まえにいった敦賀のたびで、かえりの電車にのるまえによった喫茶店のなかにはりだしてあったむかしの地図に、気比神宮(けひじんぐう)のおおとりいのまえに敦賀駅があるのを発見。これをふしぎにおもってしらべて、敦賀の鉄道にうつりかわりがあることがわかった。さいしょ、線路は敦賀のまちなかをとおって、まっすぐ敦賀港駅にむかってのびていっとっただ。ほいで、さいしょにできた敦賀駅もまちなか気比神宮のおおとりいのまえにあったってわけだ。「百年の鉄道旅行」ってサイトの「敦賀駅と敦賀港線」って記事からわかった。
「ほいから、みせんなかにはりだしてあったむかしの地図のなかに、気比神宮のとなりに敦賀駅があるのを発見。むかしは北陸線の経路がいまとはちがっとっただ」。 |
(※ みだし画像は、2022年3月30日、敦賀港駅付近のふみきりで筆者がさつえいしたもん)
(※ 「敦賀のたび」の記事)
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敦賀の鉄道のうつりかわり
第1段階 1882年、長浜から敦賀港まで鉄道開通。一部区間は徒歩連絡。おんなじとしに大津から長浜まで琵琶湖航路も開通して、神戸から敦賀港まで本州を横断する大動脈が完成。 敦賀市内は線路が直線的に北上。はとばにめんして敦賀港駅ができたほか、まちなか気比神宮おおとりいよこに初代敦賀駅ができた。このとき、敦賀港駅はかねがさきえきってなまえだった。 1889年、神戸から新橋まで全線で鉄道開通して、長浜から敦賀港までの区間は、米原から分岐する線路につながるかたちになる。ここで琵琶湖航路は使命をおえる。 |
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第2段階 1896年、初代敦賀駅からみぎに反転分岐するかたちで福井まで鉄道延伸。 ちなみに、1895年にはじめて官有鉄道各線のなまえがきまっただけど、米原から長浜をとおって敦賀、敦賀港までのかんは東海道線にふくまれて、敦賀から富山までのかんが北陸線になった。 |
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第3段階 1909年、長浜方面から福井方面にいくのに、反転分岐せんでもいいように線路がつけかえられて、敦賀駅も、まちなか気比神宮おおとりいよこからまちからみなみにはずれたいまのばしょに移転。長浜方面から敦賀港駅にいくには、敦賀駅でひだりに反転分岐していくかたちにかわった。 |
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第4段階 1912年、長浜方面から敦賀港駅にいくのに、反転分岐せんでもいいように、敦賀駅から敦賀港駅までの線路が全面的につけかえられる。これまでまちなかをとおっていっとった線路が、ひがしにおおきくまわりこんでいくようにかわった。 また、おんなじ1912年に新橋から敦賀港までのかんで欧亜国際連絡列車が運行開始。ウラジオストック直行のふねに連絡し、ウラジオストックからはシベリア鉄道を経由してヨーロッパにつながった。 このかたちがずーっとつづいとっただけど、2019年に敦賀駅から敦賀港駅までのかんが廃止となる。 |
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百年の鉄道旅行 - 敦賀駅と敦賀港線
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1882年~ 1:20,000 正式図 敦賀 1893年測図 1909年発行 |
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1892年~ 1902年頃の地図 敦賀の歴史敦賀市編より |
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1910年 *2 ~ 1:50,000 地形図 敦賀 1909年測図 1914年発行 |
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1912年~ 1:50,000 地形図 敦賀 1932年測図 1934年発行 |
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廃止の貨物線「敦賀港線」、じつはこんなにすごかった!
戦前は「大陸へのげんかんぐち」
- 2019.03.28 のりものニュース編集部
JR北陸本線の貨物支線、通称「敦賀港線」が、2019年4月1日(月)に廃止されます。 - 敦賀駅と敦賀港駅のあいだ2.7kmを結ぶこの路線は、化学工業品や食料工業品の輸送に使用されておりましたが、発送量の減少にともない2009年に貨物列車の運行が休止。敦賀港駅を拠点に、列車ではなくトラックで貨物を輸送する方式に切り替えられました。線路施設を所有するJR貨物は、輸送需要の拡大に取り組んだものの「列車の運行再開に見合う需要を見込めん」ことなどから、休止状態だった敦賀港線を今回、正式に廃止するとしております。
- この敦賀港線は1882年に開業した古い路線です。敦賀港への鉄道は明治維新后にいち早く必要とされ、1869年に発表された日本初の鉄道建設計画でも、現在の敦賀港線を含む「琵琶湖畔~敦賀」が東京~京都間の支線として記載されておりました。
- そして1912年、敦賀港駅は「大陸への玄関口」としての役割も担うことになります。この年、敦賀港とウラジオストックを結ぶ客船に連絡する「欧亜国際連絡列車」の運行が開始され、ウラジオストクからさらにシベリア鉄道を経由し、ヨーロッパへ向かうルートが確立したのです。この経路は本格的な外交を始めた日本にとって重要な役割を果たし、同年には、オリンピックに派遣された初めての日本選手団(金栗四三選手、三島弥彦選手)が敦賀港から客船「鳳山丸」で開催地のストックホルムへ向かっており、その様子は2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』にも描かれております。
- 1917年にロシア革命が始まると、作曲家のセルゲイ・プロコフィエフをはじめロシアの芸術家などが多数、亡命のため敦賀港へ上陸。その頃の欧亜連絡列車や日本の様子は、プロコフィエフの『日本滞在記』(群像社刊『プロコフィエフ短編集』)に描かれております。第2次世界大戦中には、ナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民も、リトアニアのカウナス領事代理だった杉原千畝が発行したビザを手に敦賀港へ。そこから日本国内を通過し、世界各国へ避難していきました。
- 欧亜連絡列車の運行は戦時中になくなり、戦后の敦賀港線は貨物列車のみが走るように(臨時で旅客列車が運行されたこともある)。その運行も10年前に終了し、再開されんまま今回廃止となります。
- 一方で、敦賀港自体は貨物の拠点として好調を保っております。2010年には「敦賀港国際ターミナル」が開業し、5万トン規模の貨物船や旅客船が利用可能となり、入港する船の大型化などで貨物取扱量もさらに増加。2016年度の貨物取扱量は、本州の日本海側に位置する港としては新潟港に次ぐ2位となっております。RORO船(トレーラーなどを直接搭載できる貨物船)や旅客船が中国、韓国、北海道へ就航しとるほか、敦賀港線の廃止と同じ2019年4月1日(月)には、敦賀~博多間の貨物航路も新設されます。
- 敦賀港線の廃止に先立ち、北陸本線の分岐点付近はレールが撤去され、2023年春に予定されとる北陸新幹線の敦賀延伸に向けた工事用地として使われております。一方、敦賀港駅付近では、敦賀港線を使ってSLを走らせ、観光資源として活用する計画も進行中。ただ、敦賀港線全線の一括買取を求めるJR貨物と、必要な箇所のみの買取にとどめたい敦賀市のあいだで合意に至っておりません。
- 敦賀港周辺には歴史ある赤レンガ倉庫や、戦前の姿を再現した「旧敦賀港駅舎」(敦賀鉄道資料館)、先述した杉原千畝の業績を展示した資料館「人道の道・敦賀ムゼウム」など、敦賀の歴史を物語る観光資源が点在しております。137年の歴史に幕を閉じる敦賀港線が今后どう活用されるか、注目です。