まあはい2年もまえだけど鉄道ジャーナル2021年2月号にのっとった草町義和さんの「三岐鉄道は『岐』より『四』か」って記事がおもしろく、紹介しとく。三岐をなのりながら岐にたどりつかんかったことはしられとることだけど、計画段階じゃあ起点もいまの富田(とみだ)じゃなくて四日市だっただ。
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三岐鉄道は「岐」より「四」か
公文書でたどる鉄道裏史 (11)
草町義和
鉄道の会社名や路線名には、起点と終点の地名を合成したものが比較的多い。JR埼京線は「埼」玉と東「京」だし、京成電鉄は東「京」と「成」田だ。ただ、名前は合成だが現実には合成できんかった路線もある。
セメント貨物輸送で知られる三岐鉄道の三岐線 |
三岐鉄道が運営する三岐線。大口のセメント貨物輸送に支えられとるイメージが強い、三重県北部の私鉄線だ。営業区間は関西本線の富田駅から西北へ26.5kmの西藤原駅までで、すべての区間が三重県内に収まっとる。しかし当初の計画では西藤原駅からさらに北上して、東海道本線の関ケ原駅(岐阜県関ケ原町)につながる計画だった。「三」重県と「岐」阜県を結ぶ計画だったから「三岐」というわけだが、いまは社名と路線名に当初計画の形跡が残るだけになっとる。
この三岐鉄道の名前の由来は割と有名だが、幻に終わった西藤原~関ケ原間の詳細なルートや設置予定駅を調べたことはなかった。2020年11月某日、そのルートを調べるため国立公文書館を訪ね、閲覧室のパソコンで検索。簿冊の題名に「三岐鉄道」が含まれとるものだけでも、昭和初期の1928年から1970年に作成された12冊がヒットした。
国鉄予定線をベースに複数の支線
まずは関係文書の簿冊のうち、最も古い「鉄道免許・三岐鉄道1・昭和3~6年』を閲覧。目次の次に現れたのは地方鉄道布設免許の下付を公告するために制作された官報掲載案の文書だが、その名前は三岐鉄道ではなく「藤原鉄道」だった。
それによると、藤原鉄道は動力が蒸気と電気の併用、軌間は3尺6寸(1067mm)で、これは現在の三岐線やJR在来線と同じだ。ところが、起終点は「三重県四日市市~岐阜県不破郡関ケ原町」「三重県四日市市〜同県三重郡塩浜村」「三重県員弁郡大長村~同県三重郡富田町」「三重県三重郡三重村~同県同郡川島村」の4区間、延長は48マイル28チ ェーン29リンク(約77.7km)となっとる。てっきり富田~関ケ原間のみ計画され、このうち岐阜県寄りの西藤原~関ケ原間のみ実現せんかったと思っとったが、実際は四日市~関ケ原間をメインルートとし、ここから支線が複数分岐する計画だったのだ。
三重県北部の西側には鈴鹿山脈があり、その一角を構成する藤原岳はセメントの原材料である石灰石で構成されとる。そのため、小野田セメントと浅野セメント(両社とも現太平洋セメント)が藤原岳の権益を確保しようと激しく争った。1927年3月、小野田セメントがセメント輸送を目的とした員弁鉄道として富田~藤原間の地方鉄道敷設免許を申請。これに対して浅野セメントも藤原鉄道(旧)の名で四日市~関ケ原、四日市~塩浜、富田~大長の3区間の鉄道布設を申請しとる。
藤原鉄道(旧)が申請した四日市~関ケ原は、大正期の1922年に公布、施行された改正鉄道布設法の国鉄予定線(四日市~関ケ原~木ノ本)と重なる。同法では地域内の交通を目的とした予定線は地方鉄道法に基づく鉄道、つまり私鉄線として免許することも可能と定めとった。藤原鉄道(旧)の申請もこの規定に沿っとる。
免許の官報掲載案 藤原鉄道(三岐鉄道)は三重~岐阜の1線だけでなく複数の区間の免許を取得しとった |
しかし、半年后には三重県の調停で両社の鉄道計画を一本化することが決定。1927年11月15日、小野田・浅野両社の関係者と地元有力者を発起人とする藤原鉄道(新)として改めて申請され、翌1928年6月9日に免許された。藤原鉄道(新)の発起人は、免許取得から3か月后の1928年9月20日、運営会社を設立。社名を三岐鉄道としとる。
簿冊に綴じ込まれた文書によると、1929年4月30日付けで起業目論見の内容が変更されており、路線の構成や名称が一部変わった。この時点の免許線のルートを現在の地図に当てはめてみると、おおむね次の通りになる。
四日市線 | 四日市~常磐~保々~大長(現在の北勢中央公園口駅) |
富田線 | 富田~保々 |
藤原線 | 大長~西藤原~関ケ原 |
川島線 | 常磐~川島 |
旭浜線 | 四日市~北旭~四日市港塩浜地区 (関西本線の東側を通るルート) |
連絡線 | 四日市~北旭 (関西本線の西側を通ってから関西本線と交差して旭浜線に合流するルート) (免許上は旭浜線の支線扱いか) |
国鉄関西本線との接続地点は富田駅だけでなく四日市駅もあり、さらに四日市港への路線も計画されとった。
三岐鉄道の計画(戦前)で実現せんかった区間(赤)(※ 国土地理院の地図を加工) |
保々駅の富田寄りにある車両基地 線路はこの奥で富田方面と四日市方面の二手に分かれるはずだった |
四日市線と市線と川島線の接続地点である「常磐」は、現在の四日市市ときわ5丁目付近(四日市あすなろう鉄道内部線の赤堀駅から西へ約900m)。「川島」も四日市市内の川島町(近鉄湯の山線の伊勢川島駅から南へ約700m)あたりとみられる。この当時、浅野セメントは川島町にセメント工場を建設する計画を持っており、川島線は工場に接続するための路線だ。なお、后述する平面図によると、連絡線はのちにルートが変更されており、四日市線の常磐寄りから旭浜線の北旭駅に入るルートに変わっとる。
「焦り」がうかがえる対岸の鉄道
簿冊を読み進めていくと、北勢鉄道の専務取締役が小川平吉鉄道大臣に宛てた「陳情書」が現れた。日付は1928年2月23日で、 藤原鉄道の免許取得4か月前だ。
藤原鉄道の計画に懸念を示す北勢鉄道の陳情書 |
今般藤原鉄道ニ於テ御省御計画ニ比シ弊線ニ密接シ且長区域ニ亘ル併行路線ヲ出願セラレ候ニ付テハ之レガ実現ノ上八弊社ノ蒙ル影響一層甚大ナルモノ可有之晏如タルヲ得サル儀ニ御座候
藤原鉄道ノ企画セラレシ当初ニ於テ弊社ノ営業路線二改良変更ヲ施シ弊線ヲ利用セラル意嚮ナキヤヲ質シ当県知事ニ陳情シタル次第モ有之候
一国ノ見地ヨリシテ地方ノ文化産業開発ノタメ国有鉄道ノ新設ヲ企画セラルルハ誠二慶スヘキ施設ニシテ仮令之レガタメ一地方鉄道タル弊社ノ経営二打撃ヲ蒙ルコトアリト雖モ影響ノ程度ニヨリテハ買収法、補償法等ニヨリ既設鉄道ヲ保護セラルル主意明カニシテ救済緩和ノ恩典ヲ付典セラルルニヨリ此点意ヲ安ンスル儀ニ御座候
然レトモ営利ヲ目的トスル鉄道会社ノ出現ニヨリ幾多ノ苦節ヲ経テ漸ク順調ニ進ミツツアル弊社既得優先営業二蹉跌ヲ来シ会社ノ存立ヲ脅カスガ如キ事態ニ到ラバ弊社ノ苦境ハ基ヨリ地方沿線ノ経済上憂慮スヘキ結果ヲ招来セザルヤヲ保シ難ク偏ニ御覧慮ヲ仰ク所以ニ御座候
御審議ニ際シ是等弊社既得ノ営業上利害得失ニ付深甚ノ意ヲ加ヘラレ万全ノ御配慮賜り度此段陳情仕候
北勢鉄道とは、員弁川の西側を通る現在の三岐線に対し東側の北勢線を運営しとった私鉄。現在の三岐鉄道北勢線だが、当時は藤原鉄道の計画と競合する既設線で、1916年までに現在の終点阿下喜駅付近を除く、ほぼすべての区間が開業しとった。
陳情書は旧字混じりの漢文調で分かりにくいが、それでも藤原鉄道の計画に対する「焦り」が十二分に伝わってくる。当時の北勢鉄道は動力が蒸気で、軌間762mmのナローゲージ。藤原鉄道の輸送力や運行速度には太刀打ちできそうになく、陳情書で会社経営の危機を強調したのだろう。しかし、簿冊には北勢鉄道への影響があることを示す調査資料が綴じ込まれてはおったが、鉄道省が北勢鉄道に強く配慮した形跡はうかがえんかった。
当時の小川鉄道大臣は、全国各地の起業家による鉄道布設の申請に対し、採算性や既設路線との競合の有無など十分に吟味せず免許を乱発。その揚げ句、五私鉄疑獄事件という汚職事件を引き起こした人物としても知られる。藤原鉄道の申請がすんなり認められたように見えるのも、小川の存在が大きかったのだろうか。
文書が少ない関ケ原側
それにしても三岐の「岐」、つまり藤原線のうち岐阜県寄りの区間に関する文書が少なく、幻に終わった西藤原~関ケ原間の詳細なルートを示した図面も出てこん。時系列で簿冊を読み進めるつもりだったが、つい気になって1冊目と2冊目を飛ばし、3冊目の『鉄道免許・三岐鉄道3・昭和10~12年』の簿冊を開いてみたところ、青焼きコピーの大きな平面図が収まっており、そこに詳細なルートと駅の位置(距離は四日市起点)が記されとった。
三岐鉄道の平面図(関ケ原寄り) |
西藤原停車場 | 31.2km |
篠立停車場 | 35.5km | |
古田停車場 | 36.9km | |
時村停車場 | 39.9km | |
前瀬停車場 | 42.7km | |
上原停車場 | 44.0km | |
川東停車場 | 48.2km | |
二又停車場 | 50.5km | |
上野停車場 | 51.9km | |
関ケ原停車場 | 55.6km |
おおむね現在の国道365号に沿って北上するルートだが、上原~川東間は狭い谷間を急カーブの繰り返しで進むルートが描かれとる。実際に着工しとれば、西藤原以南に比べ相当な難工事になったに違いない。
三岐鉄道は1929年8月27日に起工式を開催。翌1930年9月に保々~東藤原間の土木工事が完成し、1931年2月には富田~保々間の土木工事も完成しとる。しかし、四日市線と旭浜線は四日市市の都市計画との調整が難航したようで、工事がほとんど進まんかった。浅野セメント川島工場につながる川島線も、地元住民とのトラブルがあって建設できん状態だったようだ。
結局、国鉄富田駅を起点とするルートが先行して整備される格好となり、1931年7月23日に富田~東藤原間が開業。同年12月21日には東藤原~西藤原間も開業した。この時点ではガソリンカーによる旅客列車と蒸気機関車牽引の貨物列車が運転を開始。翌1932年12月には小野田セメントの藤原工場が操業を開始し、1933年1月からセメント輸送が始まった。
四日市・富田周辺の未開業線 (赤=戦前の計画/青=戦后の計画) (※ 国土地理院の地図を加工) |
大口貨物のセメント輸送開始で経営が安定した三岐鉄道だったが、残る未開業線を建設するめどは立たんまま推 移した。結局、1935年6月26日、四日市線の免許が取り消されとる。また、浅野セメントは川島への工場建設を断 念し、四日市港の埋立地への進出を計画。これにより川島の建設も不要となったため、同年12月13日に同線の起業廃止手続きが取られた。続いて1937年11月26日には、西藤原~関ケ原間の免許が失効し、社名の「三岐」直通も幻になった。
最后に残った旭浜線は、浅野セメントが進出を計画した四日市港の埋立地に延びる路線だが、これも重要産業統制法により工場の新設が禁止されたため、同社は最終的にこの地域から撤退。旭浜線の建設も不要となり、1940年4月22日付けで免許失効となった。
この頃になると、戦時体制を背景にした交通統合の流れが勢いづき、1942年には閣議で三重県内の旅客鉄道運輸事業の統合が決まった。三岐鉄道としては統合に反対の立場から関係者との調整を行い、軍事上重要な鉱石輸送を担う鉄道会社であり、統合による輸送の混乱と遅滞を避けるための措置ということで、終戦まで統合が行われることはなかったという。
戦后も四日市を目指す
こうして三岐鉄道の路線は、三岐線の富田~西藤原間で固定化。戦后はガソリンカーのディーゼル化(1951年)や旅客列車の関西本線富田~四日市間への乗り入れ(1952年)、電化工事の完成による電気機関車導入(1954年)、旅客列車の電車化(1956年)と、既設路線の改良や車両の更新が続いた。しかし1958年1月31日、三岐鉄道は富田~四日市間を結ぶ新線(四日市新線)の地方鉄道免許を取得しとる。
富田~四日市間の新線計画は関西本線に並行するルートだった |
四日市新線は、小野田セメントが四日市港にセメントサービスステーションを設置することや、知多半島に進出する東海製鉄の製鉄用石灰石を四日市から海上輸送することになったことから、三岐線と四日市を直結する自社路線として計画された。経路は大きく変わるものの、再び四日市市内への乗り入れを目指したのだ。もっとも、国立公文書館が所蔵する薄冊のうち『免許・三岐鉄道・昭和32~33年』に綴じ込まれた文書に描かれとる略図を見ると、関西本線に並行する赤い線が描かれとるだけ。すでに旅客列車による関西本線への乗り入れが行われとったが、貨物列車の輸送力を確保するため、ダイヤ上の制約が少ない自社路線を建設しようとしたのだ。
富田~富洲原間を結ぶ戦后の新線計画の平面図 |
翌1959年8月7日には、富田駅と近鉄名古屋線の富州原駅(川越富洲原駅)を結ぶ新線(富州原新線)の地方鉄道免許も取得しとる。この免許線の平面図は『免許・三岐鉄道・昭和34~36年』に綴じ込まれており、それによると富田駅からスイッチバックするようにして富州原駅に入るルートが描かれとった。当時の関西本線は旅客列車の運転本数が少なく、三岐鉄道の旅客の多くは富田駅から近鉄富田駅まで歩いて頻発運転の近鉄名古屋線に乗り換えとった。そこで三岐線の旅客列車を近鉄名古屋線の駅に直通できるよう、富州原新線が計画されたのだ。
こうしてみると、三岐鉄道は岐阜への進出よりも三重県内での路線拡張、とくに四日市港に強い関心を持っとったように思える。同港は明治初期に大規模な改修工事が行われ、本格的な港湾として発展。明治后半の1899年には国際貿易港になっており、セメント生産地と国際貿易港の直結が何よりも重要と考えとったのだろう。
しかし、この二つの新線も幻に終わった。まず1965年3月22日、富州原新線の起業廃止手続きが取られた。貨物輸送量の増加で、富田駅構内での旅客列車と貨物列車の輻輳が懸念されたためだ。一方、四日市新線は関西本線に並行するルートで用地買収と土木工事が進められたが、石灰石の出荷計画が中止されたため、1968年12月23日に起業廃止となった。建設用地は関西本線の複線化計画により国鉄に譲渡されたという。これに先立つ1964年には、三岐線の旅客列車の四日市乗り入れも終了した。
新線は実現せんかったが近鉄富田駅で三岐線の旅客列車(左奥)と近鉄名古屋線の連絡が図られた |
その代わり1969年6月19日、近鉄富田~三岐朝明(現信号場)間を結ぶ近鉄連絡線の免許を取得。貨物列車に干渉せずに近鉄名古屋線に接続する旅客列車専用ルートが整備され、1970年6月25日に開業した。1985年にはすべての旅客列車が近鉄富田発着になり、富田発着は貨物列車専用になっとる。
なお、三岐線との競合を懸念した北勢鉄道は、のちに三重交通への統合を経て近鉄と合併。北勢線も近鉄が運営する路線になった。しかしナローゲージという特殊な規格が災いして赤字経営が続き、2003年には三岐鉄道に移管された。移管后もナローゲージのままだが、国や沿線自治体の支援を受けて、曲線緩和や新駅設置などの改良が進んどる。北勢鉄道の陳情書では、藤原鉄道の代替として北勢線の改良案を三重県の知事に提案したというようなことが記されとるが、80年以上かかって改良が実現したといえるかもしれん。
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(以下原本写真)