いまも 半島を はしる 島原鉄道

島原 半島の きたがわを はしる 島原鉄道って いう 鉄道が ある。半島の ねもとの 諫早 (いさはや)から 半島の ひがしがわの 終点 島原外港 (しまばらがいこう)までの 43.2キロを むすぶ、全線 単線 非電化の 私鉄 路線だ。かつては 島原外港から さらに 半島を みなみに すすみ 加津佐 (かづさ)までの 路線が あった。諫早から 加津佐まで 78.5キロ。

島原鉄道 路線図 (あきひこ)
島原鉄道 路線図 (あきひこ)

まあ ちょっと 島原鉄道に ついて 説明する。

まず、あの 「まぼろしの 邪馬台国」を かいた 宮崎康平が、戦後 すぐの 時代に 役員を つとめたって ことが あげられる。映画にも なっとって、おくさん 役の 吉永小百合さんの きれいな ことに おどろいた もんだ。 

つぎに 国鉄との 関係。起点の 諫早は JR 長崎線から 大村線が 分岐する 駅でも あり、ここで のりかえて 博多や 長崎、佐世保に いける。実際 1980年までは 島原鉄道から 当時の 国鉄に のりいれて、博多や 長崎まで 直通 運転する 列車も あったって いう。

また、1991年から なんかいかの 雲仙普賢岳 (うんぜんふげんだけ) 火砕流に よる 路線 寸断を のりこえて 運行 再開に こぎつけた ものの、2008年 3月 31日には 島原外港から 加津佐までの 35.3キロが 廃線に なって、運行 再開の ために 鉄道を 高架に したり した 費用も むだに なっちゃった。

ほれでも のこった 諫早-島原外港の あいだの 1日の 運行 本数は くだりで 31本、のぼりで 30本と、まあまあの 本数が ある。1時間に 1、2本って ぐらいで、1日 10本 ぐらいしか ない ような 三セク 鉄道とは ちがって、まあ なんとか 実用に たえる。  

島原鉄道の 歴史〕
  • 1908年 5月 いつか、島原鉄道株式会社 設立。
  • 1911年 6月 はつか、島原鉄道 本諫早-愛野村 (現在の 愛野)間 10.9キロが 開業。
  • 1913年 9月 にじゅうよっか、島原鉄道 諫早-島原湊 (現在の 南島原)間 42.3キロが 全線 開業。
  • 1919年 4月 とおか、口之津鉄道株式会社 設立。
  • 1922年 4月 22日、口之津鉄道 島原湊-堂崎間 14.6キロが 開業。
  • 1928年 3月 ついたち、口之津鉄道 島原湊-加津佐間 36.2キロが 全線 開業。
  • 1943年 7月 ついたち、島原鉄道口之津鉄道を 吸収 合併。島原鉄道は 諫早-加津佐間 78.5キロに なる。
  • 1958年から 諫早駅より 国鉄 長崎線に のりいれて 長崎までの 直通 運転を 開始。
  • 1960年には 国鉄の 準急 (のちに 急行化)に 併結して 博多までの 直通 運転を 開始。
  • 1980年に 国鉄線への のりいれが 廃止。
  • 1991年 6月 みっか、雲仙普賢岳火砕流南島原-布津間 11.6キロが 運行 休止。おなじ としの 12月 27日 復旧。
  • 1992年 3月 15日、島原外港-深江間 6.4キロが 土石流に より 運行 休止。おなじ としの 4月 じゅうよっか 復旧。
  • 1993年 4月 28日、島原外港-深江間 6.4キロが ふたたび 運行 休止。
  • 1997年 4月 ついたち、島原外港-深江間 6.4キロの 高架化が 完成し 運行 再開。
  • 2008年 3月 31日、島原外港加津佐間 35.3キロ 廃止。同時に のこる 区間 諫早-島原外港間 43.2キロの ダイヤ 改正を おこない、列車を 増発。

ところで つい さいきん、「沿線の みっつの 高校、島原商業高校、国見高校諫早高校の 生徒に 列車内で ながす 観光 アナウンスの 録音を たのんだ」って いう 記事を めに した。通学で つかう 高校生には じぶんたちの こえが 列車の なかで ながれるって ことで、これまで 以上の 愛着を もって もらい、観光客には 高校生の ういういしい かたりを たのしんで もらわあって いう 一石 二鳥 作戦だ。1990年代 はじめに 年間 230万人の 利用者が あった ものが、2012年度には 144万人にまで へっちゃっとるって いうだけど、この 作戦が 成功して ちょっとでも 利用者が ふえる ことを 期待したい。

島原 半島が 鉄道で いける ばしょで ありつづけて ほしい。


(さんこう)