気仙沼線 壊滅的 被害

宮城県の 県都 仙台から 東北 方向、みなみ 三陸 地方に むかう 路線が 気仙沼線 (けせんぬません)だ。まずは 東北本線を きたに すすみ、小牛田 (こごた)で みぎに 分岐し 石巻線 (いしのまきせん)に はいり、前谷地 (まえやち)で ひだりに 分岐し 気仙沼線に はいり、三陸 海岸に たっしてから、南三陸町の 代表駅 志津川 (しづがわ)から 気仙沼に いたる。気仙沼から さらに 大船渡線 (おおふなとせん)で きたに すすみ、陸前高田 (りくぜんたかた)を へて 大船渡市の 代表駅 盛 (さかり)に いたる。盛から きたは 三陸鉄道 南リアス線と なり、釜石に いたる。前谷地から 釜石まで 単線 非電化の 路線だ。



〔仙台から みなみ 三陸 地方の 主要 駅までの 距離〕



  • 志津川まで 89.7キロ

  • 気仙沼まで 128.8キロ

  • 陸前高田まで 152.2キロ

  • 盛まで 172.5キロ

  • 釜石まで 209.1キロ




気仙沼線 路線図 598-520
気仙沼線 路線図

気仙沼市 南部の 気仙沼線 (4月 11日、ちゅうにち)
気仙沼市 南部の 気仙沼線
(4月 11日、ちゅうにち)

南三陸町気仙沼、陸前高田、大船渡と、3月 11日の ひがしにほん地震で おおきな 被害を うけた とこ ばかりだけど、やっぱり 気仙沼線も 壊滅的 被害を うけとった。

  • 2011年 3月 11日 ひがしにほん地震の 発生で 全線が 不通に なる。 (ウィキペディア)
  • とくに、つなみで 南三陸町志津川駅 (しづがわえき)などが 流失、陸前小泉−本吉間の 津谷川橋が おち、各所で 路盤が 流失するなど、沿岸部を とおる 陸前戸倉不動の沢間は 壊滅的 被害を うけた。 (ウィキペディア)

高架の 線路の うえに のっとるのは、つなみで ながされた うちだそうだ。この 写真を みると、がんばれ!って いう ことさえ なんだか かるがるしい ようで きが ひける。


それでも、がんばれ、気仙沼線
がんばれ、東北!




(ねたもと、さんこう)



(ついか)

  • トラベル_温故知鉄 「鉄」記事アーカイブ_【35番線】被災した仙台・気仙沼の鉄道 (文・写真 藤田明人氏)|2011/05/06
    • 気仙沼市内での取材を終えた5月1日、玄関口のJR気仙沼駅に行ってみました。市内中心部は津波で大きな被害を受けましたが、高台にある気仙沼駅は無事で、駅前広場ではタクシーも営業していました。
    • この駅からは、北、西、南の3方向に線路がのびています。北は陸前高田、盛(さかり)方面(大船渡線)、西は一ノ関方面(大船渡線)、南は志津川小牛田方面(気仙沼線)です。
    • このうち、内陸に向かう一ノ関方面は列車が動いていますが、沿岸部を走る北と南方面の線路は壊滅的な被害を受け、復旧の見込みはまったくありません。
    • 北方面に1駅行った鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅に行ってみると、周辺の街並みは津波と火災で焼け野原になっており、駅前には大きな船が流されてきていました。
    • 駅舎はかろうじて形をとどめていますが、中は破壊されてしまっています。中には、近所の焼け跡から見つかったと思われるアルバムや子どものノートが置かれていました。
    • 駅前広場には、焼けこげた消防車がありました。消火作業に駆けつけたものの、火勢の強さに、なすすべがなかったのだと思われます。
    • 次に、南方面の気仙沼線沿いに進んでみました。気仙沼から2駅の南気仙沼駅周辺も、やはり焼け野原になっていました。
    • ホームの屋根は、崩れかかっており、壊れた車が線路をふさいでいます。
    • 南気仙沼駅の隣、松岩駅も、同じような感じで、震災前の風景が想像できませんでした。
    • 松岩駅と最知駅のあいだでは、2両編成のディーゼルカーが津波で流されていました(写真右の盛り土の上が線路です)。
    • JR東日本によると、この列車の乗務員と乗客は、地震発生後避難し、全員無事だったということです。
    • 現場付近では、本来は盛り土の上にあるレールが曲がって、敷地外に飛び出していました。
    • 線路の盛り土は、まるでショベルカーで削り取ったように、大きくえぐられていました。
    • 今回見たのは、被災地全体から見ると、ごく一部の地域にすぎません。が、それでも被害の大きさには、圧倒されました。
    • 気仙沼線が全線開業したのは、1977(昭和52)年12月11日です。
    • 開通前、同11月2日の朝日新聞夕刊に、特集記事が載っているのを見つけました。この記事を読むと、気仙沼線の建設のきっかけが、1896(明治29)年の明治三陸津波だったことがわかります。「鉄道があれば、救援や復旧がもっと速く行えたのに」という沿線住民の思いが、レールをつないだのでした。
      (記事をPDFでご覧ください)
    • 開通後、1978年1月12日の朝日新聞朝刊「ひと」欄では、当時の志津川町(現・南三陸町)の勝倉三九郎町長が「喜色満面」で登場し、列車の大混雑ぶりを話されています。
      (記事をPDFでご覧ください)
    • いま地元では、「廃線になるのではないか」という不安があるそうです。JR東日本はすべての線を復旧する意向を示していますが、今後同じ場所に街並みができるのかなど不透明なところが多く、ハードルは高そうです。なんとか再び鉄路が輝きを取り戻し、列車が多くの人でにぎわう日を待ち望みたいと思います。