2022年3月30日、敦賀までいってきた。北陸線でやまごえをするようすがみたくて、にほんかいにめんした敦賀のまちがどんなまちなのかしりたくて、いってきた。
〔ふるいから米原まで〕〔米原から敦賀まで〕〔敦賀をみてまわる〕[乗車記録]
◇ ◇
ふるいから米原まで
さいしょは西尾線。ふるい6時49分の岩倉いき急行にとびのり。電車は、きんぎょばちのあっかい電車。20秒ぐらいまってしゅっぱつ。いつもよりはよついちゃって定刻になるのをまっとっただ。めずらしいことだ。車内、乗客はたちきゃく3わり。すいとるな。
みなみあんじょうで吉良吉田いきふつうのきんぎょばちといきちがい。きたあんじょうを通過。
名古屋本線と合流するしんあんじょう直前で停止。名古屋方面にいくパノラマスーパーがえきにはいっていくのがみえる。6時57分、しんあんじょうは3番のりばにとうちゃく。パノラマスーパーはまあはいおらん。のってきた電車はまえに2両連結して、まちあい。むかいの4番のりばにはいってきた、一宮いき急行のあっかい電車をみおくり。これにのっていくのが名古屋にいちばんはよつくだけど、すわっていけることを優先してメネットしといた特急をまつ。ところではんたい線5番のりばから、東岡崎いきふつうの鉄仮面がでていく。まちあい線の6番のりばからじゃなくて、主線の5番のりばからふつうがでていくってのがめずらしい。3番のりばにまちあいしとった岩倉いき急行が、岩倉いきふつうにかくさげになってでていく。ほのあとに豊橋方面から岐阜いきふつうのきんぎょばちがはいってきて、まちあい。4番のりばにはいってきた、津島いき急行のあっかい電車をみおくり。また、はんたい線5番のりばに豊川稲荷いき急行のこおろぎ特急がはいってきて、まちあい。特急電車の急行運用で、以前は閉鎖しとった特別車は料金をとって乗客をのせるようになった。じっさい、ようけひとがのっとるわ。ほのこととは関係なく、のりばにおりて安全かくにんするおんなの運転士さんのかっこいいこと。あさのしんあんじょうはみどころがいっぱいで、あきることがない。
さて、4番のりばにしんあんじょう7時9分の岐阜いき特急がはいってきて、のる。電車はパノラマスーパーで、しんがりから2両め特別車2号車4Bの席にすわっていく。みぎ通路がわはしらかげ。みぎがわはぜんぶカーテンがやってあって、そとがみえん。座席は満席。着席通勤の需要はおおきい。
知立に停車。くんだあしを通路になげだしとるひと、かっこわるいな。神宮前に停車。やっと神宮前だ。ここでおりるひともぱらぱらある。金山に停車。だいぶおりて、あいたひだりまどがわはしらまえの席に移動。いや、はやおきしてきたおかげでねぶたいな。ワイドビュー南紀が東海道線からはなれて関西線にはいっていくのをみて、トンネルにもぐる。
7時37分、名古屋にとうちゃく。
新幹線にのりかえ。地上にあがって、広小路ぐちで米原までのきっぷをかう。3,100円。まどぐちのおねえさんのかわいいこと。
ながい通路をとおってのりばにあがって、はいってきた名古屋7時53分の新大阪いきこだま号にのりこむ。
とりあえず3号車まえの喫煙室でいっぷく。ほのまましゅっぱつ。いっぷくしおえて3号車6Eにすわっていく。みぎ2席まどがわ。
みぎ車窓に一瞬清洲城。
木曽川をわたって愛知県から岐阜県にはいる。すぐに岐阜羽島に停車。6分停車のながいこと。ところでそらがくもっとる。はれを期待してきただけどな。
トンネルをでて、みぎ車窓に伊吹山。岐阜県から滋賀県にはいった。
8時21分、米原にとうちゃく。はれとる。
米原から敦賀まで
さて、米原から本州横断だ。かいさつをマナカをかざしてはいりなおして6番のりばにおりて、米原8時34分の敦賀いきふつうにのりこむ。電車はまえがクモハ521-2、うしろがクハ520-2の2両編成521系ステンレス電車。JR西日本の主力電車223系ににとるけど、ちがう電車なだ。直流区間から交流区間にはいっていける電車だっていう。
車内は、しろい内装色にちゃいろい転換クロスシート。シートかたのてすりやつりわがきいろにしてあるのは、どくどくしくてきらいだ。
まあじきしゅっぱつかなっておもっとったとこで、むかいの5番のりばについたこのえきどまりの223系ステンレス電車からおおぜいのりかえてくる。これがただしいのりかえだ。こんどは、となりのしまのむこうがわ8番のりばからJR東海大垣いきふつうの313系ステンレス電車がでていく。大垣よりむこうまでいくひとは、こせんきょうのりかえをしいられるにちがいない。
定刻になって、しゅっぱつ。223系ステンレス電車とすれちがいながら、えきをでていく。運転室助手席がわにある室内ミラーがうえからかぶって、前方視界は最悪。
ひだりにゆみなって東海道線をくぐる。つづけて新幹線もくぐる。いまとおってきた東海道新幹線だ。
坂田(さかた)に停車。はんたい線は米原いきふつうの521系ステンレス電車で、乗客がいっぱいのっとる。
ひだりにふくらんで田村(たむら)に停車。みなみはんぶんだけなかせんがのこっとるのをかくにん。
ここで、米原どまりのしらさぎとすれちがい。名古屋と金沢をむすぶ特急しらさぎだけど、金沢からのはんぶんは米原どまりだ。
車内放送は自動放送。おんなのひとのこえだけど、無機質なこと。
ひだり、旧駅舎のわきをとおって、長浜(ながはま)に停車。どどーって乗客がおりる。湖北の首都長浜だ。
ちょっとまって、しゅっぱつ。
湖北平野をきたにすすむ。
ガーダー橋で姉川(あねがわ)をわたる。このかわをはさんだたたかいで、織田徳川連合軍が浅井朝倉(あざいあさくら)連合軍をくだした。
ひだりにふくらんで虎姫(とらひめ)に停車。なかせんはほとんどが撤去されとるだけど、のこした一部をつかって、のりばのきたのはずれのへんからみぎに分岐してはんたい線にわたるわたり線がある。
河毛(かわけ)に停車。車内はあっついぐらい。
ガーダー橋で高時川(たかときがわ)をわたる。
みぎ車窓かわかみに、みどりいろの鉄骨トラスの道路橋。
高月(たかつき)に停車。しっかりなかせんがある。ここまできて、ついにうわぎを1枚ぬぐ。このへんまできて、左右地形はだいぶせばくなってきとる。
木ノ本(きのもと)に停車。一見なかせんがのこっとるのかっておもったら、きたいきのりばがしましきのりばになっとるだった。はんたい線はかためんのりば。いまは橋上かいさつになっとるけど、むかしはこのかためんのりばがかいさつに直結しとる国鉄がた配線のえきだっただ。
ひだりにゆみなりながら余呉川(よごがわ)をわたる。
余呉(よご)に停車。のりばはしましきのりばで、てまえがわにある構内ふみきりをひだりにわたったとこに駅舎がある。ここで、運転席うしろのブラインドがおりる。
新余呉トンネルにはいる。いよいよ山岳区間だ。ブラインドがおりたのはこのためだ。ところでまえに北陸線を近江塩津(おうみしおつ)からみなみに米原までいったときは余呉トンネルをくぐっただけど、こんどは新余呉トンネルだ。
みぎにゆみなりながら、トンネルをでる。
みぎにゆみなりながら、新祝山(しんほりやま)トンネルをくぐる。これも、やっぱりみなみいき線は祝山トンネルだった。北陸線は当初単線だって、あとからできたきたいき線のトンネルは「新」がついとるみたいだ。
みぎにゆみなりながら、新第1野坂トンネルをくぐる。
ひだりにゆみなりながら、新第2野坂トンネルをくぐる。
みぎにゆみなりながら、新塩津中トンネルをくぐる。
みぎにゆみなっていって、ひだりから湖西線(こせいせん)が合流してくる。
近江塩津(おうみしおつ)は3番のりばに停車。このまえは、湖西線敦賀いき電車をこの3番のりばでおりて、むかいの4番のりばから北陸線みなみいき電車にのりかえた。ほの3番のりばだ。
近江塩津をでて、いくてによっつもトンネル。
ひだりにゆみなりながら、みぎからふたつめの集福寺(しゅうふくじ)トンネルをくぐる。「新」はついてない。
ひだり線をくぐる。なんぼんかの線路が交差しとるだ。
ひだり2線が1線に収束するとこで、でっかい倉庫をくぐる。
みぎ2線が1線に収束するとこで、また、でっかい倉庫をくぐる。分岐器にゆきがかかって凍結することがないようにするための倉庫か。
みぎにゆみなりながら、新深坂(しんふかさか)トンネルにはいる。ながい。
みぎにゆみなりながら、やっとでぐち。滋賀県から福井県にはいった。
きっついみぎ曲線のとちゅう、新疋田(しんひきだ)にとうちゃく。なかせんがある。
新疋田をでてひだりにゆみなっていくとこで、はんたい線がどてうえ高架をあがっていく。
疋田トンネルをくぐる。ここも「新」がついてない。
やまあいをどーってくだっていく。くねくねしながらくだっていく。はんたい線がどこにいっただかわからんだけど、単線をくだっていく。にほんかいにむかってくだっていく。
まんだくだっていくとちゅうでふみきりがあらわれる。ふみきりの左右にクルマもおる。
ひだりにゆみなりながら、国道8号線をくぐる。
まちがみえてきたとこで、みぎ、どてうえにはんたい線があらわれる。どこにいっとったのか。
まちにはいって、ひだりに小浜線(おばません)の単線がならんでくる。
おおきくみぎにゆみなっていく。
みぎに巨大な高架構造物。北陸新幹線だ。金沢から敦賀までの延伸開業がきまっとる北陸新幹線だけど、敦賀のえきをすぎたとこまで工事やっとるだ。
さらにみぎにゆみなっていって、敦賀のえきがみえてくる。
敦賀は、5番のりばにとまっとる223系ステンレス電車をみながら、きりかきのりばの4番のりばにとうちゃく。9時21分。
のってきた2両編成521系ステンレス電車の方向幕が、敦賀いきふつうから回送にかわる。
みぎ、どえらいたっかい位置で新幹線えき建設工事中。
ひだりどなりのしまむこうがわの1番のりばに、みずいろのおびのはいった小浜線電車がみえる。
5番のりばにとまっとった223系ステンレス電車がでていく。湖西線経由姫路いき新快速だ。近江塩津から湖西線にはいっていく。
こんどは、むかいの3番のりばに金沢いきしらさぎがはいってくる。
ところで、のりばのベンチにすわって本をよむ恐竜くん。さすが恐竜県だ。
えきはどてうえ高架のえきなだけど、のりばから敦賀のまちはみえん。地平のかいさつにおりるにはちょくせつかいだんをおりるか、またはこせんきょうをわたっていくか。
こせんきょうにあがって米原方面をみると、ゆきののこるおおきなやまがそびえる。
こせんきょうから地平におりて、マナカをかざしてかいさつをでる。860円。ふつうこせんきょうは線路のたかさまでおりるだけど、線路がどてうえにあるため、ほれ以上におりて地平にとうたつする。新幹線えきの開業にそなえてできたこせんきょうなのにちがいない。在来線だけなら地平通路でそれぞれののりばとかいさつをむすんどやほいですむ。かいさつは、いかにもむかしながらの北陸線のかいさつってふぜい。
敦賀をみてまわる
かいさつをでたとこで、えきの時刻表をみてみる。北陸線は、あかじになっとるしらさぎとサンダーバードばっかりだ。小浜線は1日12本しかない。こんな状態でべつせんで新幹線なんかつくったら、在来線がやっていけるはずがない。新幹線ができて鉄道がほろびるの図だ。えきのひだりどなりにオルパークって施設があって、ほの外壁にでっかく「金沢~敦賀間|2024年はる開業予定!|北陸新幹線」の文字。にがにがしいかぎりだ。敦賀までが東京の勢力圏にはいって、名古屋や大阪とのむすびつきがよわくなる。えきまえロータリーからまっすぐのびるひろいとおりがえきまえゆめさきどおり。みぎに平和堂アルプラザもみえる。
オルパークんなかに観光案内所があって、そろいの制服をきたきれいなおねえさんもふたりおる。かねがさき(金ケ崎)のへんにいきたいことをつたえて地図をもらって、3番のりばから10時10分にバスがでることもおしえてもらう。バスの時間までオルパークんなかでみやげもんをちょこっとみてまわる。塩荘ってみせでへしこをうっとって、かう。みせばんのおねえさんにふなずしはくえんけどへしこならくえるだらあってきいて、かう。ほいから、このおねえさんからきいて、敦賀のことばが福井のことばともちがうことをかくにん。敦賀のことばも関西のことばとおんなじだ。このおねえさんは小浜のひとだって、やっぱり関西のことばとおんなじことばをつかっとるだげなけど、福井のことばはわからんこともあるとのこと。越前のくににありながら福井のことばとちがうことばをはなす敦賀。このため、敦賀をのぞいた越前を嶺北(れいほく)、小浜を中心とする若狭のくにに敦賀をくわえて嶺南(れいなん)っていって、福井県をふたつにわけることがおおい。天気予報でみみにする嶺北地方、嶺南地方だ。
さて、3番のりばにバスがきてのりこむ。バスはちびっこバス。さきぜんで200円。1日乗車券で500円だけど、3回ものりそうにない。えきまえゆめさきどおりをまっすぐにしにすすむ。車内、自動放送で「敦賀はみなとと鉄道のまち」って案内がながれる。白銀(しろがね)交差点を右折。本町2丁目商店街をきたにはいっていく。すぐひだりに北陸銀行。電柱もなく、はばのひろい歩道のついたとおりだ。車道は中央分離帯ありのかたみち2車線で、歩道とのあいさに駐車帯まである。しかも、縦列駐車じゃなくて垂直にならんでクルマがおけるようになっとる。ほいから歩道はずーっとアーケードになっとる。ゆきぐにのがんぎアーケードってことか。とおりは本町1丁目商店街にかわってすすんで、気比神宮(けひじんぐう)バス停に停車。みぎ45度にめっちゃりっぱなあっかいとりい。気比神宮交差点を左折。かぐら1丁目商店街をにしにはいっていく。また、交差点を右折。相生町商店街をきたにはいっていく。博物館通りバス停を通過してすぐに右折。
ひがしにすすんでいって、線路をよこぎる。いまはつかわれとらん線路だけど、こんなとこに線路がとおっとるとはおもわんかった。線路をよこぎってすぐひだり、かねがさきぐう(金崎宮)バス停にとうちゃく。ここまでのってきたバスは、バス停のあるひろばで転回して線路をよこぎりかえしていく。さて、こっからかねがさきじょう(金ケ崎城)にのぼっていくぞ。
なんの予備知識もなくここまできて、ひろばにあった説明がきをよんでみる。「南北朝の時代、かねがさきじょうには新田義貞(にったよしさだ)が南朝軍としてろうじょう。また、戦国時代、信長がこのしろをおとすも、浅井長政(あざいながまさ)のうらぎりにより退却を余儀なくされる。これを『かねがさきののきぐち』っていう」とのこと。いや、新田義貞のはなしはぜんぜんしらんかった。1300年代初期のはなしだ。ほんなむかしっからの歴史をもったしろなだ。かねがさきののきぐちのことはきいたことがあった。ここでは信長は退却を余儀なくされただけど、あとで姉川のたたかいでついに浅井朝倉連合軍をくだしただ。
かねがさきじょうをのぼっていって、とちゅう敦賀のまちとみなとをみおろす。とおくにゆきののこるおおきなやまがそびえる。敦賀のえきのこせんきょうからみたあのやまだ。
りっぱなとりいをくぐって、かねがさきぐうにおまいり。祭神(さいじん)は尊良親王(たかながしんのう)。新田義貞は后醍醐天皇(ごだいごてんのう)のみこ尊良親王と恒良親王(つねながしんのう)を奉じてかねがさきじょうにろうじょうしただけど、ほの尊良親王だ。
かいまみたおくの本殿のおおきさにびっくり。ひらいり銅板ぶき、垂直ちぎかつおぎつきの本殿なだけど、これまでこんなにおおきい本殿をみたことがない。
さんぽのおやことすれちがったりしながら、また、やまをのぼっていく。
はあ、はあ、、、やまをのぼりつめて、月見御殿(つきみごてん)にとうちゃく。ここが、南北朝時代のかねがさきじょうの本丸だ。
月見御殿からきたに敦賀湾をみはらす。とおがすむ左右のやまにはさまれて、まったいらな濃紺のいりえがひろがる。これがいちばんみたかったけしきだ。
バス停のあるひろばまでおりたとこで、旧敦賀港駅(つるがみなとえき)ランプごやを発見。北陸線敦賀長浜間が開業した1882年にできたもんだっていう。いや、敦賀港ってえきがあっただ。
いまはつかわれとらん線路をよこぎって、みなとのほうにいく。
あかレンガ倉庫がある。
みちのみぎがわに、4棟の復元たてもん。むこうから、敦賀税関旅具検査所、敦賀港駅、大和田回漕部、旧露国義勇艦隊事務所。よこぎってきた線路がこのうらまでのびてきとるだけど、ここに敦賀港駅があっただ。みちのひだりがすぐはとばで、ここで列車からふねにのりかえれただ。説明がきに、「欧亜国際連絡列車が運行しとった大正から昭和初期にあったたてもん群を当時の位置に復元した」ってかいてある。ただ、ふねにのりかえれたってだけじゃなくて、さらに大陸までいってヨーロッパいきの列車にのれただ。なんなのかわからんけど、露国義勇艦隊事務所ってのもあった。きたににほんかいをわたっていったとこがロシアだ。いや、敦賀湾はロシア、ヨーロッパへのげんかんぐちだっただ。
説明がきに、むかしの写真もある。えきとふねがこんなまぢかにあっただ。
みなみがわのはとばにまわっていくとちゅう、休憩所でひとやすみ。ここでみせばんのおばさんにきいてみる。敦賀のまちなみをへだてたみなみがわにそびえる、あの、ゆきののこるおおきなやまのなまえだ。どっからでもみえるあのやまのなまえがしりたかった。のはらののに、さかみちのさか。やまのなまえは野坂山(のさかやま)だった。のどのつっかえがとれた。
みなみがわのはとばから敦賀港をながめる。
みぎ、とおくにしろいふねがふたつ。海上保安庁のえちぜんとつるが。
ひだり、はとばにくっついて、これも海上保安庁のほたか。みっつのふねがしっかり敦賀湾をまもる。にほんをまもる。
にしにあるいて、復元した敦賀港駅舎を発見。さっきもあっただけど、さっきのはもともとあったばしょに復元したもんで、これはべつのばしょに復元したもん。ただ、こっちのがより精密に復元してあるみたいだ。なかは敦賀鉄道資料館になっとるだけど、ざんねんなことにきょうはすいようびでていきゅうび。
昭和橋をにしにわたって、きらめきみなと館のなかからほたかのうかぶ敦賀港をながめる。うしろにかねがさきじょう。
かねがさきじょうと敦賀湾にまんぞくして、えきにかえることにする。バスできたけどかえりはあるいていく。さくらどおりをしばらくみなみにあるいていって、ななめのつきあたりT字を鈍角に右折。すぐにみぎに敦賀郵便局。敦賀消防署気比分署。敦賀警察署神宮前交番。ちゃんとひらがながきで「こうばん」ってかいてあるのがいい。ひだりに気比神宮。
気比神宮西南の気比神宮交差点からにしにかぐら1丁目商店街がのびていくだけど、はいってすぐのとこにみつけたにほん料理やまともってみせにはいって、あなごてんどんを注文。ごちそうさまでした。
はらごしらえができたとこで、気比神宮にいく。バスからもみえたりっぱなあっかいとりいをくぐって、境内にはいっていく。
おくにすすんで拝殿からおまいり。
拝殿からみぎにひがしもん。ひがしもんから左右に回廊がつながっとって、すてきなたたずまいだ。
おまいりをおえて、気比神宮交差点からみなみに本町1丁目商店街をあるいていく。ほのまま本町2丁目商店街にかわって、みぎに北陸銀行のでっかいビル。福井銀行のちいさなビル。ココイチ敦賀本町店。ひだりにでっかく平和堂アルプラザ。白銀交差点を左折してえきまえゆめさきどおりにはいるとこで、外国人のおんなのひとに神社へのみちをきかれて、おしえてあげる。気比神宮だよねっていっても神社としかいわんかっただけど、いまいってきたばっかりの気比神宮をおしえてあげた。
えきまえゆめさきどおりをひがしにすすんで、敦賀駅にとうちゃく。オルパークんなか、へしこをかった塩荘にはいって、こんどははぶたえもちをかう。定番のはぶたえもちだ。つづいて、えきまどぐちのきれいなおねえさんからかえりのきっぷをかう。いきは北陸線をふつうできたけど、かえりはしらさぎをつかう。しらさぎは名古屋いきだけど、米原で新幹線にのりかえて名古屋までいくことにする。在来線特急から新幹線へののりかえわりびきがきいて、名古屋までしらさぎをのりとおしていったばあいにくらべて280円たっかいだけで24分はよつく。これはジョルダンがおしえてくれた。きっぷをかっといて、えきまえの喫茶店でいっぷく。スナックっぽいふんいきのみせで、喫煙可能店がうれしい。野坂山のことをママさんにいうと、このやまが敦賀のしょうちょうだっていう。郵便番号とおんなじ914メートルだってこともおしえてくれる。ただ、ホテルが建設中でこのみせからはみえんくなっちゃったとのこと。ほいから、みせんなかにはりだしてあったむかしの地図のなかに、気比神宮のとなりに敦賀駅があるのを発見。むかしは北陸線の経路がいまとはちがっとっただ。
いっぷくをおえて、えきのかいさつをはいる。
(さんこう)
- 乗車記録 - 2022年3月30日、すいようび、平日
- ふるい 6:49 → (名鉄西尾線=岩倉いき急行) → 6:57 しんあんじょう
〔5.7キロ、8分、時速42.8キロ〕 - しんあんじょう 7:09 → (名鉄名古屋本線=岐阜いき特急【特別車2号車4B *1】) → 7:37 名古屋
〔29.7キロ、28分、時速63.6キロ、ふるいから名古屋まで1,040円(乗車料金680円+特別車料金360円)〕 - 名古屋 7:53 → (東海道新幹線=新大阪いきこだま号【自由席3号車6E *2】) → 8:21 米原
〔66.2キロ、28分、時速141.9キロ、3,100円(乗車料金1,340円+自由席新幹線料金1,760円)〕 - 米原 8:34 → (北陸線=敦賀いきふつう) → 9:21 敦賀
〔45.9キロ、47分、時速58.6キロ、860円〕
- ふるい 6:49 → (名鉄西尾線=岩倉いき急行) → 6:57 しんあんじょう
- 敦賀港駅ほか復元たてもん - 説明がき
- 湖西線のふうけいと今津のまち - 2022年3月みっか - あきひこゆめてつどう|2022/03/09
- 近江今津から米原まで
- むかいの4番のりばにとまっとった、近江塩津14時7分の姫路いき新快速にのる。さっきすれちがった姫路いき新快速は湖西線経由だけど、これからのる姫路いき新快速は米原経由だ。いや、ほれにしても、対面のりかえのらくらくなこと。乗客の利便性をこうりょすることなく、かたくなにこせんきょうのりかえをさせつづけるJR東海もこれをみならったらどうだ。
- 敦賀市は越前ですか若狭ですか/敦賀は越前なのですが嶺南に属します - オリス腕時計通販や時計の修理を福井県でおこなってますジュエリータイムムラタです|2013年10月5日
- JR西日本521系電車 - Wikipedia
- 金崎宮-かねがさきぐう-
- 金ケ崎城 - Wikipedia
- 敦賀あかレンガ倉庫 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2022/04/04 〔ついか〕
- 敦賀港にうかぶ海上保安庁のふね - おぼえがき(ゆめてつどう)|2022/04/04 〔ついか〕
- 敦賀からのかえり - 2022年3月30日 - あきひこゆめてつどう|2022/04/05 〔ついか〕
- 敦賀の鉄道のうつりかわり - あきひこゆめてつどう|2022/05/06 〔ついか〕
- 敦賀の鉄道 〔ついか〕
- 1870年11月イギリス公使パークスは三条実美、岩倉具視等に東京-神戸と敦賀-琵琶湖間の鉄道建設の必要を説いた。翌年、鉄道布設のための調査が始まった。日本海側最初の布設となる。また、琵琶湖の東岸か西岸かの論議があったが、東海道線(中山道)等の連結を視野に入れることで、東岸に決まった。また、敦賀~滋賀県間の山越えも重大な問題であった。
- 敦賀へのルート決定
当初の計画は長浜を経て現在線より西寄りを通り、木ノ本の西2kmの西山から西へ曲り、琵琶湖岸に出て湖岸に沿って塩津に至った。西山-塩津間には1/66勾配のトンネルもあって、敦賀-琵琶湖間の最短ルートという考え方であったが、琵琶湖の水運、敦賀への最短距離よりも勾配を重要視せにゃいかんことから、塩津経由に拘らず、他のルートの調査も行なわれた。山越えの勾配がもっとも低い柳ヶ瀬ルートが採用された。 - 柳ケ瀬線開通時、敦賀駅は気比神宮前にあった。北陸線伸長に伴って現在位置に移転し、港への線は港線(支線)となった。
- 欧亜国際連絡線
日露戦争の勝利によるアジア、満州の権益の獲得とロシアのシベリア鉄道の解放が相まって東海道線~北陸線~敦賀ウラジオストック間航路~シベリア鉄道~ヨーロッパの欧亜国際連絡線構築が進められた。 - 日本最初のポートトレン
第2次世界大戦以前は、海外旅行はほとんど船便だった。従って、日数も運賃もかかる海外旅行は一般的ではなかった。ボートトレインは、都市から港までの便を図って運行されることになったものでもある。1912年、敦賀~ウラジオストック間の運航日に連絡する東京駅-金ヶ崎駅(現・敦賀港駅)間の列車が運行された。