ぶらって刈谷まで - 2019年7月29日

2019.7.29 (6) 刈谷 - 於大どおりのかんばん 1030-1240

きょう2019年7月29日、ぶらって刈谷までいって、於大のかたがすんだっていう椎の木屋敷をみてきた。

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2019.7.29 (1) みなみあんじょう - 弥富いき急行 2000-1500

みなみあんじょうは高架のホームにあがったとこで、さいしょにみなみいきの西尾いきふつうがはいってくる。2両編成の3150系ぎんいろ電車。西尾線のふつう電車にぎんいろ電車はめずらしい。ちょっとしてきたいき、12時44分の弥富いき急行がはいってきて、のる。あっかい電車は4両編成の3500系きんぎょばち。東海道線をこえて地平におりる。電車は時速100キロであんじょう平野をきたにすすむ。ほのままの速度できたあんじょうを通過。ひだりにまがって、名古屋本線に合流。しんあんじょうは、6番のりばからあっかい電車の東岡崎いきふつうがでていくのをみながら、3番のりばに停車。西三河平野をにしにすすむ。ひだりにたんぼ。みぎにこうば。猿渡川てまえであっかい電車の吉良吉田いき急行とすれちがい。わが弥富いき急行のおりかえしだ。西尾線名古屋本線津島線の3線をとおしで往復する。牛田を時速110キロで通過。知立てまえみぎがわ高架工事げんばで、橋脚がたちあがってきたのをかくにん。ぎんいろ電車とすれちがって、12時53分、知立は5番のりばにとうちゃく。下車。おりたホームで三河線みないき電車をまつ。対面の4番のりばからのしゅっぱつになるで、こせんきょうをわたってホームを移動する必要がないだ。まつあいだに、5番のりばに岐阜いき急行がはいってきて、でていく。2両編成の3150系ぎんいろ電車と4両編成の3300系ぎんいろ電車を連結したやつ。4番のりばにおりかえし碧南いきふつうになる電車がはいってくる。5番のりばに2200系こおろぎの新鵜沼いき快速特急がはいってくる。りょうほうとも13時1分のしゅっぱつだ。乗客ののりおりをおえた新鵜沼いき快速特急がでていく。わずかにおくれてわが碧南いきふつうも知立をしゅっぱつ。相互のりかえも可能だ。

碧南いきふつうは6034編成2両のかんつうがた。ベンチシートのまんなかへんににぎりぼうがついとったり、はしっこにしきりいたがついとったりする、更新車だ。カーテンのかわりにあげさげしきのブラインドがついとる。座席は満席でたちきゃくが3わり。にぎやかなかんじだ。ハイキングのいでたちの高令男女3人のうち、おんなのひとふたりがおにぎりをたべとるのをかくにん。みなみにすすんで、相対ホームの重原に停車。のりおりなし。東海道線のみなみがわにまわりこんで、みぎにまがってにしむきになってすすんで、しましきホームの刈谷に停車。ようけのりおりがあって、たちきゃく2わりにへる。さきにまっとったはんたい電車も2両編成の6000系かんつうがただった。東海道線からひだり45度の方向にはなれていって、高架をあがってすすむ。

2019.7.29 (2) 知立 - 弥富いき急行 2000-1500

13時11分、しましきホームの刈谷市にとうちゃく。下車。けっこうなんにんかおりる。階段をおりて地平のかいさつ階へ。階段のほかにエレベーターがあるのを発見。しましきホームだでエレベーターは1基ですむだけど、設置してからなんねんかたっとるかんじだ。わがみなみあんじょうがことし2019年にやっとエレベーターがついたのとえらい差がある。

さて、ひるごはん。えきからいちばんすぐの食堂にはいってきすフライ定食を注文。やまや食堂っていう定食や。はらごしらえができたとこで、えきまえどおりをきたにすすむ。

2019.7.29 (3) 刈谷 - 於大どおり 2000-1500

刈谷市駅北交差点を直進。えきまえどおりからつづく於大どおり(おだいどおり)にはいっていく。いや、ほれにしてもあっつい。しゃれた街路灯のある、電柱のないきれいなとおりだけど、ひとどおりもない。いや、えきまえもえきまえどおりもずーっとひとどおりがなかった。みせは左右にぽちぽち。みぎに高層マンション。T字につきあたりになるとこで、また、左右に高層マンション。つきあたりのむこうに建築中の高層マンション。エクセルグランデ刈谷銀座タワーっていうなまえのマンションで、低層階にはみせがはいるってかいてある。にぎわいのきっかけになるか。T字の西南かどの道路元標があるのをさいかくにん。

道路元標のみぎに於大どおりの説明がきがあるのを発見。よんでみる。

「椎の木屋敷(しいのきやしき)に通じるみちであることから命名した。公募による」
「於大は1528年、初代刈谷城主水野忠政のことしてたんじょう」
まるで刈谷城でうまれたようにかいてあるけど、あとでしらべたら刈谷城の築城は1533年で、1528年はまんだ緒川城(おがわじょう)におっただで、於大は緒川城でうまれただ。緒川は境川をへだてたにしの東浦町(ひがしうらちょう)の区域にある。ちなみに、カツナリくんで有名な水野勝成は初代刈谷藩主。
「1541年、岡崎の松平広忠にとつぐ。翌年、竹千代をうむ」
竹千代はのちの徳川家康。家康のうみのははが於大なだ。
「1544年、刈谷にかえされて椎の木屋敷にくらす。ほのあと、阿久比(あぐい)城主久松俊勝にとつぐ」
離縁されてつぎのとつぎさきがきまるまでのあいだ、刈谷にくらしただ。阿久比にとついだのが1547年だで、椎の木屋敷にくらしのは3年。ちなみに、阿久比町(あぐいちょう)は東浦町の西南にある、知多半島内陸のまち。

ところで、説明がきのひだりよこにある地図がかすれてみえん。せっかくあるだで、きちんとしといてほしいもんだ。

T字を左折してにしにすすんで、すぐに銀座4丁目交差点。交差点の東北かど、UFJ銀行の一角に、ふだのつじあとのいしぶみがあるのをさいかくにん。銀座4丁目交差点を直進してほっそいみちにはいって、みぎおくにおおきなおやしき。ほのとなりにもおおきなおやしき。このあたり、まあちょっといくと町口門(まちぐちもん)っていう城門のあとがあるっていうとこになるだけど、刈谷藩重臣の末裔がすんどるのか。あっつい。みちはくだっていって、いちばんたにになるとこの十字路からひだりをみて、つきあたりに土蔵づくりっぽいふぜいのあるたてもんがあるのをさいかくにん。町口門はほのすぐみぎだ。十字路からまたにしにすすんで、自販機のある交差点をみぎ鈍角にまがっていく。まがってすぐみぎに刈谷市城町図書館と、ほのしきちないに文礼館あとのいしぶみがあるのをさいかくにん。すすんで、みぎに亀城小学校の校庭。ひだりに刈谷幼稚園。またちょこっとすすんで、みぎに郷土資料館。亀城小学校旧本館のたてもんを保存活用して資料館にしてあるもんで、風格のあるたてもんだ。一部、外壁をかこんであしばがくんであるだけど、なんの工事か。ここでみちをひきかえす。からだじゅうからあせがながれおちる。

いちばんたにになるとこの十字路までもどる。西北かどに魚安本店。ここを左折して、きたにすすむ。左右は住宅街。

2019.7.29 (4) 椎の木屋敷あと - 於大の銅像 2000-1500

みぎに椎の木屋敷あとのいりぐちを発見。ひだりおれのさかみちをあがりきったとこで、ひだりがわに椎の木屋敷あと。こだちのなかにあずまやと便所、かれいけがあって、於大の銅像がある。みちのはんたいがわに椎の木屋敷の由緒がきをかいた石板のいしぶみがあって、よんでみる。

刈谷城のたにをへだてた東北に位置する。しいのきがおおくしげることから椎の木屋敷のなまえがついた。藩政期は霊地として一般のひとのでいりは禁止だって、中央に五輪塔が数基あった」
さっきの郷土資料館からまっとにしにいったとこに刈谷城はあっただけど、たしかにここはたにをへだてたとこにあるわ。
1871年、井野氏がこの土地をゆずりうけて、庵室をもうけ、大部分を庭園として、むかしのおもかげをのこしたけど、いまは住宅地化されとる」
たしかに、ここにくるまでまわりは住宅街だった。
刈谷市が市制30周年事業としてこの土地の一部をゆずりうけて、慈母のかがみである於大のかたを顕彰し、由緒ある旧跡として保存することにした」
刈谷市が市制施行したのは1950年4月ついたちだで、ここが整備されたのは1980年のことだ。ちなみに、わがあんじょうしが市制施行したのは1952年5月いつか。刈谷市のほうがおにいさんだ。

いしぶみのうらがわに、「寄贈、1980年、刈谷衣浦ライオンズクラブ」ってかいてあるのをかくにん。

こっからおくにくだりざかをくだって、住宅街のなかをきたのほうにぬけていく。おおきなとおりにでた八幡町(はちまんちょう)交差点の東北に、どでかいいしがきづみがあって、かわらやねのついたしろい土塀のある、広大なおやしきを発見。ここにも刈谷藩重臣の末裔がすんどるのか。まちあるきはここまでにして、もどることにする。

2019.7.29 (5) 刈谷 - 於大どおりのかんばん 1530-1120

於大どおりをもどっていくとこで、於大どおりのかんばんを発見。いきに説明がきを発見したとこだけど、かんばんもあるだ。

刈谷市のえきにもどって、かえりの電車にのる。


(さんこう)

  • 乗車記録 - 2019年7月29日、げつようび、平日
    • みなみあんじょう 12:44 → (弥富いき急行) → 12:53 知立
      〔8.8km、9分、58.7km/h
    • 知立 13:01 → (碧南いきふつう) → 13:11 刈谷市
      〔5.5km、10分、33.0km/h、みなみあんじょうから刈谷市まで400円〕
  • 刈谷城下をあるく - 2019年5月16日 - あきひこゆめてつどう|2019/06/25
    • 2019年5月16日、刈谷城下をあるいた。いや、刈谷って城下町っていうけどぜんぜん城下町っぽいとこなんかないじゃんかっておもっとっただけど、じつはあっただ。なんじゅうねんもとなりの市にすんどりながらしらんかっただけに、おどろきはおおきかった。このひもじつは、ことし2019年3月にじゅうよっかに開館したばっかりの刈谷市歴史博物館にいくのが目的だって、刈谷市駅からあるいていくとちゅうにたまたま「刈谷城下」を発見したってわけだ。城下をあるいたようす、博物館を見学したようすを、以下に紹介する。
  • 於大の方 - Wikipedia
    • 於大の方(おだいのかた、1528年 - 1602年10月13日は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」、または「太」「たい」。なお、1850年10月29日に従一位贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。
    • 1528年、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城で生まれた。
    • 父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、1541年(天文10年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。1543年1月31日(天文11年12月26日)、於大は広忠の長男・竹千代(后の家康)を岡崎城で出産した。
    • 忠政の死后、家督を継いだ於大の兄・信元が、1544年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。於大は1547年には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死后は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には3男3女を儲ける。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けた。
  • 椎の木屋敷 - Wikipedia
    • 椎の木屋敷(しいのきやしき)は、愛知県刈谷市にある史跡。「椎の木屋敷跡」として1997年3月13日に刈谷市指定文化財に指定された。
    • 刈谷城本丸(現在の亀城公園)から真東に500メートルほど、磧川(せきのかわ、現在は暗渠)を超えたあたりは周辺より5メートルほど高くなっている。現在は刈谷市立亀城小学校と正覚寺に挟まれたこの高台にはかつてシイの木が生い茂っていたことから椎の木薮とも呼ばれ、この付近一帯の土地を椎の木屋敷と呼ぶ。
    • 水野忠政の娘於大の方は未通女だった1541年松平広忠に嫁ぎ、数え年17才の1543年に竹千代(后の徳川家康)を出産した。しかし、1544年に実家の水野家が松平家と離反したため、松平広忠から離縁された。この際、岡崎城から刈谷の水野家に戻ってこの屋敷に住んだとされる。
    • 江戸時代には霊地扱いされ、屋敷の出入口に鍵が掛けられ、庶民は立ち入ることができなかった。かつて文字通りの屋敷建築物も存在し、敷地の中央部には数基の五輪塔があったとされる。於大は1547年阿久比久松俊勝と再婚し、椎の木屋敷を離れて坂部城に移った。
    • 大政奉還后の1871年には井野氏がこの土地の所有者となり、敷地の大部分を庭園とした上で新たに庵を設けた。やがてこの土地は宅地化されたが、刈谷市は1980年の市制30周年記念事業として土地の一部を取得し、1997年3月13日に刈谷市指定文化財(史跡)に指定した后、1999年には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、政略結婚の末に捨てられた恨みからか、あるいは置いていった我が子・家康を思ってか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。
  • 吉良吉田いき急行 - 2019年7月29日 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2019/07/29 〔ついか〕