の事業目的は「耕地の利用を増進する目的を以て其の所有者共同して土地の交換若は分合、区画形状の変更及道路、畦畔若は溝渠の変更廃置を行うを謂う」(同法第一条)とされた。交換分合による分散所有地の集団化、一枚一枚の区画の「正形」化と「広閲」化、道路の直線化等による既耕地の耕作、適作の便の改良が目的として示された。
  • 早川竜介 - Wikipedia
    • 三河国中島村(現・愛知県岡崎市中島町)に早川藤太夫の長男として生まれた。早川家は祖父以来、旗本小笠原伊勢守の代官を務めとった。9歳の時に父を失い、14歳で代官見習となった。明治維新後、静岡の藩儒、宮原寺三郎の塾に入り静岡大学校に通学した。
    • 1871年、帰郷。1872年に額田県第二大区三小区戸長に就任し、地租改正に尽力。1876年、愛知県十四等出仕となる。
    • 1880年5月、愛知県会議員の補欠選挙で初当選。同年10月にも補選で当選。1884年5月の県議選で3選。1890年4月22日の県議選で4選。このあいだ県会副議長として活躍した。また1885年、農商業視察員として渡米。耕地整理の必要を痛感して帰国し、耕地整理法案の議会通過に努力した1899年の法案成立后、全国に率先して六ツ美村大字中島地内の耕地整理事業を実施した
    • 1890年7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙に立候補し初当選を果たした。以後、第2回衆院選(1892年)、第4回衆院選(1894年)、第6回衆院選(1898年)、第7回衆院選(1902年)、第8回衆院選1903年)、第10回衆院選(1908年)、第11回衆院選(1912年)、第12回衆院選(1915年)、第14回衆院選1920年)において当選。代議士を通算10期務めた。そのあいだ閣竜世界博覧会(1893年開催)委員、パリ万国博覧会(1900年開催)委員として海外でも活躍した。
    • 1914年3月6日、大正天皇即位の大典に際し大嘗祭に献穀する悠紀斎田(ゆきさいでん)が六ツ美村大字下中島字上丸ノ内に決定された。早川は衆議院議員在職中であったが、村民に請われ翌1915年、種まき直前の4月17日に六ツ美村長に就任した。八幡社境内に斎田事務所を寄付して指導監督にあたり、10月16日に新穀を京都御所に供納、11月14日、大嘗祭悠紀殿供饌(ぐぜん)ノ儀に参列した。大任を務め終えた早川は11月30日、村長の辞表を東京の定宿から送り、村議会は同日付で辞職を承認した。
    • 1916年4月1日、勲四等瑞宝章を受章。
    • 1933年9月22日、死去。80歳没。1966年7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。