うきじろ

2020.5.5 (13-1) あんじょう城あと - うきじろのその 850-850

あんじょう城ってうきじろっていわれとったげな。しろあと公園の一角に、銅板かなんかでおしろのうきぼりがつくってあって、ほの説明がきにほうかいてあった。

洪積台地(こうせきだいち)である碧海台地(へっかいだいち)のひがしがわはリアス式海岸沖積平野(ちゅうせきへいや)のうみに、いくつかの半島がつきでとる。上条(じょうじょう)半島、あんじょう半島、ふるい半島、さくらい半島なんかで、それぞれの半島にむらがある。あんじょう半島にあるのがあんじょうむら。むらのにしがわが西尾、ひがしがわが東尾。ほいで、東尾からさらにみなみにむかってみさきがつきでとって、ここにうきじろ、あんじょう城があった。

じっさい、おれが小学校のときまで、台風のときなんかは、あんじょう半島とふるい半島のあいだはうみになっちゃって、みちもとおれんくなっとった。まんだ5、60年まえのことだ。あんじょう城ののるみさきのにしがわなんかは、台風のときなんかじゃなくても、ふだんからどぼどぼのぬまち、またはどろたってかんじのとこで、うきじろっていう表現は、ほんとにぴったりだって実感できる。うみにうかぶうきじろだ。

このうきぼりもこのしろあと公園も、ほんなうきじろをよう表現しとる。

2020.5.5 (13) あんじょう城あと - うきじろのその 2380-1250

いま了院(りょういん)こと了雲院大乗寺(りょううんいんだいじょうじ)がたっとる、きたがわのおかがほんまるあとで、東尾のおみやさんこと八幡宮がたっとる、みなみがわのおかがにのまるあと。おとずれてうきじろをかんじてみるといい。

〔2020年5月いつか訪問〕


(さんこう)

  • あんじょう城のうきぼり - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/09
    • 安祥城址公園の一角にあんじょう城のうきぼりがある。
  • しろめぐりであんじょう城と桜井城、藤井城、本証寺城をみてきた - 2019年12月はつか - あきひこゆめてつどう|2019/12/20
    • 集合ばしょのあんじょう市民ギャラリーからひがしにちょこっとあるいて、あんじょう城あと。これまで安祥城(あんしょうじょう)っていっとったけど「あんじょう城」のほうが正解みたいだ。もともとあんじょうっていう地名があって、ほこにおしろができたでだ。おしろができたのが1440年。1355年の親鸞のやしゃごの日記で、あんじょうっていう地名がかくにんできるだげな。
    • ひだり、了雲院(りょううんいん)こと大乗寺のあるたかだいが本丸で、みなみはしにやぐらがあっただげな。みぎ、東尾八幡宮のあるたかだいが二の丸で、あんじょうし歴史博物館のきたがわのへんが三の丸。1440年、和田親平(わだちかひら)が、いまの農免道路ぞいにあったあんじょう古城からこの地に移転。1471年、岩津城主松平信光があんじょう城をうばいとって、ほのあとここが松平氏の本拠地になる。うばいとるにあたっては、場外でぼんおどりをやって城兵をさそいだしといて、ほのあいだにうばいとるっていう方法をとったらしい。おかげで、あんじょうむらのひとたちはぼんおどりがだいきらいだっていう。1540年にいたって、織田信秀にうばいとられる。1549年、今川氏のたすけをかりて、ふたたび松平氏がうばいかえす。このときとらえた城代の織田信広と、竹千代をひとじち交換。これがなかったら、のちに江戸幕府をひらいた徳川家康はなかったかもしれん。1540年から1549年にかけてなんかいかおこなわれたいくさをあんじょう合戦っていう。本拠地が岡崎にうつったあとの、1562年ごろ、あんじょう城は廃城となる。122年間のしろだった。
  • 大乗寺(愛知県あんじょうし)安祥城あと:おてらのふうけいと陶芸|2018年06月07日
    • 安祥城跡(安城城跡)に建つ大乗寺は、徳川家康の先祖・徳川宗家4代当主・松平親忠が1489年頃安祥城主となると、城の鬼門除けとして了雲院を開創したと伝えられ、その了雲院が1792年安祥城跡に了雲院大乗寺として移転しとる。なお、徳川家康松平宗家9代当主で、徳川氏初代である。
    • 安祥城主は松平親忠松平清康と4代続き、1562年廃城となっとる。大乗寺は本丸跡に建ち、かっての城の風景を想起させる風景である。