いくつかの鉄道をのりついで美濃市(みのし)のえきまでついた。こんかいは、ほの美濃市のえきから美濃町(みのまち)のまちあるきにむかう。
◇ ◇
旧美濃駅
わびしい美濃市のえきまえから、さいしょみぎS字になりながらみぎ45度の方向にすすむ。みぎS字をぬけるとみちはばもひろがって、まっすぐなえきまえどおりにかわる。あのわびしさはきえて、あかるいふんいきのえきまえどおりにかわる。クルマがいきかって、みせや事業所もぽつぽつとある。ありふれた郊外のまちのふうけいだ。みちがきたにむかってくだっていって、ひだりがわに旧美濃駅舎があらわれる。ここまできた長良川鉄道とはべつの、じもとのひとたちのてでつくられた美濃町線(みのまちせん)の終点、美濃駅の駅舎だ。いまは美濃町線も廃止になって、駅舎だけが保存されとる。
玄関わきのいしぶみをよんでみる。「美濃町線の前身は、じもと有志によってたんじょうした美濃電気軌道が、美濃と関を岐阜とのあいだの交流をはかるために1911年2月に神田町(かんだまち)から上有知(こうずち)間を開業した」。上有知ってのはこの美濃町のことだ。長良川鉄道で下有知(しもうち)と中有知(なかうち)をとおってきたことはかいた。下、中があって上がないわけがない。美濃町のむかしのなまえが上有知だっただ。「1923年10月に美濃駅が当所に開設されて…」。美濃駅はなんかいかばしょをかえたすえにここにできただ。「しかし、クルマ社会の進展により、1999年4月ついたちには、美濃町線新関駅(しんせきえき)から美濃駅間が廃線となりました」。かなしいことだ。ちなみに、のこる新関駅から岐阜中心部の接続駅までのあいだが廃止になるのは2005年4月ついたち。
駅舎にはいってかいさつをぬけると、ホームに往年の電車がならんどる。まんだこないだまではしっとった電車だ。筆者が2005年4月ついたちの廃止まぎわにのりにいったときも、こんな電車だった。ほれをあらためてここでみた。おねがいだ。まあいっかいはしってくれ。
(60) モ512 - 説明がき、(61) モ601 - 説明がき
駅舎んなかには実車3両のうちに2両についての説明がきもある。先頭部が流線形のやつがモ512号車。「1926年に製造されたもの。ながいあいだ美濃町線でかつやくしたあと揖斐線(いびせん)へ転属。とくちょうは正面5枚まどの流線形と楕円形のとぶくろまどなどで、大正のふんいきをいまにつたえとる」。先頭部がさきすぼまりに台形になっとるやつがモ601号車。「1970年、美濃町線から田神線(たがみせん)、各務原線(かかみがはらせん)経由で新岐阜へのりいれをするさいに製造された。600ボルト区間と1500ボルト区間を直通するために複電圧車となっとる。美濃町線の主力車両としてかつやくした」。ほかに、美濃町出身の歌手、野口五郎さんの美濃町線によせるおもいをしるした文章もはりだされとった。
(62) 広岡橋(はしをわたったとこでふりかえって旧美濃駅をみたとこ)
旧美濃駅のすぐきたが、長良川の支流にかかる広岡橋(ひろおかばし)。このはしをわたるとみちはのぼりざかになる。きたにむかうのぼりざかの左右はどんどんにぎやかになっていく。みちがせばまって左右にすきまなくみせがたちならぶようになって、T字につきあたる。
二番町どおり
つきあたった東西のとおりはむかしのまちなみだった。化粧をほどこされたはばのひろい舗装道路のりょうがわに、うだつのあがるむかしの商家がずらーってならんどる。T字につきあたるまでもにぎやかだったけど、まちなみは現代のまちなみだった。ほれがこの東西のとおりにでたとたんにむかしのまちなみにかわった。ここまでくるとちゅうにも「うだつのあがるまちなみをあるく」とかいうのぼりばたがところどころにたっとって、どっかにほんなとこもあるのかっていうぐらいにおもっとっただけど、こいだけみごとにむかしのまちなみがつづいとるとはおもわんかった。どのたてもんもくちかけてなんかない。きれいにととのえられとる。このことにもおどろく。
T字は東西のとおりのにしのはずれにちかく、ほっからひがしにむかってすすんでいく。しばらくいってみぎがわに山田家住宅っていう一般公開のたてもんがあって、はいってみる。説明がきに「1721年にできたまち医者のいえ」ってかいてある。
四角錐(しかくすい)のかたちの煙突のさきっぽからひかりがさしこんどるっておもったら、あかりとりだった。すっごいあかるい。とおりに面したおおきなへやがまちあいしつだったへやか。天井はたかく、ほの天井にちかいとこにまどがある。江戸中期にこんなたてもんをつくっとったのか。
ずーっとひがしに、うだつのあがるまちなみがつづく。念のために説明しとくと、うだつってのは、2階部分のとなりのうちとのさかいのとこから、とおりにむかってぴょこんってとびだしとる「こそで」のことだ。防火壁の機能をはたす。あと、となりのうちとのさかいのとこから、うえにつきだしとるかわらののったかべもうだつっていうらしい。どっちもおかねもちじゃなきゃやれんことで、転じて出世からみはなされた状態を「うだつがあがらん」っていうようになった。ぎゃくに、うだつのあがるまちなみのつづくこの美濃町はおかねもちのまちってことだ。
さらにすすんだみぎがわに、平田家住宅っていうたてもんがある。説明がきに「明治初期の大火でこの付近は大半のたてもんが被災しただけど、平田家はほのあとにたてられた」ってかいてある。いや、こそでもかわらののったかべもりっぱなもんだ。
とおりがつきるちょっとてまえのひだりがわに、紙遊(しゆう)っていう美濃和紙雑貨のみせがある。じぶんはひやかしにはいっただけででてきただけど、ほかにおったなんにんかのおんなのひとは熱心に物色しとった。
一番町どおり
東西のとおりがひがしにつきあたったとこで、ちょこっともどって、わきみちをきたにはいってすすんで、また東西のとおりにでる。まちあるきをおえてからわかったことだけど、さいしょにとおったみなみがわの東西のとおりが二番町どおり、これからとおるきたがわの東西のとおりが一番町どおりっていうなまえのとおりだった。一番町どおりは、ちょうどこのとおりにでたとこのきたがわにあった今井家住宅にはいる。やっぱりうだつのあがるたてもんなだけど、いまは美濃資料館になっとって、入場料をはらってなかで説明をきく。
さいしょに座敷にあがって説明をきく。「とこのまの天井の材料は、樹令1,000年をこえる屋久杉の1枚もん。欄間も、かがみやまがたまっていうすごいこったすかしぼりがはいっとる。柾目(まさめ)っていうのは1本のきのうちでちょこっとしかとれん部分なだけど、ひろまの天井のいたがぜんぶ柾目のいたがつかってある」などなど。うだつもふくめて、要はおかねもちじゃなきゃつくれんぜいたくなたてもんってことだ。この美濃町はこんなぜいたくなたてもんがいっぱいたちならぶ。美濃町のみんながおかねもちになった原因が美濃和紙だっていう。「江戸時代は和紙は高級なもんのため、庶民は建具なんかも障子じゃなくていたばりのもんをつかっとった。ほれが明治になって和紙がやすくなって、庶民にもてのとどくもんになった。美濃和紙はおおいにうれて、みんなおかねもちになった」とのこと。なるほど、明治になってこのまちはいっきにとみをてにしただ。ほの繁栄があってこそ、岐阜からこの美濃町につながる鉄道が、岐阜からのはじめての郊外線としてできただ。なっとくがいく。
今井家の障子はさらにこっとる。「かみのつなぎめをわざと桟(さん)と桟のあいだにもってきとるだけど、これは高度なわざがあってのこと」とのこと。「これをちどりばり障子っていって、美濃和紙のちどりばり障子が京都の迎賓館にもつかわれとる」って、館長さんもじまんげだった。
(82) 今井家住宅 - 無双まど、(83) みぎがわをとじたとこ
ろうかのうえの外気導入用のまどもおもしろい。たてに等間隔にすきまのあるひきどが2枚がさねになっとって、これをずらすことで外気の遮断と導入をきりかえる。無双まど(むそうまど)っていうだげなけど、じつにみごとだ。
(76)、(77)、(78)、(79) 今井家住宅 - 水琴窟、【動画】にほんいちすてきなねいろの水琴窟♪
にわにでて、にほんいちすてきなねいろの水琴窟(すいきんくつ)をきいてくれって。うん、いつわりなし。
つぎは、くらを自由見学。座敷から土間におりておくにはいっていくだけど、土間におりるまえのとこで、また、あかりとりがある。山田家住宅でもおんなじやつがあっただけど、もともとはけむりだしのための煙突だったもんを、明治になってガラスがつかえるようになってからあかりとりに転用したとのこと。
土間におりてだいどころをとおっておくにいく。天井につりさがるあかりをおおっとるのは美濃和紙だ。
(87) 今井家住宅 - にわ、(88)、(89) うだつぐら
だいどころからなかにわをへだてて、うだつぐらがある。
うだつぐらからさらにおくにはいったみぎがわに、にわかぐらがある。明治になってにわかにもうかって、にわかにつくることになったで、にわかぐらっていうのか。
ひだりがわはくらとはちょっとちがうたてもんか。美濃資料館の看板がかかっとって、なかにはいってみる。
(92) 美濃資料館 - 階段(1階から2階への階段)、(98-1) 美濃電気軌道に関する展示(2階の展示)
ぐるって1階の展示をみて、秘密基地にあがる階段をあがる。2階の展示品の一部に美濃電気軌道創業時の資料を発見。
美濃電気軌道上有知停留場付近
美濃電気軌道株式会社
上有知(こうずち)電車停車場(1911年)
1911年2月に板取川電気株式会社から電力供給をうけ、美濃電気軌道株式会社(のちの名鉄美濃町線)が設立され、上有知(美濃町)-岐阜間に電車が開通しました。この停車場は現在の米屋町(こめやちょう)に臨時につくられ、1911年4月に上有知町(こうずちちょう)から美濃町(みのまち)に町名を改称すると美濃町電車停車場となり現在の広岡町(ひろおかちょう)交差点にうつりました。開業当初、美濃中学校まえの現在の道路に路線はひかれておりましたけど、国鉄美濃町駅が開業すると、駅舎と路線はひがしへ移設されました。
(93) 美濃資料館 - 上有知停留場付近、(94) 説明がき
美濃町線のさいしょの美濃駅のことがかいてある。ここをあとにするとこでまた館長さんのはなしをきいただけど、さいしょの美濃駅はこの一番町どおり、二番町どおりのあるまちの中心部のごくちかいとこにつくったっていう。米屋町ってのは、まさに二番町どおりのにしのほうのすぐみなみのとこだ。ただしこれは暫定的なもんで、すぐにちょっとはなれたとこにうつったっていう。ほれがこの説明がきにある広岡町交差点のとこだ。米屋町も広岡町交差点もいきにとおってきたとこだ。
美濃電気軌道株式会社
上有知(こうずち)電車停車場
1911年2月に板取川電気株式会社から電力供給をうけ、美濃電気軌道株式会社(のちの名鉄美濃町線)が設立され、上有知(美濃町)-岐阜間に電車が開通しました。この停車場は現在の広岡町(ひろおかちょう)交差点につくられ、1911年4月に上有知町(こうずちちょう)から美濃町(みのまち)に町名を改称すると美濃町電車停車場となりました。
開業当初の路線は岐阜駅前から今小町(いまこまち)間1.4キロの複線と柳ヶ瀬(やながせ)から上有知間24.9キロの単線で営業がおこなわれ、美濃電気軌道株式会社のとりしまりやく7名のうち、松久永助、正木三郎四、須田清英の3名はともに上有知のかみ商人であった。
(95) 美濃資料館 - 上有知停留場、(96) 説明がき
2枚めの写真の説明がきも前段はおんなじようなことがかいてあるだけど、后段に重要なことがかいてあった。美濃電気軌道の7人のとりしまりやくのうち3人が上有知(こうずち)、すなわち美濃町の和紙商人だっただ。わが推測したとおりだ。この美濃町がいくつかある岐阜近郊のまちんなかでいちばんにぎやかで、いちばんちからのあるまちだったでこそ、1911年っていうむかしに岐阜からのはじめての郊外線として、この美濃町にむけて美濃町線が布設されただ。
名鉄美濃町線と旧制武義中学生(昭和初期)
名鉄美濃町線のモ510がた車両は、1926年に日本車両製造で製造された。当初は名岐鉄道笠松線で運用されておりましたけど、美濃電気軌道株式会社が名岐鉄道に合併吸収されたあとに美濃町線で運用されるようになりました。名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併し、名古屋鉄道が成立したあともながらく美濃町線で運用され、1967年に岐阜市内線と揖斐線(いびせん)との直通運転が開始されるにあたり、揖斐線に転用されました。
現在、旧名鉄美濃町線美濃市駅に静態保存されております。
(97) 美濃町資料館 - 美濃町線と武義中学生、(98) 説明がき
3枚めの写真は、美濃町線をはしっとったモ510がたっていう車両。旧美濃駅にも展示されとったやつだけど、これは1926年に登場したときの写真だ。鉄道の黄金時代をかんじをる。武義(むぎ)中学校ってのはいまの武義高校のことで、この美濃町の伝統校だ。最新鋭の電車にむらがる生徒たちも、ほこらしいきもちだったにちがいない。
美濃資料館をふくむ今井家住宅の見学をおえたとこで、また、館長さんからはなしをきくことができた。まずは、美濃町にあるおしろについてきいたところ、「これは関ヶ原で徳川がたについた大名、高山の城主もつとめた大名がきずいたおしろだけど、ほの一代でおわって、あとは幕府の直轄領だった」とのこと。「城下まちから商家まちにかわった」。つぎに、長良川に面したとこにかわみなとがあることについてきくと、「もともとかわぞいにあった上有知のまちが江戸時代当初の一代だけの大名によって、たかだい移転をしたもんだ」とのこと。なるほど、この一番町どおり、二番町どおりのとこはまわりよりたかだいになっとる。さらに館長さんはおしえてくれる。「たかだい移転したのはいいけど、たかだいであるだけにみずがないのが弱点になる。すなわち、火事によわい。ほのための対策が、かみだのみとうだつとひろいみち。かみだのみは、とおりのところどころのやねにのっとる秋葉さん。うだつは防火壁の機能をはたすもん。ひろいみちは類焼をふせぐための措置」。いやいや、まちのことがようわかるわ。じっさい、むかしのことになんでとおりのはばがこんなにひろいのかふしぎだっただけど、類焼をふせぐためだっただ。
ほいからきになっとったこと、なんで上有知のなまえをすてて美濃町っていうなまえにかわっちゃったのかきいてみた。館長さんはおしえてくれた。「この美濃町のひとたちがのぞんでかえたもんだ」とのこと。美濃っていうのは美濃のくに全体をさすだけど、われこそが美濃のなかの美濃だっていうようなことで、のぞんだらしい。「名称変更にはんたいが予想された岐阜県議会も、上有知商家のえいきょうりょくはつよく、質疑もなく可決された」とのこと。やっぱり固有名称をすてちゃったのはざんねんなことだけど、ほういう経緯だっただ。
今井家住宅から一番町どおりをちょこっとにしにいったとこから、きたにこみちをはいって、美濃和紙あかりアート館にいく。なかには美濃和紙の工芸作品が多数展示されとるほか、あかりまつりのときのまちなみの映像もあった。これがいまのよのふうけいか。
目の字から旧美濃駅をとおって美濃市駅にもどるみちすじで
たかだいをおりて、さらにきたにいくとおしろやかわみなとにいける。さいしょはいくつもりだったけど、この一番町どおり、二番町どおりを中心とするまちの繁栄とは直接関係もなさそうで、とりやめ。どっかでひるごはんをたべて、かえることにする。このひはすいようび。美濃和紙あかりアート館でおすすめのとこをきいたけど、おすすめのとこをふくめてすいよう定休のとこがおおいとのこと。自力でさがすことに。
二番町どおりにもてきとうなめしやさんがみつからん。よこみちにもみつからん。一番町どおりにもみつからん。さいしょのT字のとこからつながるえきまえどおりにはいっても、なかなかみつからん。やっと広岡橋もちかづいてきたとこで大衆食堂をみつけて、ここにはいる。
注文したのはとんかつ定食。ふつうにうまかった。じもとのひとのやっとるめしやさんだって、かえりがけにいろいろはなしがきけた。まずは一番町どおり、二番町どおりを中心としたむかしのまちなみ保存地区のことを「目の字(めのじ)」っていっとった。なるほど、目っていう漢字をよこにたおすとこの地区の街路のかたちになる。ほいで、この目の字にあるどのたてもんもくちかけとらんくて、きれいにととのえられとるとこにおどろいただけど、じつは「市の7わり補助によりこのようになっとる」とのことだった。さらに、「目の字のみせはよそもんがやっとるとこがおおい。3年間、市の補助がつづくだけど、3年たつと経営者のなまえをかえて、また、あらたに3年間の補助をえる。ほのくりかえしだ」って。ふーむ、ほんなうらもあったのか。
美濃町線のはなしもきけた。ここのおばあさんは55年まえにここにきただげなけど、「みんなこのまえのみちをとおって、えきにいっとった。すごいひとどおりだった。だけど、この10年でおちぶれた」って。えきってのはもちろん美濃町線の旧美濃駅のことで、目の字と旧美濃駅とのあいだをいきかうひとで、このとおりはおおいににぎわとっただ。ほいから、いつの時代のことだったかたしかめんじゃっただけど、「郡上八幡(ぐじょうはちまん)のひとは美濃町から馬車にのりかえていっとった」っていうことも。おばあさんのむすこさんらしいひともおしえてくれる。「目の字にはたしかに観光客がくるけど、みんなこのとおりとは関係のない、目の字にちかいとこにバスをとめていっちゃうで、まったく恩恵はない」って。さらに、「美濃町からはどんどんひとがでていっちゃう。いえをつくるでも、美濃町じゃなくて美濃町にちかい関市にいえをたてちゃう」って。現実はきびしかった。
(101) うだつのあがるまちなみ散策地図(長良川鉄道美濃市駅えきまえひろば)
めしやさんをでて、広岡橋をわたって、旧美濃駅のまえをとおって、また、さかをあがって、長良川鉄道の美濃市駅にもどる。いま美濃町の鉄道は、この岐阜につながらんくて、しかも非電化で、ひるまは1時間に1本もないような長良川鉄道しかないだ。しばらくしてやってきた気動車にのって、美濃町をあとにする。
(さんこう)
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- あかりをおおう…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年5月16日16:24
- あかりをおおう美濃和紙がやさしい。
- 鉄道の…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年5月16日16:21
- 鉄道の黄金時代だ。
- 秘密基地への…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年5月16日15:53
- 秘密基地への階段♪
- おねがいだ!…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年5月16日14:57
- おねがいだ! まあいっかいはしってくれ!
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- 美濃町線
美濃電気軌道は、市内線の岐阜駅前-今小町間の開業とおんなじ1911年2月11日、岐阜柳ヶ瀬(ぎふやながせ)-美濃(みの)間を開業。市内線の中間駅であり、岐阜のあたらしい繁華街である柳ヶ瀬から東北方向に、はもののまち関をとおって美濃和紙で有名な美濃にいたる美濃町線ができた。起点のわずかな変更をのぞいてはこれが美濃町線の最終形であり、いっきにこいだけの区間が開業したことにおどろく。おもうに岐阜、関、美濃とも長良川ぞいのまちであり、古来この長良川にそってひとやものの往来がさかんだったじゃないか。さらに上流には郡上おどりで有名な郡上八幡(ぐじょうはちまん)もある。のちに、木曽川の支流である飛騨川ぞいに布設された高山線がにほんかいがわにぬけて、この長良川流域はわきにおかれたっていうかんじがあるだけど、ほんとはまっと重視すべき地域じゃないかってきがする。
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